022 歩調

文字数 9,489文字

「やっぱりこっちの曲でいく?」
「捨てがたいよね」
「じゃあ1回やってみよっか」
「待って、ハモるとこだけもう少し練習させてー!」
 菖とバンドメンバーの男子3人は、カラオケのフリータイムを利用してコピーバンドの練習に来ていた。ライヴに向けて、ハモる部分がなかなか歌えない菖は焦っていた。
「最悪ハモれなくても、ユニゾンとして歌ってくれればいいから」
 もうひとりのボーカル、美術科2年生のトモさんが優しく慰めてくれる。
「そうそう、ごまかせるから大丈夫でっせ」
「んじゃ、俺らも久野さんのハモりんとこ演ろうぜ」
 ギターとベースは1年生機械科のカワちゃんとコンちゃんだ。
 今まではハモる部分を歌うことなんてなかった。どうしても普段聴いている、主旋律のメロディで覚えてしまっていた。
 練習しながらほかの曲も歌い、ステージで演奏する曲の候補も絞っていった。
「トモさんはもう、衣装バッチリっすか?」
「うん。俺はハットにサングラス、ちょっとかしこまった感じの服にしようかなと」
 ツインボーカルの片方、トモさんが歌うシンガーの特徴ある服装を真似るようだった。
「あたし、どうしよう。やっぱりジャケットとかが無難っすよね」
「久野さん、中学んときのジャケットないん?」
 コンちゃんがカラオケ店内のフリードリンクで調達した、エナジードリンクを飲みながら訊いてきた。
「うち、セーラー服やったもん」
「剣崎くんとこは? ジャケットなら借りたらいいやん」
 指を鳴らしてカワちゃんがアイディアをくれた。なるほど。でもあいつのジャケット、絶対に細そうやな。
「菖ちゃんって剣崎選手と、つきおーとんの?」
 トモさんが真剣そうな顔をして訊いてきた。
「そんなそんな、付き合ってはねーです」
 菖は手を横に振って否定した。
「付き合ってはないって、じゃあなんなん? ってなるけどー」
「トモさん、あんまつっこんだらあきまへんて」
 内心ギクッとしてしまう。カワちゃんのツッコミにみんなが笑ってくれて助かった。
 例え付き合っていても、剣崎との場合「付き合ってます」なんて言ってはいけないのかもしれない。
 前途多難やん? 菖はふと思った。剣崎と手を繋いでデートなんて、とんでもないことなのではないか、と。仲良く手を繋ぐことくらい常にしていたい。そんな付き合い方に憧れている菖は、少し残念に思えた。
 隙あらば抱き締めてくるぐらいだから、手くらい繋いでくれないと。そう思う反面、大っぴらにはできない気もしてきた。剣崎が初登校したとき、押し寄せてきたカメラマンたちを思い出す。
 今はただ仲がいいだけ。このあいだ、剣崎に待っててほしいと言われた。普通の仲良しとは違うよね、とも。
 両想い? 両片想いって最近よく聞く言葉とも違う気がする。両想いってわかっていながら認めていない関係? なんやそれ。菖は心の中で笑ってしまった。
 フリータイムの時間が終わり、練習もお開きとなった。今日は学校近くのカラオケ店だった。菖は3人に手を振り、いつもの駅へと向かった。3人は自転車通学で、重いギターとベースを背負って帰る姿はギターキッズそのものだった。
 スケートの練習中であろう剣崎に衣装の話と中学の制服についてメッセージを送っておくと、夜ご飯を食べているあいだに返信がきていた。
『中学はジャケットだったけど、校章が大きめだから衣装には合わない気がするよ。僕の自前のジャケットはどう?』
『さすがにそれはいい、ありがと! ちょっと考えてみる』
 汗をかくだろうから、着ている洋服を借りるには気が引けた。しかもそのジャケットはおそらく、もうすぐフィギュアスケートの記者会見があると言っていたからそこで着るものだと思われた。大人の試合に初挑戦記念、ではなく、主要選手たちの決意表明の場に剣崎も選ばれたらしい。
 試合をするのに記者会見までやるって、フィギュアスケートはすごい世界だ。ヴィジュアル系バンドももっと盛り上がってほしい。そうしたらmissaももっと、日の目を浴びられるのに。
 そんなことを考えながらクローゼットを開けて服を見ていると、剣崎からメッセージがきた。
『菖のとこはセーラー服だったの?』
『そだよん』
『見たい! 暇なとき写真送って!』
『しゃあねぇなー、後でな!』黒猫赤ちゃんのOKスタンプも、一緒に送っておく。
『男子は学ランだったの?』
『学ランだった! セーラーも学ランも黒』
 とはいえ夏服になると男子も女子もシャツだった。
『第2ボタンのやつ、あった?』
『卒業式の?』
『そそ』
 中学の卒業式が終わると、付き合っている男子や好きな男子に記念として第2ボタンを貰う風習があるらしい。学校によっては好きだからあげるという意味と、意味なんてなくあげるところがある。人気の男子生徒だと、制服全部のボタンが引きちぎられる、なんてことも聞いたことがあった。
『うちらの学年はそれ、あんまり浸透しんかったでなかったわ』
『いいなー、僕んとこあったんだよねー。欲しいって言われてたけど、あげたくなくて』
『まかびさん?』
 得体の知れない名前を思い出してしまった。千緒の嫌な予感を発動させた、めちゃくちゃ可愛い元カノ疑惑の子。
『まあ、うん、ほかにも。でも興味なくて。僕、卒業式は途中で抜けて試合のために海外行ったし、第2ボタンあげずに済んだんだよね』
 卒業式の早退って初めて聞いた! 菖は驚いてしまう。剣崎は本当に、フィギュアスケートを最優先にして生きてきたのだと改めて思い知った。
『剣崎はモテモテやなー』
『だから僕の第2ボタン、菖にあげるね』
 えっ? 話の展開についていけない。このあいだから、待っててほしいとか、柔らかいとか、ぎゅーしたいとか、剣崎の距離の詰め方に……笑ってしまう。
 以前だったら嫌だと思っていたかもしれない。それとも、他の人だと嫌なのかもしれない。剣崎だから許せて、笑ってしまうのかもしれない。
 菖は服を探しながら、中学時代のどの写真を剣崎に見せようかと迷い始めていた。


 ステージで着る服も剣崎に送る写真も決められず、お風呂から出た菖は痛み止めの薬を飲んだ。
 生理がきてしまった。それはまだいい。生理痛がごくたまに起きるのだった。
 剣崎の顔とともに、妊娠という言葉がよぎる。剣崎はどうしたら妊娠するのか、知っているのだろうか?
 そう思う菖は、自分のほうが本当はよく知らない気もしていた。
 中学のときのヤンチャな仲間が卑猥な雑誌を持ってきても、ジョーちゃんがあまり見ないので菖も見ずにいた。
 自分の身体が男子から好奇の目で見られていることも、最初は知らなかった。
 卑猥な雑誌や漫画を見せられても、ぼかしてあって下半身が何をしているのか、何をされているのか、結局よくわからずじまいだった。
 ヤンチャな仲間内の女子が、菖の大きな胸をよく羨ましがった。他校の男子たちと性的な意味で遊んでいる子だった。菖もその中に、加えられそうになったことがある。
 手を繋いで、キスをして。そのまま次に進まず止まってしまう頭の中なので、遊ぶといっても具体的な想像ができずにいた。
 ジョーちゃんが止めてくれて性的な遊びに参加することはなかったが、後に他校の男子から「菖とセックスしたかった」と言われたときには露骨に嫌な顔をしてしまった。
 決して興味がないわけではない。でも不特定多数とはしたくない。
 知識がないのなら動画を観て勉強してみたら、と言われたこともある。しかしなかなか決心がつかないのだ。
「男とばっか遊んで」
 夜遅く帰ると、母の昭子にそう言われたことがある。遊んでいたジョーちゃんたちと面識があるのに関わらず、だ。悲しかった。男友達なの知っとるのに、ママはそんな言い方するんや。ただ普通に、こどものときと同じように遊んでいるだけなのに。夜遅いから? さっきまで、女子もおったんやで。
 そう言い返すことすら嫌になった。性的な遊びをしているとでも思われたのか?
 そのせいなのか、それとも痴漢に遭って嫌悪感があるからなのか。男とセックスなんてしてはいけないような、そんな感情が出てきてしまうのだった。
 女子同士の卑猥な話も苦手だった。生理がきたと友達に言うことすら、菖はあまり言えなかった。
 薬が効いてきて、ふわっと痛みが和らいでいく。シャチのぬいぐるみを抱いてベッドに横たわった。菖は目を瞑って想像してみる。剣崎とベッドに横たわったり、裸になったり、触れ合ってみたり。
 どうやってするのかわからない。でも剣崎となら、してみてもいい気がしてくる。
 1年前、告白されて付き合ったムラキ。手を繋がれて嬉しかった矢先に、キスをされそうになって服の上から身体も触られた。拒んでも受け入れてくれたのは最初だけで、すぐにまたその機会がきた。夏だったので、服の中に手を入れられそうになった。何度も拒むと不機嫌になっていく。そんなやり取りに、菖は疲れてしまった。
 普段は優しくて学年中の人気者だったムラキの変わりようが、とても怖かった。メッセージの内容もだんだんと卑猥なことばかりになっていた。すべてが無理矢理に近い行為に思えた。
 剣崎の求め方は、ムラキとは違った。それに拒みたくても拒めないような感じだ。恥ずかしくて拒めない。でもどこかで、もう拒まなくてもいいという気持ちがあるのかもしれない。
 よく考えてみたら、まだしっかり手を繋がれたことすらなかった。ほんの少し握られたくらい。身体に少し触れてくるだけだ。
 歩調が合うのだろうか。それとも剣崎は、わかって歩みを合わせてくれているのだろうか。
 食べられてしまう覚悟は決めた。そう剣崎にもメッセージで伝えてしまった。会ったときにはそれについて触れてこなかったが、嬉しそうな返信だったと思う。
 覚悟はできていても、どうしていいのかわからない。
 考え込んでいても始まらないか。菖はシャチを置いて、ノートパソコンに保存してある画像を見返した。セーラー服で笑う自分の画像を厳選する。懐かしいし、幼くて恥ずかしい。それぞれの年の画像を1枚ずつ、計3枚ピックアップして剣崎に送った。


◇◇◇

 フィギュアスケートのシーズンがスタートした。僕のシニア初試合は11月。国内で開催されること、学祭のことも考えて少し遅めのスタートにした。
 ショートプログラム、フリースケーティング、エキシビション。簡単にいうと、この3つの踊りを3日間に渡って氷上で披露する。エキシビションだけは後夜祭みたいなもので、先に行われた試合の順位によっては参加資格が与えられなかったりする。
 昔からのコーチを筆頭に、振付の先生方や夏にジャンプを教わったカナダのコーチ、肉体改造も兼ねるトレーナー、たくさんの方の指導やアドバイスで僕の試合……というより作品が創られている。
 オフィーリアスケートリンクで毎日閉館まで練習をして、土日はコーチたちと他県でみっちり練習。ジムやプール、バレエのように身体をしなやかに動かすトレーニングも始めた。
 身体を痛めてはいけないので練習ばかりも良くはないらしい。しかし体力をつけるにはまず身体を動かし、そして食事、睡眠。
「望夢、休息も大事だぞ。スケートだけに没頭することのないようにな」
 そう言って父さんはいつも心配してくれる。
 母さんは、時間があるときのほとんどを僕に使っていた。同行して世話役をしたり、食事管理もさらに徹底されてきた。もはや専属マネージャーのよう。
 僕の所属先は南陽高校またはオフィーリアスケートリンクという表記にしているが、個人のようなものだった。
「チーム剣崎みたいになってきたわね。お母さんも、頑張らなきゃ!」
 リンクで滑っていると僕は没頭しやすい。振付や、流す音楽、衣装に関しても、思うことやできることをすべてをやりたい。結果を良くするためにも意見を言う。声を荒げてしまうこともある。まだまだこどもだなと反省するようにもなったけど、そこに母親という存在がいると言いやすかったり逆に止めてもらったり、僕にとってはありがたい存在だった。
 そういうわけで菖とデートだなんて、できていなかった。
 このことについては両親の前で嘆くこともできずにいる。
 例えば僕が「スケートさえなければ、もっとゲームしたい」などとワガママを言ったとしよう。現によく言っていた。すると「あら、じゃあスケート辞めてもいいわよ」「お、ゲーマーにでもなるか?」などと笑われるのだ。
 じゃあ辞める、なんてなるわけがない。僕はフィギュアスケートが大好きなのだ。ゆくゆくは金メダルを獲る。となると、練習は欠かせない。自分で決めたのだから、やらなければならない。必然とそう思わせてくれる。
 そんな両親の前で「菖とデートしたい、練習サボりたい」なんて言ったらどうなるだろうか。どうぞ、どうぞと言われるに違いない。いや、意外と怒られるかもしれない。
 どちらにしても母さんが、菖に興味津々で食いつくと思う。駄目だ、絶対に駄目だ。それだけは阻止したい。
 ちなみに菖は、会いたいとかデートしたいとかあまり言わない。今は菖も忙しいし、正直とても助かっていた。我慢させてるのかもと申し訳なく思うけど、本当は僕に会う気がゼロなのかもしれなくて、ちょっと怖かったりもする。
 父さんと母さんが近くにいない隙に、するりと両親の部屋へ入った。袋に包まれ、掛けられたままの僕が着ていたブレザー。その第2ボタンだけを取ってくる。桜ヶ丘中学という名前から、金のボタンには桜の絵が刻まれていた。
 菖はきっと、こんなもんいらねぇとか思いそうだよね。真嘉比さんのことを知られてしまったからなのか、僕は意思表示のひとつとしてどうしてもあげたくなった。
 貰った画像をまた見てみる。中学生の菖は、今とほとんど変わらなかった。髪の毛が短かめなのが新鮮だ。ボブスタイルだけど横の髪は少し長めで、髪も染めていたようだった。赤いスカーフが映える黒セーラー服でおどける菖は、今と違う可愛さがある。
 それに比べたら僕の中学のときなんて、かなり幼い。菖は動画サイトで、中学時代のスケートをしてる僕を観ている。制服姿の画像を送らずにいたら『よこせ』と催促され、慌てて送った。
『中学生の剣崎くんは、今よりもっと赤ちゃんでちゅ! 制服もぶかぶかでちゅ!』
 きぃいい! こいつ! 細いからそう見えるだけだって!
 中学2年までの僕は本当に幼かった。成長も遅かった。幼いときから手や脚は細く長かったのに、顔も心も何もかも幼いままだった。
 それで余計に、真嘉比さんにもよくないことをしてしまった……のだと思う。


 美術科で一緒にお昼を食べた後、別れ際の廊下でいつものように菖と話していた。僕は菖に第2ボタンと、さまざまな色のビーズやラインストーンが入った小さな袋を持ってきていた。
 第2ボタンを入れるチャック付きの袋を探していたら、机の引き出しに余ったビーズの袋を発見したのだった。母さんが衣装を作ってくれていたときの余りものだ。青や透明色のビーズが多い。紫も多い。菖に少し分けてあげようと思った。
「忘れ去られた第2ボタンが、まさかあたしのもとに」
 菖は第2ボタンを受け取ってくれた。僕の中学校では、卒業式のときに好きな人や特別な相手にあげるボタン。
「将来、いいお値段になるからね」
 内心とても恥ずかしい僕は茶化してみた。菖は「これがぁ?」と、しかめっつらだ。そして言った。
「そもそも売らんし」
「あはっ! 嬉しい! ずっと大事にしてね?」
「え、これをぉ……?」
 わざとまた嫌そうな顔をしてくる。そんな菖にビーズの入った小袋も渡した。
「え! なんこれ、綺麗! どしたん?」
「僕の衣装、前まで母さんが作ってたんだ」
「おまえのお母さん、マジかよ! すげーな⁈」
「今でも作るなら、菖が描いた衣装のデザイン画で母さんに作ってもらう可能性もあったんだけどね」
「いやぁ、無理やろ。ほんでこれ、そんとき余ったビーズとか?」
「そうそう。僕の引き出しにたくさんあったから、菖にお裾分け」
「いいんかよ、ありがとう! これ、第2ボタンと一緒に黒猫の首輪にでもすっかあ」
「ブレスレットみたいにして、ぬいぐるみの首に掛けるってこと?」
「うん! テグスとか持っとるもん。あたし、お裁縫は向いてないけど、ビーズでアクセサリーくらい作れるんやで?」
 僕の大したことないものも、お互いに模した黒猫のぬいぐるみに関連させようとしてくれる菖。そういうところ、好きなんだよなぁ。
「できたら見せてね? あ、菖、衣装どうしたの? 提出するんじゃないの? 僕のジャケット、やっぱり貸そうか?」
「あー、衣装な」
 菖は少し浮かない顔をした。最近は僕がスケートの練習に向かうと、菖はカラオケやスタジオに向かうことが多い。金曜日は急いでコトブキまで行って、ライヴハウスのバイトに出向くこともある。ゆっくり話せない日も多くなっていた。
「衣装自体はフルセットで、画像で提出なんよ。締切もギリギリまで大丈夫やったから、まだ時間はあるんやけど」
「だけど?」
「学祭前にパパが……父親が、帰ってくるんやと。ギター貸せって頼んどったらさ、なーんか張り切ってまって」
 まだお父さん、帰ってきてなかったんだ。それでも帰ってくるということは、別れたりはしてないってことか。
「ギター弾けないのに持ちたいもんねー、菖は」
 浮かない顔に元気をあげたくて、僕は菖の可愛いほっぺたを触る。驚いて猫みたいな声で払いのけてくるが、本気で嫌がってはなさそうだ。
「衣装も一緒に買いに行くか、パパの持っとるトレンチコートっての? それ着てみるかって」
「女の子の衣装じゃ駄目なの?」
「うーん。やっぱコピバンやから寄せていきたいよね、そこは。なるべく男っぽくしてさ! あたし、顔は男前やでよ!」
 笑いながら菖は背伸びをした。僕の顔に菖の顔が近づいて、思わずドキッとしてしまう。確かに少しキリッとした顔だけど、僕にとって菖は本当に可愛いよ。その強気な目も、柔らかそうな桜色の唇も。
「ほら、あんまりあたし背ェ高くねーやん? コートとかも長すぎてまうかもやろ? やで、着てみて考えよかってなってさ」
 長いこと背伸びを保つことができず、何度も背伸びをしてきて僕まで笑ってしまう。
「菖はおちびちゃんだもんね」
「チビちゃうわ! 千緒のがあたしよか背低いし、150はあるもんね! 普通やし」
「どっちにしてもライヴ、楽しみだね」
「学祭、出られるの確定してよかったな!」
 背伸びしてきた菖に肩を叩かれた。
「うん! 一緒に屋台とか見に行こうね」
「そうやな、剣崎と千緒んとこの焼きそばも食わんとあかんしなー」
 僕の肩を使って背伸びする菖のほっぺたをまた触る。いつもよりも顔の距離が近い菖の、恥ずかしながらも怒ってるような顔が面白かった。


 遅めの夜ご飯を食べ終わった後、何気なく観ていたテレビ画面の報道番組。学生時代、見知らぬ男性に襲われて異性が怖くなったという女性が、顔にモザイクをかけながらインタビューに応えていた。
 性被害。加害者は大抵が男だ。もちろん逆のパターンもあるだろう。しかし加害者の割合は、圧倒的に男だと思う。
 菖が誰かと付き合ったことがあるらしいと知って、心の底から妬んだ。どこまでしたのか具体的には訊けなかったけど、大した関係ではなさそうだったと思う。思いたい。
 その話のとき、菖は複雑そうな顔で「こんなことしてたら駄目だった?」みたいなことを訊いてきた。
 好きだった人とキスしてたって、セックスしてたって、菖への想いは変わらないよ。でも……それを知ったら、何かが変わりそうだと思った。独占欲がさらに上がるような……うまく言えないけど。僕がしたこと以上のこと、誰かとしてきたんだって考えただけで頭がおかしくなりそう。
 でももしそれが、付き合ってた人じゃなかったら?
 菖が痴漢に遭っていた内容が、酷い性被害だったら……?
 胸がざわついた。もしかしたら菖は、酷い目に遭ってたのかもしれない……。
 浮かれてちゃいけない。欲にかまけて、菖に甘えてた自分を恥じた。
 好きな気持ちなんてもう変わらないんだから、菖には安心してほしい。
 性被害を受けて、性的な欲求が消えてしまう可能性だってある。最悪、それでもいい。僕が我慢すればいいだけのこと。
 僕はそんな配慮もしてあげられずに、勝手に距離を詰めていた。
 菖のことだから、嫌なら言うと思う。言ってこないから大丈夫なんだとは思う。でも確証は、何もなかった。
 あのときの僕の気持ちを整理すれば、告白を待ってほしいと言いたかった。
 普通の仲良しとは違うよね? そう訊いたら、頷いてくれて嬉しかった。安堵した。もうそれって告白じゃん? そう思ったよ、僕も。
 待ってもらって伝えたいことは、好きって気持ちもそうだけど、正式にお付き合いしてほしい。それを菖に伝えたい。お付き合いすれば、恋人が普通にすることすべてできる可能性がある。菖ができなくても、僕はすべて菖としたいし、できなくても一緒にいたい。
 好きって言葉じゃ足らないんだよ。今までスケートしかなかった僕は、菖に溺れかけてる。
 だから自制の意味も込めて、距離をもっと縮めていくためにも待ってもらった。
 シニアの試合で表彰台に乗ること。結果を出す。まずはそこを達成してから、菖にちゃんと伝えたい。
 彼女になってほしいって言いたい。彼氏にして、のほうがいいかな?
 ふふ、僕が菖の彼氏かぁ。いい響き! もし付き合えたら、いっぱいいろんなことしたーい! なんてニヤニヤしながら、黒猫のぬいぐるみと戯れてしまう。
 もっと気をつけようって思ったくせにね。駄目だね、こんなんじゃ。気を引き締めるため、僕は腕立てと腹筋を追加した。
 待っててくれているあいだに少しでも、菖の警戒心が解ければいい。今以上のことを求めて拒まれても、それはもう仕方ない。
 僕だけの問題じゃないんだ。ふたりの問題に、していくんだ。
 そう自分に言い聞かせ、筋トレに励んだ。考えごとのせいか、身体が熱くなる。秋の夜長はまだ暑かった。もう一度、シャワーでも浴びてこようかな。
 するとスマホが鳴った。菖じゃない、誰だ? 見るとシンちゃんからのメッセージだった。
『望夢、夜分遅くにすまん』
『どうしたの? おつかれ、シンちゃん!』
 僕は黒猫の赤ちゃんの、こんばんはスタンプも押した。シンちゃんはスタンプには反応してくれなかった。
『あのさ、今日塾から帰宅したとき家の近くにいたんだよ』
 え、何、急に。オバケの話? スマホの画面を見ていたら、続けてメッセージが入ってきた。
『真嘉比(ゆい)が』
 目の前が真っ暗になった気がした。
 シンちゃんと真嘉比さんは同じ小学校だから、偶然会うこともあるだろう。しかしシンちゃんがいうには、初めて会ったらしい。そして真嘉比さんは、僕と今でも連絡を取っているのか、僕のSNSを知らないか、訊いてきたそうだ。
 もちろんシンちゃんは知らないと答えてくれたそうだ。
『南陽高校の学祭あるんだろ? 真嘉比が言ってたぞ』
 真っ暗闇に落とされる感覚がする。来るのだろうか。シンちゃんも不気味に思って行くのかどうか、訊けなかったらしい。
『学祭ね、シンちゃん呼ぼうかなって菖に言ってたとこなんだよ』
『お! スケジュール送って。とりあえず気をつけろよな、おやすみ』
『ありがとう、おやすみなさい』
 そう送ったのに僕は、しばらく眠れなかった。
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