016 密かに

文字数 8,045文字

 連休を満喫しているかと思われた剣崎から送られてきた写真は、まさかのホテルに併設されたプール上がりの自撮りだった。どこか遊びに行かないのだろうか?
 プールサイドのデッキチェアに座る剣崎の背後には、室内プールが広がっていた。
 当たり前だが髪や肩が濡れている。濡れた剣崎を見るのは初めてで、一瞬、というかだいぶ、ドキッとしてしまう。
 白くて長い首筋にも水滴がついていた。見惚れてしまった菖は、悟られたくなくて強気な感じでメッセージを返した。
『肩しか見えへんやん!』
『そんなに菖は僕の水着姿が見たかったんだ?』
 はっきりそう言われると恥ずかしくなってしまう。
『プールって言ったら、普通はそうやろ!』
『じゃ、いつか一緒に行こうね』
 水着を着たくない菖は返事に困った。肌の露出も日焼けも、何もかもが苦手だ。ラッシュガードで完全防備するしかないか?
 対策を考えていると、続けざまに剣崎のメッセージが届く。
『菖はプール、嫌なんだっけ? 無理強いはしないから安心して。でも菖が見たい僕は、いつでも見せられるからね』
 意味がわっかんねえんだよっ‼︎  ほんなら水着姿で撮れ、ばかばかばか!
 本来は製図を書くためのドラフターに座って絵を描いていた菖は、ジタバタしながらベッドに倒れ込んだ。黒猫とシャチのぬいぐるみも弾んでいる。
 スマホの中の剣崎が憎たらしいほどかっこよく、こちらを見てきていた。えーい、あたしも大人の女になるんや!
『水に滴るいい男の写真、どうもありがとうございました』
 かっこよくお礼を伝えてみる。
『濡れてなくてもいい男だもん』
 この、ナルシストがっ! と思いつつも笑ってしまう。遠く離れていてもスマホの向こうできっと、剣崎も笑っているはずだ。
 気づくと千緒からもメッセージが届いていた。歩乃香に連れられて行った夏祭りで知り合った他校の男子から、デートのお誘いがきたと書かれている。しかも千緒が気になっていた、ひとつ上の男子からだそうだ。
 お泊まり会で千緒は歩乃香に、好きな子はいなかったと言っていた。
 でも小学生のときからずっとジョーちゃんのことが好きだったように菖は思う。


 ジョーちゃんは同じマンションの違う棟に住んでいて、小学校入学直前に東京から越してきた菖と仲良くしてくれた。
 幼いときはもっと目が丸く、野球で日に焼けた肌と頬のほくろが可愛らしい顔によく似合っていた。元気いっぱいの男子がジョーちゃんの周りにたくさん集まっても、ジョーちゃんは過剰に騒いだりふざけたりはしない。
 駄目なことは駄目だとはっきり言うし、スポーツも勉強もできた。常に、そして時に勝手に、リーダーとして立たされていたように思う。
 デブだブタだと男子にからかわれていた千緒を、菖はいつもかばい反撃し、からかう男子を追いかけ回していた。いつしかひどいからかいは減った。ジョーちゃんが男子に一喝したからだった。
 基本的にジョーちゃんは女子と話すことが少ない。中学に上がると、菖やヤンチャな仲間の女子くらいとしか話さなくなった。
 千緒はその仲間というわけではなかったが、菖の友達ということで近い距離にいた。
 ジョーちゃんは元々頭が良い。遊びに夢中になった時期を過ぎると、千緒に突然「篠宮、勉強教えてくれ」などと帰り道に話しかけていた。まんざらでもない千緒は、菖とジョーちゃんのマンションの敷地内の公園のような場所で勉強を見てくれた。
 いつだったかジョーちゃんが菖と千緒に、鈴がついた根付けストラップをくれたことがあった。家族旅行で行った神社に紫と黄色の根付けがペアで売られていて、「ふたりみたいだな」と買ってくれたのだった。千緒はすごく喜んで、卒業するまでずっとリュックに付けていた。
 訊いても千緒は、恋心を認めなかった。


 ジョーちゃんには密かに、想っている子がいた。誰も気づかないくらい、密かに。
 そしてそれは千緒ではなかった。
 菖はその想われている子と、そんなことも知らずに委員会が一緒になって話すようになった。中学2年生の秋だった。
 あるとき、なんの脈絡もなく「久野さんは城太郎(じょうたろう)くんと仲がいいよね」と言われた。そして唐突に「実は城太郎くんのことが好きなの」と打ち明けられた。
 驚いた。話すようになったとはいえ、深い仲ではない。
 最初は菖とジョーちゃんの仲を疑っていたらしい。しかし菖と話すうちにそういう仲ではないことがわかり、打ち明けて相談したかった、と話してくれた。
 ジョーちゃんのことを好きだとか、仲を疑っていたことまであっけらかんと話す潔さにも驚いた。決して普段は、おしゃべりな子ではない。
 その子はよく見るととても可愛かった。
 かなり控えめで落ち着いたグループにいるため、モテる女子として目立つわけでもなかった。もちろんヤンチャなメンバーでもない。ジョーちゃんと個人的に仲が良いというわけでもなかった。1年、2年とクラスも違った。
 ジョーちゃんは確かにかっこいいけど、今じゃ背も体格もでけぇし、すぐ喧嘩してまうし、学校もサボりがちやし……いい奴なんやけど、こんな可愛くて控えめないい子が好きになる接点、あるか?
 菖がそんなことを考えていると、その子がジョーちゃんのことを気になったときのエピソードを話してくれた。
「選択授業が一緒になってね、先生が決めた席が隣同士だったの。最初は怖かった。城太郎くん、そのとき辞書を持ってきてなくて、初めて話すし一緒に見なきゃいけなくなって。机と机のあいだに辞書を広げて、初めて話したんだけど案外いい人だなって。笑うとすごくいい顔してて。そしたらね、次の週もその次の週も忘れてきてね。楽しかったから良かったんだけど、辞書、持ってないのかなと思って。私、辞書を貸すためにもう1冊持っていったの。やっぱりまた持ってきてなかったから貸したのね、そしたら嬉しそうな寂しそうな顔、されちゃって。それがすっごく印象的だった。私、お節介なことしちゃったかなって、そう思ってたらね。このあいだ委員会で、久野さんと各クラスの掲示板にお知らせを貼りに行ったでしょ? そのとき偶然、掲示板の下が城太郎くんのロッカーで、辞書があったの。持ってたの、辞書」
 分厚い辞書を、ジョーちゃんが家に持ち帰るとは思えない。ジョーちゃんだけじゃなく、大体のみんながロッカーに置いたままなのだ。選択授業は違う教室で受けるから、最初はただ持っていくのを忘れただけだろう。
 そしてそんな分厚い辞書を、同じ辞書を家から学校に持っていったその子の優しさに菖は心を打たれた。
 ジョーちゃんはきっと、わざと忘れた振りをしたのだ。
「わかんない、実際はどうなのか。でもなぜだか私、辞書がロッカーにあったことがわかって、すごく嬉しく思えちゃって。一緒に辞書を広げて話したときから好きになってたと思うんだけど、城太郎くんの辞書を見つけたときに想いが溢れそうになったの」
 その子は菖に、ジョーちゃんから何か自分のことを聞いているかと訊いた。菖は残念ながら、ジョーちゃん本人からも周りからも、その子のことだけではなく恋愛事情を聞いたことはなかった。
 ジョーちゃんはほかの男子みたいに、女が欲しい、女とヤッてみたい、なんて下世話なことはおおっぴらには言わない男だった。男同士なら言い合っていたかもしれないが、菖は聞いたことがない。
 大胆なことにその子は、それとなく自分のことを話してジョーちゃんにどう思っているのか訊いてみてほしいと言った。菖は困ったが、好きという気持ち以外は話したことを言ってもいいとまで言われ、断れなくなった。
 なかなかふたりきりになれるタイミングがない。ジョーちゃんの周りには、本当に男子たちが舎弟のように一緒にいる。
 1か月は経った冬の帰り道にやっとジョーちゃんとふたりきりになれた。
「そういえばジョーちゃんさぁ、選択授業で辞書借りたんやろー? このあいだその子と委員会で話してて聞いたんやよー」
 菖は極めて自然に、ジョーちゃんもおっちょこちょいやなぁとからかう前提で話を切り出した。
「ああ……」
 少し上の空のような感じのジョーちゃんは、いきなり核心を話してきた。
「菖やから言うわ。俺、その子のこと好きやねん、前から」
「ひえっ? は? え、前から⁈」
 菖の驚きように、ジョーちゃんは少し不思議そうな顔をした。
「うん、前から。おとなしそうな子なのに意思が強そうな、キリッとした目が、すごくいいなと密かに思っとった。こないだ選択授業が一緒になっただけでびっくりしたのに、まさか隣の席になると思わんかって、俺どうしようかと思った。話してみたら、思った以上にいい子で……」
 聞いてる菖が恥ずかしくなってきてしまい、もういい、もういいとジョーちゃんを止めさせた。
「ジョーちゃん、ごめん! この話、その子から、自分のこと話してみてほしいって言われたんよ。どう思っとるんか、ジョーちゃんに訊いてきてって」
 ジョーちゃんは少し目を見開いたが、すぐに「そうやったんや」と静かに言った。
「どう思っとるか訊いてってことは、その子がどんな想いしとるんか、ジョーちゃんやったらわかるやろ⁈」
「……まぁ、そやな」
 そう言って黙ったきりのジョーちゃんと歩いた。ジョーちゃんの顔を見てもどんなことを考えているのか、ちっとも読めなかった。
 マンションの前に着くとジョーちゃんは「ありがとな、菖。ほなまたな」と手を振って、奥のマンションに帰っていった。
 なんやねんあいつ! でもあんなジョーちゃん、見たことない。
 心配になった菖は次の日も合間を見てジョーちゃんに話したが、優しい笑みを浮かべるだけで何も話してはくれなかった。
 その女の子にも、そのまま報告した。喜びを爆発させるかと思いきや、その子もジョーちゃんと似たような感じで「そっか、そうなんだぁ」と静かに微笑んだ。
「両想いやんか! 告白とかせんの?」
「んー」
「そりゃジョーちゃんが告ったほうがええとは思うけど! あたしがまた、言ってこよか!」
「ううん、それは大丈夫」
 その子は菖の手を優しく握った。
「久野さん、本当にありがとう。城太郎くんと仲がいい久野さんから聞けて良かった。気持ち知れただけで私、すごく嬉しい。きっと城太郎くんも同じ……なんだと思うの」
 委員会も終わり、その子とは接点もなく3年生のクラスも離れたままだった。ジョーちゃんと菖は一緒のクラスになったが、なかなかその子の話題はできずにいた。それは今でも、だ。
 もう1年以上経つのに、まだ訊いてはいけないような雰囲気を出すのだ。困らせたくない菖は挑んではみるものの、ジョーちゃんのなんとも言えない顔を見ると撤退してしまう。
 あるときジョーちゃんや仲間の男子たちが、恋愛のことで女子に問い詰められていたとき「俺の心はあの子だけやから」とボソッと言ったことがある。取り巻きの男子が菖に「ジョーちゃんって誰のこと好きなんやっけ? 聞いたことあったか?」と訊いた。菖は首を横に振った。
 ふたりに口止めされたわけでもない。でも誰にも、ふたりだけの関係を言いたくなかった。千緒にも。
 ふたりの密かな恋がどうなったのか、久しぶりに遊んだジョーちゃんにまた訊けなかった。菖ももう強くは訊けない。ジョーちゃんは高校に入っても、誰とも付き合ってなさそうだった。


 千緒は菖と歩乃香にまたヘアメイクをお願いして、デートに行った。映画を観た後、夜ご飯を食べるらしい。
 おばあちゃんにお小遣いを貰った千緒は、歩乃香に選んでもらった下着を着けて気合いが入っていた。
 ちょっと待て、気が早くないかあ? あたしがドキドキしてしまう。
「千緒、大丈夫かなぁ? 下着まで気にして、付き合っとるわけちゃうやろ?」
「襲われない限り、千緒ピヨがいいんなら、それはそれでいいんじゃなーい? 何事も経験ですから、ね、菖!」
 菖は歩乃香にべーっと舌を出す。ふたりは千緒と別れた後、南陽高校に来ていた。夏休み中に制作した作品の手直しをするためだ。ハッシやキシイくんたち何人かも、制作室で作業をしていた。
 あと4日で夏休みも終わる。剣崎も昨日、帰国した。東京に1泊か2泊してから帰ると連絡があった。
 歩乃香が油絵で使った筆を、菖も一緒に洗いに行く。簡単には落とせない。クリーナーで落としてから、丁寧に石鹸も使って穂先を整えながら洗う。
 洗い場はエアコンがないため暑い。夏も終わりなのにね、なんて言って歩乃香が菖に、手を払うかのようにわざと水飛沫を飛ばした。顔に水をかけられた菖は、笑いながら同じことをやり返す。
 ふたりできゃーきゃーと水をかけ合って遊んでいた。
「冷たいって言ってまうけど、水ぬるくない?」
「青春っぽいシチュエーションなのにそんなこと言わない!」
 歩乃香が先生みたいに筆を指示棒のようにしてピッピッと振ると、穂先から水が跳ねてしまい笑ってしまう。
「久野さん、スマホめっちゃ鳴っとるけぇ、大丈夫?」
 キシイくんが制作室から顔を覗かせて教えてくれた。
「冷たっ! いや、ぬるい! ありがと、今行く!」
「きゃははは! ねぇ菖、どうせ剣崎だよ、きっと」
「そうかぁ?」
 制作室の大きな机の上に置いたままのスマホを見ると、剣崎からの着信が何回か残っていた。「歩乃香、当たりです」歩乃香はほらね、とピースして早くかけなさいとジェスチャーした。通話を押すと、すぐに剣崎が出る。
「菖、ただいまっ!」
「お? おかえり? って、もうこっち来たん?」
「そう! ごめん、充電器どっかにしまっちゃって、なかなか連絡できなかった! 菖、今どこにいる?」
「どこって、学校におるんよ」
「学校? わかった、今からそっち行く!」
「えっ?」
「30分くらいで着くと思う! もう帰っちゃう?」
「いや、まだ帰らんけど剣崎、大丈夫なん?」
「少しだけでもいい、会いたいから! 待ってて! ビッグニュースも話したいし! 近くになったらまたメッセ送るから、じゃあね!」
 珍しく一方的に捲し立てて剣崎は通話を切った。
「剣崎、ここ来るって?」
「なんかそうみたい……」
 いまいち状況が掴めないままの菖を見た歩乃香は、急に帰り支度を始めた。
「アタシ、夕飯作らなきゃだからもう帰らないと! ねぇ、キシイくんもハッシも帰るよね?」
「おう、帰るけぇ、久野さん戸締まりよろしくねー」
「そうやなぁ、そろそろ帰るかぁ」
「あ、私たちも帰るー」
 みんなが続々と、歩乃香に続いて帰ろうとする。
「いや、みんな、大丈夫だよ? ねえってば!」
「じゃあね、菖、またね。剣崎と素敵な夏の夜を♡」
 菖の頭をポンポンと撫でて、歩乃香が制作室から出ていった。そしてみんなも次々に帰ってしまった。


 剣崎がもうすぐ着くはず。制作室にいる、そうメッセージを返したら、そのままそこで待っててほしいと返信がきた。
 窓の外を見ると、陽が暮れ始めている。ひとり制作室に残された菖は急に肌寒く感じて立ち上がり、制作室のライトを点けて冷房を弱めた。
 突然、背後の扉が大きな音を立てて開く。
「きゃあ!」
「菖!」
 思いきり扉を開いた剣崎が、その両手を目の前にいた菖に向けて抱き締めようとした。間一髪、距離を置いて慌てて止めさせる。
「待て待て待て待て!」
「なんで? 菖、ただいま! 目の前にいてびっくりしたんだからぁ!」
 はしゃぐ剣崎の肩を抑えた。細身の黒いTシャツは袖も丈も短めで、さらに身体が痩せたように見える。弾けるような笑顔ですべてをごまかそうとする剣崎を、菖は思わず強く見上げた。
「ねぇ、海外で何を学んできたのさ? ハグ?」
 剣崎が頬を膨らませて「違うけど」と、広げた両手を弱々しくおろした。
 菖も肩から手を離し、「剣崎、おかえりなさい」と笑いかける。剣崎も目を細めて笑い、「ただいま」……その声がかき消されるように、窓の外からドンドンドン、と地響きのような音が鳴る。
 驚いて窓のほうへと顔を向けるとパラパラパラと音がして、空の色が少し明るくなっていた。
「花火⁈」
 ふたりで窓際に駆け寄る。3階の制作室からちょうど、花火が見えていた。
「すごいすごい! こっからこんなに花火見えるんや! 知らんかった!」
「ね、花火なんてびっくり。すごい、綺麗」
「ほんと……綺麗」
 そうか、今日は花火が上がるから千緒はデートに誘われたのかもしれない。少し羨ましくなった。
 花火は次から次へと打ち上げられて、一瞬の光のアートを重ねていく。大きな音が窓と身体に響いていた。
「菖、会いたかった」
 小さな声で剣崎がそっと、菖の背後から腕を回して肩を抱いた。青白い腕が菖の口元あたりにとどまる。剣崎の両腕が、肩から首のあたりを圧迫して呼吸まで止まってしまいそうになる。菖の全身は緊張と息苦しさで固まってしまった。
 そんな菖に気づいているのか、剣崎はさらに菖の髪に顔を埋めた。左耳のあたりに剣崎の吐息が伝わって、余計に菖は身体を強張らせてしまう。
 だめだ、恥ずかしい。くすぐったくなるかも。菖は剣崎の腕を外そうと両手を置いてみるが、動かそうにも動く気配がまったくない。力が出ないのか、力が強いのか。
「いや?」
 剣崎が少し、悲しそうな掠れた声を出した。
 嫌じゃない。そう言いたいのに声が出ない。菖はぶんぶんと首を横に振る。もうこれ以上、前には行けないのに両手を窓につけた。
 息がしづらくて苦しい菖に反して剣崎は、ふふっと静かに笑う吐息を耳元や首筋に当ててきている気がする。
 あまりに髪に顔を埋めて吐息が当たるから、泣いてしまったのかと思った。
「ねぇ、泣いとるん?」
 剣崎の顔を見たくても、きつく肩を抱かれているから身動きがとれなくて花火しか見れない。剣崎が笑いだした。
「泣いてないよ。嬉しくて菖のにおい、はすはすしてたの」
「ばっ! ばかばかばか、やめて、はずいっ‼︎」
 暴れる菖の肩から二の腕あたりまで、剣崎が腕をずらしてぎゅっと抱き締めてくる。胸に、剣崎の腕が密着した。今日はポロシャツではなくて薄い生地の黒いTシャツを着ているせいか、余計に剣崎の肌や筋肉がこっちに伝わってきてしまう。心臓の音、聞こえちゃうかも! どうしよう!
 鹿子素材と薄い綿生地の違いを身をもって感じた菖は、急におかしく思えて笑ってしまいそうになった。
 すると剣崎が髪越しとはいえ、菖の首筋に唇を這わせた。
「⁈」
 声にならない叫びが出て、身体がのけぞってしまう。
 嫌じゃないのにやめてほしい気持ちと、やめてほしいのにやめてほしくない気持ちで、今度は息が乱れてしまう。
 回された腕をぎゅっと掴んでのけぞる菖の顔を、剣崎はわざと覗き込んで「菖は会いたかった?」と訊いてきた。
 意地悪そうな顔をしている。菖は直視できずに、花火のほうへと目を逸らした。会いたかったに決まってんだろうが! って言いたいのに、言ったら何かされそうな気がしてしまって何度も頷いた。顔も身体もほてってくる。
「ふはは、ほんと菖は可愛いね」
 意味わかんない! 少しむくれた顔をしてしまう。剣崎は肩にもたれかかるように菖を見ていた。
「嫌だったらそう言ってね」
 囁くように言いながら、さらに強く抱き締めてくる。どれだけ強くできるの? 木っ端微塵にさせられそう。
「ね、ちょっと、苦しい」
「あは! ごめんごめん、つい」
 力は緩めてくれるのに離そうとはしない。剣崎の体温が混ざって、とても熱い。
「いつも恥ずかしがるよねー、菖は」
 なんか癪だな! 緩くなった腕から思わず剣崎の顔を見た。
「いつもじゃねえし!」
「いつもだよ?」
 また剣崎は勝ち誇ったような意地悪そうな顔をして、菖の目を見て離さない。
 何も言えなくなった菖は、ぷいっと花火へと視線を戻した。
「花火、一緒に見られて嬉しいねー」
 剣崎はまた菖の髪に口をつけている。
 いつかきっと、こいつに食べられてしまうのだ。菖は少しだけ、覚悟を決めた。
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