十 筋弛緩剤

文字数 1,955文字

 五月二十七日、日曜、早朝。
「省ちゃん。具合はどうなの?」
 朝食後、夜勤明けの明美が、キッチンテーブルでコーヒーを入れながら田村に訊いた。近頃、田村の体調は良好で変化はない。

 今月初め。
 田村は手に力が入りすぎてコーヒーカップの取っ手を三個も折っていた。
 明美が勤めている県立病院で診察を受けると、過去に頸椎を怪我して自然治癒していることがわかり、医師は、
「この怪我による頸椎の変形が原因かも知れません。筋弛緩剤を出しておきます。手や腕が異常に力が出る場合に服用してください。危険はありませんが強い薬です。異常に力が出る場合に、一錠だけ服用してください」
 と言って筋弛緩剤を処方した。
 一週間、処方された薬を服用すると田村の症状は改善し、以前と変らぬ日常がもどった。

「快調だ。薬が効いた」
 テーブルに着いた田村は、右手を動かしながらコーヒーを飲んでいる。
「最近、飲みに行かなくなったね」
 明美はテーブルの相向いに座って田村を見つめた。
「医者から止められた。それに卒研で忙しいし、就職試験もあったからね。
 だけど、飲んでも身体に良くないし、無駄なだけだと気づいたよ」
 田村はコーヒーカップを持ったまま笑顔で明美を見ている。 
「就職は決ったから、あとは卒研だけだね」
 明美はそっと手を伸ばし、田村の手を握った。頬に笑みがあふれてゆくのがわかる。

 五月半ば。
 地元有力企業の就職試験の際、田村は病状を話した。面接官は、
「もう改善したんでしょう。何も問題ないですよ」
 内定したような口調で田村に接した。書類審査で内定を決めたのだろうと田村は思った。田村が感じたとおり、就職内定の知らせが来た。面接の二日後だった。

「そうだね。卒研だけだ・・・」
 田村はあいかわらず三軒の家庭教師を掛け持ちしている。
 朝から夕方まで大学の研究室で実験し、合間に授業を受ける。夕刻から家庭教師をして午後八時に終り、どこにも寄らずに明美が待つ家に帰宅する。
 明美が勤務で遅くなる時は、田村が夕飯を作り、明美の帰宅を待つ。
 明美が夜勤のときは、卒研の記録をまとめ、今後の実験方法を考察する。
 田村のそんな日常がこの春からつづいている。
 明美を婚約者だと大家に紹介して、田村が明美といっしょに暮らすようになって以来、明美と田村は、
「新婚と同じだからいいね」
 と大家から言われる。
 明美は大家の娘と顔見知りで、大家は明美の原田家と親しい間柄だ。そのため大家から明美と田村は身内のような扱いをうけている。

 田村は立ちあがった。飲み終えたカップをシンクに置き、明美を背後から抱きしめた。そして明美の顔を仰向けにして唇を重ねた。
「向きを変える。これだと疲れちゃう・・・」
 明美は唇を離して立ちあがり、隣室へ田村の手を引いた。
 居間の奥の寝室で、明美は田村の首に腕をまわした。明美の望みに応え、田村は明美を抱きしめた・・・。
「ねえ・・・」
 明美は田村の目を見つめた。
「うん・・・」
 田村が明美を見つめかえしている。
「ずっといっしょだね」
 明美は田村の頬を優しく撫でた。
「ああ、仕事も決った。卒業したら明美の実家で暮そう・・・」
 田村が内定した企業は明美の実家から近い。明美の勤務先はこの家からも実家からもほぼおなじ距離にある。
「私、省吾といっしょになれて幸せだよ」
 明美は田村を引きよせて唇を重ねた。田村は明美を抱きしめた。明美は田村の唇や頬や首筋に何度も唇を触れた。

 正午近くに目覚めた。
 明美は田村を見た。ぐっすり眠っている。目の下に隈ができている。このところ忙しかった上に、思わぬ後遺症が出て疲れたんだろうな・・・。
 明美は最近、田村の口数が減ったのを感じている。卒研と就職試験で忙しいせいだと思っていたが、卒研だけになった今も、さらに口数が少なくなった。マリッジブルーかな。
 田村を見つめたまま明美はほほえんだ。
「起きてたのか・・・」
 田村が目覚めた。明美の首と頭に手を触れて抱きよせ、唇を重ねた。
「ネエ、省吾。疲れてるんでしょ。もうちょっと眠りなよ」
「起きてカレーを作る。
 明美は夜勤明けなんだ。ゆっくり休め。休まないと、こうだぞ・・・」
 田村の手が明美の胸へ移動する。
「あぁっ・・・」
 明美は動けなくなってそのまままどろみはじめた。

「あけみ・・・」
 田村の声とスパイスの利いたカレーの香りで明美は目覚めた。一時間くらい眠っていたらしい。目の前に田村の顔がある。明美は甘えた声でささやいた。
「ネエ、抱っこして起こして・・・」
「うん。カレー食べよう」
 田村は明美の唇に唇を触れて抱き起こし、抱っこしたまま居間へ運んだ。居間の座卓にカレーとサラダが用意してあり、スープもある。
「ありがう。省吾。大好きだよ。顔、洗ってくるね」
 明美は洗面所へ移動した。
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