001 渦中の人

文字数 4,813文字

 花のにおい、柔らかい陽射し、頬をひんやりと触れていく風。
 いい天気やなぁ。マンションのエントランスを出た久野(くの)(あやめ)は目を瞑り、大きく大きく息を吸う。
 入学式、通学路、クラス替えに新しい友達。ドキドキしてきた春の思い出がよみがえる。うん、まだ春の朝のにおいやね。
 軽やかな足どりで住宅街を抜けると、多くの人が吸い込まれるように双葉駅の中に入っていく。菖は駅に入ろうとする篠宮(しのみや)千緒(ちお)を見つけた。
「おーい、千緒! おっはよう!」
 白いブラウスに、金糸でNの刺繍が施された緑色のチェックのネクタイを締めた千緒が振り向いた。菖を見つけ、笑顔を向ける。
「菖! おはよ、一緒に行こー!」
 黄色のパスケースを、早く早くと上下にぱたぱたと振っている。菖は小走りで駆け寄った。
 親友の千緒とは小学校からずっと同じ学校で、ご近所さんだ。眼鏡からコンタクトに替えた笑顔が眩しい。せっかくなら冒険してみよう、と初めて焦茶色に髪を染めた内巻きボブスタイルも、とても似合っている。
 中学3年生の夏休み明けから、頑張ってダイエットした甲斐があったと思う。それでも今の千緒はまだ、ぽっちゃり体型などと呼ばれるのだろう。
 どんな体型でも千緒は可愛いんやって! 菖はそう思っていたし、今も変わらず思っている。千緒が少し気にしている厚めの唇はとてもキュートで、ひよこのような愛らしい顔立ちをしていた。
 千緒ピヨ、ピヨちゃんなんて呼ばれることは嫌ではないらしく、本人もひよこモチーフを集めたり、黄色をイメージカラーにしていた。
 悩みなんて人それぞれ、ないものねだり。千緒本人が変わりたい、オシャレして可愛くなりたい、と切望したために、ちょっとした高校デビューならぬ改造計画を菖が立ててあげたのだった。
「今日はまた、あったけぇなぁ」
 駅に入る寸前、菖は身体を伸ばしながら天を仰ぐ。ノーネクタイにして正解だった。
「ほんと、こないだまで寒かったのに。暑くなるの早そうやね」
「早い早い、今年も絶対暑いわ!」
 近年の夏は猛暑に加えて、春と秋を奪っていく長さだった。
 今年こそは、ちゃんと日焼け止めを塗らんとあかん。あたしは今では色白なほうやけど、肌が焼けやすい。でも残念なことに、ズボラな性格が勝ってしまう。
 改札を通って上りエスカレーターでホームに着くと、ちょうど良いタイミングで南陽(なんよう)高校前駅で停まる電車が着く。南陽高校は、ふたりがこの春から通っている高校だ。「ラッキーやね」と笑いながら、電車に乗り込む。
 双葉駅から学校までは10分程。朝は混んでいて、ほとんど座れない。
 ふたりは自然と、入った扉とは反対側の扉近くに立ち、おしゃべりを始める。
「ねぇ、菖。美術科ってもうみんな、すごい仲良しやない?」
「まあね、ザ・和気藹々(わきあいあい)って感じ! 千緒のクラスは特進やん? 頭いい人ばっかりなんやし、仲良くってのはまだ時間掛かるんちゃうん?」
 千緒は1組特進科、菖は8組美術科だ。教室は一番離れているし、勉強内容も一番離れているような気がする。
「毎年思うけど菖がいるクラスってさ、面白くなるよねー」
「どーいうこっちゃねん!」
 菖のツッコミに千緒が笑いながら言う。
「だってさ、底抜けに明るいタイプがこっちおらんのやもん」
「あたしが思うに勉強できる人ってさ、静かだったり落ち着いとる人多いやん? でも実は、話してみると変わった人、めちゃくちゃ多いんやよ」
 勉強が得意な人と話すと、知らないことや驚くことを教えてもらえたりして楽しい。雑学に長けている人もいる。話しかけにくいオーラをまとっていても、ツンツンとつついていくと打ち解けたりしてとても面白い。
「それがさ、うちのクラス、頭だけじゃない人もおるんよねー」
 銀色の手すり棒につかまり、困ったような、つまらなさそうな顔をする千緒を見て菖は思い出した。
 そうだった。南陽高校初の試みでなぜか今年度は、特進科にスポーツ推薦が加わったのだった。特進科や美術科以外に、機械科など様々な勉学に取り組めるよう特化した南陽高校は、体育の授業を最低限しか行わない。運動部どころか、プールすらもない。
 そんな学校の学力向上クラスに、スポーツ推薦枠から10名弱も入学した。
「なんだっけ、スケートの……」
 顔をしかめた菖の腕を叩いて千緒が答える。
剣崎(けんざき)望夢(のぞむ)! フィギュアスケートの選手!」
 その名前はテレビで何度か聞いたことがあった。地元のテレビ局のニュース番組。スポーツで有名な同い年の男子が、この県内にいる。そして同じ高校、らしい。
「あー。その人も名前くらいやし、他のスポーツ推薦の人なんてあたし、全然知らんわぁ」
「私も知らんかったんよ。剣崎以外はね、陸上や柔道で有名な子んたみたい。全員、男子! ちょっと不良めいた感じでさぁ。浮いとるんよね、あいつら」
「え? 千緒、大丈夫?」
 途端に菖は心配になる。おとなしい生徒の比率が高いクラスに、そんな奴ら大丈夫かぁ?
「大丈夫、大丈夫。そんでさ、その一番有名な剣崎がまだ、一度も学校に来とらんのよ」
「ええっ?!」
 大きな声を出してしまった。人差し指を口元に立てた千緒が、シーッと小声で注意してくる。
「ごめんごめん、だってもうゴールデンウィークやよ?」
「ね、もしかして登校拒否みたいな子なんかなぁ?」
 首を傾げながら千緒は、窓の外を見る。
「せっかくのスポーツ推薦なのに? どのみち1か月も学校来てないってさ、単位どうなるんやろな」
 つられて菖も窓の外を見た。あと少しで学校だ。
 南陽高校は高等学校にしては少し異色の、単位制の学校だった。今はクラスごとで授業を受けているが、1年生後期から自分で時間割を決めていく。違う専門分野の授業を受けることも可能なのだ。たとえば美術科の菖が、被服科の授業を受けてもいい。
 単位さえ保持していれば学年途中からの編入も可能で、ごくたまに、他校で不登校の生徒が転入生のようにクラスに加わったりもするらしい。
 どうして学校来ないんやろ? せっかく受かったのに……しかもスポーツ推薦なんやから、特待生みたいなもんやん?
 各中学校が持つ推薦枠でなんとか合格した菖は、南陽高校の突然のスポーツ推薦枠を特待生扱いだと考えていた。そんな特待生が、不登校かもしれないなんて。
 あれやこれやと単位について話していると、電車が南陽高校前駅に着いた。駅名のとおり、駅前はすぐに学校ということがありがたい。
 改札を出た生徒たちが次々と、小さめの道路を渡って校門をくぐる。深緑色の大きな校舎、本館の4階が1年生の教室だ。
「千緒、今度さぁ帰りにプリクラ撮りに行こ!」
「いいね、行こ行こ!」
 入学した直後は階段の距離がつらかったが、今は慣れたものでいい運動になっている。4階に着くと千緒は左へ、菖は右へ。
 じゃあね、と手を振る千緒を見てふと思い出す。
 ふたりとも同じ高校に行くことが決まったとき、千緒が言ったのだった。
「高校行ったらさ、素敵な恋愛しようね!」
 思い返せばお互い、ひとつも浮いた話があらへんなぁと笑ってしまった。


 梅雨があったのかわからないくらい、少し早い夏を迎えようとしていた。朝なのに太陽のジリジリした音が聞こえてきそうで、菖は目も耳も塞ぎたくなる。もう春のあの空気は、跡形もない。
 学校行きの電車に乗って袖先の腕を見ると、少し日焼けしている気がした。早すぎんだろ、日焼け止めまだ買ってねーよ。心の中で落胆の声を出す。
 菖は先輩たちを見習って、最近はポロシャツで登校していた。なるほどこれは快適である。
 ネクタイと同生地で仕立てられた緑色のチェックのボトムは、ロングパンツかスカートの二種類。どちらかを履いていればそれ以外、多少の制限はあるものの、服装は自由だった。
 校則を知ったときはとても驚いた。中学校のあの厳しすぎる校則に、意味があったんだろうか?
 以前はキュロットも選べたらしい。選ぶ生徒が意外と少数で、廃止になったと聞いた。スカートだと多少、ウエストを折ったりして丈の長さが変えられる。しかしキュロットは元から丈が短い。それならロングパンツを選択するという声も、わからなくなかった。
 菖も迷った末、スカートに決めた。本当は両方欲しいくらいだった。
 トップスは基本的に自由で、無地であれば何色でも良い。ポロシャツは黒色を選んだ。黒が好きだし、何より下着が透けないようキャミソールやタンクトップを着ることが苦手だからだ。
 夏は重ね着なんて極力したくない。これから先、猛暑になっていくのなら、ペラペラの薄いTシャツにするかもしれない。
 ただでさえブラジャーって暑苦しい! それに、白いブラウスだと声を掛けられたり、雨の日なんて変な視線を感じる。満員電車で一人だと、たまに身体を触られているような、痴漢かどうか紛らわしい、気味の悪いこともよく起きる。
 ほら、今も。混雑した車内で、身体の向きを変える振りして、胸にぐいぐいと肘を押し当ててくるスーツの男。菖が睨むと、スッと違う方向を見て素知らぬ顔をする。
 腹が立つ! 女ってほんと、損してる気するわ……。
 溜息をつきながら改札を出た。目の前の校門に、何やら人だかりができている。
 生徒に混じって大人、スーツ姿、よく見ると大きなカメラを持った人もいるではないか。騒然としている中、何やら声が聞こえてきた。
「おはようございます! 生徒以外は、立ち入り禁止! 立ち入り禁止でーす! はい、おはよう、すぐ中に入ってね。はい、おはよう、あ! そこの記者の、腕章の人! 敷地内入らないでねー! 生徒を映すことは禁止です! き、ん、し!!
 梯子(はしご)に乗った、筋肉命の体育の先生だった。拡声器を使って呼びかけている。軽快なリズムで演説しているかのような先生は、胸元の笛まで吹きそうな勢いだ。
 人混みに不快指数がさらに上がる気がしたが、何とか校門を突破し校舎の中に駆け込む。
「もー、なんなんあれ、テレビ?」
「何事? 事件でも起きたん?」
 いつもの朝よりあきらかにザワザワしている。みんなが何が起きたかを知りたいまま、答えにありつけず階段を上る。
 すると3階の2年生が大きな声で、「スケートの奴が学校来たんだってよぉ」と触れ回っていた。
 千緒が言ってた、フィギュアスケートの?
 やっと学校に来れたっていうのに、こんなに騒がれるなんて! かわいそうやん……。これが、有名税ってやつ?
 美術科の教室内は、下の騒ぎの話題で持ちきりだった。
「ねぇねぇ、カメラマン見た?」
「見た見た! すごかったねー!」
「人の多さにうんざりよ」
「ほんとほんと! あと、あの先生の喋りにもびっくり」
「あれ、ちょっとおもろかったよな。テレビ流れたら笑うわ」
「あー! テレビ映りてぇよなあ!」
「皆でさ、カメラんとこ乗り込もか?」
 机にリュックをおろした菖は思わず「乗り込みたーい!」とバンザイをする。
「1組のスケートの男子やっけ?」
「確かね! そんな有名な奴なん?」
 菖の何気ない問いかけを聞いた土門(どもん)くんが、近付いて小さく手を挙げた。周囲の視線が一斉に集まる。
「えっと、1組特進科の剣崎クンですね、剣崎望夢クン。これまで数々の大会で一位を獲ってきましたが、まだジュニア……中高生部門ということもあり、この間の冬季オリンピックには出られませんでした。次の冬季オリンピックは! フィギュアスケート男子初の! 金メダル候補と言われております!!
 黒縁眼鏡のフレームを右手でクイッと触りながら、土門くんはドヤ顔をキメた。美術科の中では珍しい、成績優秀な学級委員だ。
 金メダルという思いもよらない立派な言葉に、菖もほかの生徒も「おぉー」と驚きの声を上げる。
 そりゃカメラマンも追ってくるわけだよ、4年に一度の金メダル争いだもんよ。
 有名すぎるのも大変だね。8組美術科の面々は、遠く離れた1組のスケート選手を讃えあった。
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