第9話

文字数 1,225文字

 仕込みがあるので、キッチンスタッフの出勤時間は早い。開店時間は六時だが、三時にはタイムカードを切る。新人のコック(石井大成というそうだ)にも二時半にはきてくれと言ってあるはずであった。しかし定刻を十分過ぎても新人は現れなかった。清志は考えた。このところ物事の判断基準がパワハラか否かになっている。彼の性格上、いくら新人とはいえ遅刻を見逃す事は出来ない。だが以前のように頭ごなしに怒鳴りつければ
(初日から怒鳴るなんて、栗原さんの方が言語道断です。厳しいだけじゃ人はついてきません)
などと原沢から冷ややかに言われる事は目に見えている。穏便にしなければ。そうでなくても人は簡単に壊れるのだ。


 大きく深呼吸をし、気持ちを落ち着かせた。一向に新人が来ないため表を見に行くことにした。すると向かいのおでん屋の前、電信柱の脇にいた男が一人、こちらを見ている。しかしコックコートを着た清志を見てはいるが、何か話しかけるわけでもなく、泳いだ視線をただ向けているだけであった。
「何かようか?」
以前、清志は風貌、声質共にプロレスラーのようだと言われた事がある。上背もあり腕っ節も強い。また野太い声をしているため、この一言でも迫力満点だ。
「あの…その…えっ、えっ、はい。そ、そうです」
しどろもどろになりながら男は答えた。が、それっきりである。答えたきりだ。男の煮えきらない態度に清志は鼻白み、少しムッとしている自分に気がついた。しかし
(栗原さん、初めから彼が新人かもしれないって、頭にありましたよね?ならば、何故そんな突き放したような物言いをなさるのですか?歳が上なら、初対面の相手にも、そんな物言いが許されると思っているのですか?でしたら底意地の悪い人ですね)
またしても原沢の声で幻聴が聞こえてきた。清志は逆に幻聴自体にムッとしそうになりながら
「えっと、新人の石井くん?」
努めて穏やかな口調で聞いた。せっかく清志が穏便を心掛けているのに、男の慌てぶりは治ることなく
「…えっと、その、そうです」
しどろもどろである。そしてまた、それっきりだ。遅刻した理由と謝罪を言うべきじゃないのか。言葉が喉まで差し掛かる。しかし近頃は正論は暴力と聞いた。口を慎まねば。
「じゃあ中へ。まず着替えてくれ」
無表情のまま店内へ案内した。石井も無言のままついてくる。自分自身を偽っていると清志は感じた。こんな関係でいいのだろうか。そう思うと怒りに似た責任感が広がる。嘘偽りで物が教えられるか。そんな強い気持ちが浮かんだが、すぐさま
(みんな大なり小なり必要に迫られ、嘘をついています。それでも世界はちゃんと回っています。キッチンなんて狭い世界で、ふんぞり返っているから、こんな小さい事に目くじら立ててしまうのです。実るほど頭を垂れる稲穂かな、という言葉をご存知ですか?)
原沢の幻聴が聞こえた。幻聴のくせに自己啓発本みたいな事ばっかり言いやがって。清志は毒づいた。
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