007 ウチとソト

文字数 6,816文字

 気づけば剣崎が、渡り廊下で曽部と話している。あいつきっと、あたしのこと話してるんやろな……菖はぼーっとしながら、考えた。
 ずっと剣崎の肩に寄りかかってしまっていた。肩をぎゅっとしてくれてびっくりしたけど、もう心が怠かった。あたしは剣崎の横で、そのまま眠りたいくらいだった。
 途中、剣崎があたしの髪にくちづけた気がした。少し驚いたけど、震えていた剣崎のほうが心配だった。でも多分、あたしのことを考えて悲しくなってくれてるのがわかって、泣きそうな自分と泣いちゃダメだっていう自分がいた。
 ぐちゃぐちゃな感情に蓋をしたい。気持ち悪い。男なんて、みんな、女のことを性的にしか見ていない。
 でも剣崎は……大丈夫だった。自分がわからない、無になりたい。何も考えたくない。
 剣崎に触れられて、それはいいの? 好きだから? 付き合ってもないのに? あたしは……。
 ふと急に、耳に音が現れた。聞こえていたはずなのに今、聞こえだした。目の前の噴水が、水飛沫が、音を立てて流れていく。
 空の水色と白い噴水、緑の芝生、あまりに鮮やかなコントラストだった。
 今の自分とは、正反対の色。
 そう思ったとたん菖は思わず噴水に駆け寄り、祈りを乞うかのように噴水に手を伸ばした。
 冷たい。勢いよく溢れ出る水が、手を小刻みに動かす。何もかもすべて、流せたらいいのに。水面に浮かぶ、波打って歪んだ自分と目が合う。
 モヤがかかったような自分では、いたくなかった。


 曽部の白いハイエースの後部座席に、剣崎と乗り込んだ。運転席に座る曽部に、菖が話しかける。
「曽部ちゃん、ありがとー! あたし、もう大丈夫やよ! 多分、なんもされてないからさ」
 心配そうな顔をして曽部はシートベルトを締めた。
「久野」
「んー?」
 エンジンをかけながら、バックミラー越しに曽部は菖を見た。
「女子ってのはな、変な男につきまとわれることが多い。もちろん、男子にも同じような危険は起きとるけども。圧倒的に弱い立場の女子が多い。だからってな、男連中のこと嫌いにならんといて欲しい」
 剣崎も頷いて菖を見た。曽部が車を走らせる。
「先生はなぁ、おまえが男女問わずいろんな生徒と話しとるの見とるからの。そういうとこ、ええとこやぞい」
「曽部ちゃん……」
 素直にお礼を言いたいのに、菖はなぜか言葉に詰まってしまう。
「なかなか言いにくいと思うけどな、先生や、剣崎、男に言うの嫌なら、保健室の先生でもええ。嫌なことされたら相談してくれい」
「……今までも嫌なこといっぱいあったよ。たまたま今日は、衝撃的だっただけ」
 窓の外を見ながら菖は溜息をつく。相談、というキーワードが妙に引っかかった。
 保健の先生が解決になる? ならないよ。警察に言ってもほとんど解決しないのに。
 痴漢で泣き寝入り、痴漢とも呼べない小さな気持ち悪いこと、いっぱいある。痴漢に遭っても、夜中に歩いていても、大きな喧嘩騒動があっても、誰かが犯されても、警察がちゃんと動いてくれたことなんて見たことはなかった。ただただ目の前のあたしたちを、注意するだけ。
 何か言いたげな菖の顔を曽部は見ていた。
「久野、もしおまえの友達や剣崎が同じ目に遭ったら、絶対助けるだろう?」
「あったりまえやん!!」
 身を乗りだした菖とバックミラー越しに目が合った曽部は、下手なウインクをした。
「な、そういうこと。先生んたも同じ。みんな心配しとるし、少しでも変えてあげたいと思っとんだ」
 菖は、曽部と剣崎を見た。剣崎はいつもの優しい目で菖を見つめてくれていた。
「……うん。本当に、ありがとう」
 剣崎も曽部ちゃんも、あたしのこと心配して寄り添ってくれてる。少しだけ涙が出て、窓の外を見る振りをして素早く拭き取った。
「とりあえずな、本屋にも警備から連絡いっとるから。あの本屋にもまた行ったってくれい」
「僕もそのときは一緒に行くから」
 剣崎は知ってか知らぬか、涙を拭いた右手の指にそっと触れた。
「おまえはたまにしか学校おらんやないか!」
 思わず剣崎の手を叩いた。曽部が「困ったな」と苦笑していた。


◇◇◇

 菖の家のマンションに着いた。ここの7階らしい。
 いいところに住んでるなぁ、僕はあたりを見回した。敷地が広く、緑が多い。10階建てのマンションは、車道から少し離れた場所にある。近くには似たマンションが並んでいて、街の一角になっていた。双葉駅に近いとはいえ閑静な場所だろう。
 さすがにここまで、あの不審者は着いてきてないよな? 僕は少し警戒して、車内から見える範囲を目を凝らして確認してしまう。
「ありがとう! 曽部ちゃん、剣崎、またね!」
 エントランスに立つ菖は、だいぶ元気そうな顔で僕たちに大きく手を振った。僕も窓を開けて「また連絡する」と手を振る。曽部先生がクラクションを短く鳴らし、走り出した。
 ふぅー……。少しだけ、疲れが押し寄せてきた感じがする。
「疲れたか、さすがに」
 曽部先生がミラー越しに笑いかけてくれる。「ちょっとだけ」と僕も笑い返す。
「剣崎、さっきの話だが……久野はほかにも、そういう目に遭っとったんか?」
「いえ、まったく聞いたことなくて」
 僕も少し気になっていた。
「まあ、俺たちにはなかなか言えん話だろうしなぁ」
 曽部先生は信号待ちのあいだに、ナビを僕の家に設定した。
「久野はああ見えて強がりだろう? でも男に対して必要以上に線を引くってのもなんだか、あかんと思ってよぉ。あれで線を引かずに男ったらしになっても先生困るがの……」
 思わず笑ってしまった。菖がまさか! いや、よく考えれば、素質はある。油断できない。
「ま、これから久野が男を怖がったり嫌がったりすることがあっても、自衛は大事だしな。先生もそう思う。ほんでも変わらず、一緒にいてあげてやってくれや。おまえが久野を大切に思うあいだだけでもな」
 菖のことを大切に思うあいだ……黙ったままの僕に、曽部先生は話し続けた。
「本気で男のこと怖かったら、1組であんな喧嘩せんかったと思うし。もしかすっと久野の中でどっか、異性に対して、悔しさとかがあるんやろなぁ。難しいな、男と女のそういうさ、もともとの違いって。俺ぁ教師なのに、あかんなぁ」
 曽部先生は頭を掻きながら、悲しげな表情をしているように見えた。
「難しいですよね、ほんと」
 僕は会話に応えながら、菖のことを考えた。菖は、男性に対して意識が少ないのではないか? 限りなく無垢に近く、異性と喧嘩をすればまだ勝てると思ってそうだし、菖の魅力、それは性的な意味でも、本人はまったく気づいていなさそうなところがある。
 良くいえば男女平等だし、悪くいえばまるでわかっていない。でもどこかで理不尽さを感じとって苦しんでいる。
 菖はよく喋るけど、そのわりに心の内を明かしていない気がしてきた。お互い知り合ったばかりで、ただの考えすぎなだけかもしれないけど。
 僕は全然、菖のことを知れてない。


◇◇◇

「菖って、意外と思ってる奥のとこ、言わないから心配してる」
 土曜日の午前10時頃、まだ寝ていた菖に剣崎から電話がかかってきた。お昼からずっと練習なんだ、とか、明日楽しみだね、なんてたわいない話に相槌をうっていたら、急に改まって言われた。
 菖はもう落ち込んだりしていなかった。気持ち悪い出来事は、ただただ忘れたい。
 剣崎の言葉がよく飲み込めず、心臓の音だけが早くなる。
 まだ布団の中なのに、「明日の服選びたいから、またね」と電話を終わらせようとした。
「楽しみすぎる! またね、後でメッセージ送るから。あ! 寝起きの菖、可愛かったからまたね」
「ばっかばかばか、そのまたねはなんじゃい!」
 からかわれたのは悔しい、でも弾む剣崎の声は相変わらず可愛かった。
 菖は自分でもよくわからなかった。話しているつもりだし、誰からもよく喋ると言われているんやけど、まだ話し足りない?
 思ってることすべて話したら大変やよ? 剣崎は話させてくれる? ……あいつなら、全部聞くよって笑顔で言いそう。
 菖は思わず笑ってしまう。剣崎のことを考えると、本当によく笑うようになってしまった。
 朝のルーティンを簡単に済ませ、部屋で明日の服をいくつか広げていく。
 ミニスカートはやめたほうがいい? また、盗撮めいたこと、起きる? おじさんを思い出して鳥肌が立ってしまう。
 このことは母の昭子(あきこ)には話さなかった。菖は中学生のときに言われた言葉を思い出してしまう。
「痴漢なんて、もう! アンタがそんな服着とるから……何もなくてよかったけど!」
 遅くなった夜道で後ろから襲われ、痴漢に胸を揉まれたことがあった。怖くて走って交番に助けを求めた。父と母が心配して駆けつけてくれた矢先に、母に言われた言葉。そんなことをされる自分が悪い、昭子はよくそういうことを言ってきた。
 父の和彦(かずひこ)は犯人を捕まえるために、付近を捜索してくれた。千緒や仲良しグループ、不良仲間は誰かが一緒に帰るように気にかけてくれた。
 中学でも女子に胸を触られたり、男子から冗談で触りたいだなんて言われたこともあった。セクハラまがいの言われ方もあった、でも問題になるようなことは何もなかった。
 突然現れた男に荒々しく触られる不快感と恐怖、母の言葉が渦巻く。
 鳥肌を治めるように腕を摩りながら、鏡に映る全身を見た。自分の身体は好きじゃない。見えるところは細いのに肉があって寸胴だし、背も高くない。よく羨ましがられる大きめの胸も、最近はいやらしい感じに見える意味がわかってきて余計に嫌になる。
 菖は気を取り直した。考えても仕方ない。
 さてどうしよう、剣崎の前で何を着よう? クローゼットを漁っていると、部屋の扉が叩かれた。
「おい、めーちゃん! もうすぐホットケーキ焼くで!」
 4つ下の弟、(さつき)だ。扉を開く。
「でさ、ホットケーキ食べたらゲームしよ!」
 言い終わると、満面の笑みで皐が廊下を走っていく。
「もう少ししたら行くわー!」
 皐の小さめな背中に向かって叫んでおいた。キッチンから甘いにおいが漂ってくる。
 小学6年生の皐は、おそらくクラスで一番前の背の順だと思う。今でこそ元気だが、幼少期は身体が弱かった。皐が生まれてからずっと、菖にとって何より大切な宝物の存在。身体が弱いことも、発達が遅かったことも心配してきた。
 皐がいじめられたりしないように、皐が迷子にならないように、皐が困らないように、悲しまないように、なるべくなるべくできることをしてきた。
 少し前まではよく喧嘩もした。しかし自他共に認める仲良し姉弟(きょうだい)だ。
 ベッドや床に散乱したファッションショーの残骸に疲れて、菖もキッチンへ向かう。
 ホットプレートはダイニングテーブルではなく、リビングのテーブルに置かれていた。テレビは、皐が遊んでいるゲームのコンティニュー画面で止まっている。
 すでに1枚、ホットケーキが焼かれていた。もう1枚、昭子がタネを流すとさらに甘く、いい香りが増したように感じる。
 皐は「うーん、たっのしみー!」と焼けていく香りを噛み締めながら、メープルシロップのクマさんボトルを傾け動く様子を眺めていた。
「菖、もう焼いとるからお皿持ってきなさい」
「ママのお皿は? あるん?」
「あ、ママのないわ。持ってきてー」
「あいよー」
 食器棚からお皿とフォーク、そしてコーラも持ってカーペットの上に座った。コーラを飲みながら菖は、皐を小突く。
「次さ、皐が焼いてよ。あたし皐が焼いたのも食べたい」
「よっしゃ! 焼く、焼く!」
「あ、皐、ちょっと、もう? 汚さんでよ」
 皐が昭子からボウルを引ったくって、タネを流し込む。なんとかギリギリ、焼かれている2枚にくっつかずに済んだ。
「ホットケーキ、パパの分も焼く?」
 得意げな皐の言葉に、ほんの一瞬、時が止まる。 
「いいの、いいの」
 昭子は話を広げなかった。あたしも何も言わなかった。
 父、和彦はしばらく帰ってきていない。元々、建築の仕事で東京に行ったままのときもあったし、不在がちではあった。
 しかし今回は、半年近く一度も家に帰ってこない。連絡はたまにあるから心配はしていない。ただ、こんなに帰ってこないことは初めてだった。
 夫婦仲は良好ではなかった。かといって、喧嘩三昧の家庭でもなかった。見えないところで不協和音はたしかにあった。
 6年生の皐にどこまで映っているのかは、わからない。
 家族の仲は良くても、干渉してはならない、腫れ物に触れてはいけない暗黙のルールが、菖の家族にはあった。


 ホットケーキも食べ終わり、久しぶりに出したホットプレートがだいぶ大きく感じた菖は、昭子に「一緒に洗おうか?」と提案した。
 しかし昭子は今の今まで普通だったのに、急に「そんなことしなくていい」と少しだけ苛立ちを露わにした。
「普段からそんなこと、しないくせに。ほんとにもう」
 まただ。菖は小さく溜息をつく。
 お手伝いを頼む母親と、お手伝いをする子供。そんなよくあるシーンは、この家ではあまりなかった。させてくれなかった。
 小さい頃から菖は赤ちゃんだった皐を可愛がっていた。その流れでお姉ちゃんらしく、昭子のお手伝いをしようとした。
「ママ、あたしもお皿洗うよ」
「菖は綺麗にできんから、しなくていい」
 こんなことが何度もあり、お手伝いをしたことはほとんどなかった。
 たしかに煩わしさもあるだろう。特に小さなこどもだと、お皿を割ったりしてしまうかもしれない。キッチンを水浸しにするかもしれない。
 でも成長していくにつれて、昭子が決して綺麗好きではないことにも気づく。キッチン大好き料理大好きお母さん、ではない。
 そして何かあると、「うちの子はお手伝いなんてしないから」と他所のおばさんに嫌味を言っていたり、じゃあやろうとすると「できんくせに触るな」と言われたり。菖は反発して「キッチン汚えくせに、うるせーんだよ!」と言ってしまうことが何度もあった。
 受験のときもそうだった。「うちの子は何もできませんから」と担任に推薦の相談をしていた、勝手に。普段、何も先生に言ってくれない親なのに、こういうときだけ!
 たしかにあたしは何もできない、中途半端だ。でもでもでも!
 ママとは仲が良い、反発していてもおでかけしたりする。でも思うことがたくさんあった。
 あたしに絵や音楽、ファッションを教えてくれたのはパパだ。パパはママの理不尽な部分に気づいて、よく怒ってくれた。なのに、家にいない。
 置いてけぼりだ、菖は小声で呟いた。昭子はホットプレートを洗うことなく食材の確認をしていた。
 いつものことだ。昭子の態度にも慣れたもので、もう心は乱されない。
 キッチンを出て皐が遊んでいるリビングに行く。剣崎が遊んでいるゲームではなく、ひとりで宝物を集めながら冒険するゲームをしていた。
「あ、めーちゃん、ちょっと待っとって! これいいとこやから!」
「待っとる待っとる、ゆっくり遊んどっていいよ」
 めーちゃん。皐はずっと菖をこう呼んでいる。名前とお姉ちゃんがくっついてしまったようなものだ。最近、怒ると「めー!」なんて叫んでくるから驚かされる。ヤギかよ。
「これ終わったらさ、あのレースのやつ対戦しよ!」
「ええよ! 今日は皐、たくさん負かしたるわ」
 ふふん、と菖はソファに横になった。ホットケーキ、食べ過ぎた。メープルシロップもよかったけど、ハチミツも最高やんけ……そんなことを考えていたらスマホが鳴った。飛び起きると、剣崎からのメッセージだった。
『服、決まった? 僕は黒系で行くつもり』
 自分の部屋の散乱が頭によみがえる。はああ、どうしよ。
「誰ー? 千緒ピヨ?」
 皐がゲームから目を離さずに聞いてくる。昔から千緒のことを、もうひとりのお姉ちゃんだと言うくらい皐も仲がいい。6年生になって「千緒ちゃん」と呼ぶことが恥ずかしくなったらしく、あだ名で呼んでいる。
「違う、学校の奴。そういえば千緒とさ、夏休みどっか遊びに行こうって話しとるんやわ。ほいで皐も呼ぼうかって言っとったけど、どう? 候補はキャッティパーク」
「え、キャッティパーク、マジで⁈ 行く行く!」
 ゲームから目を離した皐が、「っしゃあ!」と菖に親指を立てる。菖も親指を立てた。
 スマホの画面に目を戻すと、続きがあった。『明日の待ち合わせは11時、双葉駅の改札で。お昼ご飯、一緒に食べよう』
 剣崎の家から南陽高校まで遠いのに、越えて双葉駅まで来てくれるん⁈ 『こっちまで来るの?』と、思わずそれだけ返信してしまう。即座に『行きますとも』と返ってきた。
 追い討ちをかけてまたメッセージが届く。『菖は菖の、好きな服で来てね』悩んでいることがバレている。『わかりましたよっと』黒猫がピースしているスタンプを送った。
 ……自分が一番好きな服装で行こう。剣崎の前では、それが自然だ。
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