九 天野の妻

文字数 2,629文字

 四月。
 就職したら車が必要になる。そのことを明美に話して承諾を得て、田村はスナック・スターゲートで天野に車の必要性を語った。
「そしたら、今度の日曜、俺の家に来いよ。錦糸町の・・・」
 天野は田村に住所を説明した。炉端焼き・里子やスナック・スターゲートのどちらかで天野に会えたため、田村は天野の自宅を知らなかった。

 次の日曜の午後。
 錦糸町のロータリーから南へ入った、通りに面した小さな一戸建ての前に立った。
 ベルを鳴らすとドアが開き、見覚えない女が現れた。
「田村君ね。天野の妻のセツコです。天野は出かけてるけど、しばらくしたら帰るから、あがって!」
 セツコは田村を笑顔で室内に招いた。天野が一人で住んでいると思っていた田村は驚きを隠せなかった。
「私、Y自動車のディーラーの事務員をしてるの。T市からこっちへ移動になって、天野がディーラーに務めてるときに知り合ったのよ。
 ああ、実家がT市なのよ」
 セツコは座卓の田村の前へお茶を置いた。セツコは二十代の後半ほどだろうか。
 セツコが天野とのなれそめを話しはじめた。

 七年前。
 ディーラー内で、天野四郎は家を建てていると評判だった。セツコは、天野四郎は若いのにしっかりした男だ、と思った。すでにこの時、天野は結婚していた。妻の実家が妻のために家を建てていた。天野が独身だと信じでいたセツコは、そんなことは何も知らなかった。ディーラーの男たちは、天野が妻帯者であることを知っていたが、誰一人として職場の女たちに男たちのプライバシーを話さなかった。女たちを餌食にするような、ひどい男たちだった。
 天野は結婚して一年ほどで離婚した。
「妻が、俺とセツコが付き合っているに気づいたため」
 と天野はセツコに話したが、実際は天野が顧客の女に手を出したためだった。

 天野の妻は気の強い女で、天野の背徳を一つとして許さなかった。妻は子どもを天野に押しつけ、天野を家から叩き出して離婚した。
 天野は、子どもを近くに暮らす天野の母親に委ね、セツコと同棲しながら、天野は経営するスナックや炉端焼きの女たちに手を出した。
 セツコは天野の離婚騒動を何も知らず、昼はディーラーで車を販売し、夜は雇われ経営者として店を切り盛りする天野を精力的な男だと思い、セツコは愛されていると思った。

「でもね、天野の実態を知ったのよ。息子はお祖母ちゃんとこに居るし、今も車の販売先のお客に手を出すし、大変よ。あら、スナックや炉端焼きの女たちにも手を出してるの知ってるわよ」
 田村の顔色が変化したのを感じてセツコはそう言い、ニコニコ笑っている。
 現在。天野の息子はセツコをセッちゃんと呼んでなついているらしかった。今年で六歳になると話しながらセツコが顔を伏せた。
「あの人、女がいないとダメなのよ。妻のほかに・・・」
 上目づかいに田村を見て寂しそうにほほえんだ。
「あらっ、帰ってきたわ!」
 戸外の車の音を聞きつけ、セツコは席を立った。
 その後。田村は帰宅した天野と話し、卒業間際に質の良い中古車を買うことになった。


 帰宅後。
 田村は明美に車の購入方法と、天野の妻セツコについてありのままを話した。
 明美は黙って田村の話を聞いた。明らかに天野の性格は常人とはちがう。一般人よりすぐれた商才と病的な好色傾向があると明美は思った。

 四月半ば、夕刻。
 珍しく田村は風邪で寝込んだ。明美は夜勤と半夜勤がつづいて家にいなかった。どこから田村が風邪を引いたのを聞きつけたのか、セツコが田村の自宅を訪れた。
「見舞いに来たわ」
 田村は、天野四郎が気をきかせ、寝込んでいる田村の世話するため、セツコをさし向けたと思った。田村は天野に明美の存在を話していなかった。天野は明美と面識はない。もちろんセツコも明美と面識はない。
「何か頼みたいことはないの?」
 セツコは田村のことをいろいろ訊きながら、押し入れをあけて布団の数を確認している。いくらのんびりしたセツコでも、そろそろ明美の存在に気づくはずだ・・・。それにしてもセツコの様子が変だ・・・。そう思う田村はずっと寝たままだったので腰が痛かった。
「ずっと寝てて、腰が痛い・・・・」
「腰、揉んであげる・・・」
 セツコはしばらく田村の腰を揉んでいたが、急に何かを思いだしたように、
「家で夕食を作るから帰るね」
 と言って帰った。明美の存在に気づいて長居せずに帰ったのだろうと田村は思った。

 翌日夕刻。
 天野から連絡があった。
「セッちゃんがそっちへ行っていないか?」
 電話の天野は何か言いたげだったが言えずにいる感じだ。田村は、昨日、セツコが見舞いにきてくれたことと、天野が気を利かしてセツコを見舞い寄こしたことにお礼を述べた。
「昨日はありがとうございました。昨日、お見舞いに来てくれました。
 天野さん。いろいろ気をつかっていただき、ありがとうございます」
「独り者は、何かと大変だからな。
 早く、風邪を直して飲みに来てくれよ・・・」
 天野はぎこちなく返事して通話を切った。セツコは天野に田村の家の状況を話していないらしかった。田村は天野とセツコの間に異変があったのを感した。

 その翌日午前中。
 夜勤明けの明美が帰宅した。
 田村はセツコが訪ねて来たことと、天野から連絡があったことを明美に話した。
「セツコさん、家を出る気だね・・・」
 明美は、腰が痛いと言う田村の腰をさすった。省吾は他の女に躰を触れさせた。あたしの省吾なのに、なんで他の女に躰を揉ませるの。私だけの省吾だよ。明美は田村にそう言ってやりたかった。
 明美の思いに気づかぬまま、田村は布団の枚数を確認していたセツコを思いだした。
「とりあえず寝泊まりするところを探してたんだ・・・。
 明美の存在に気づいて、すぐ帰っていった」
「彼女の実家はどこ?」
「T市だと言ってた・・・」
「それなら実家へ帰ってる・・・。私ならそうする」
 明美は考えこんだ。セツコのことじゃないよ。省吾、他の女に気を許すんじゃないよ。あたしの気持ちに気づけ、省吾のばかっ・・・。

 午後。
 睡眠中の明美は田村の声で目覚めた。田村は天野の友人、電気店の木村と話している。
「天野さんの奧さん、セッちゃんが逃げたんですか?家出したんでしょう!」
 セツコが天野の家を出たのは、田村を見舞いに来た直後だった。田村は、明美が推察したとおりだと思った。
 電話が切れた。田村は、木村から連絡があったことを明美に話すべきではないような気がした。
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