019 初めての手紙

文字数 8,264文字

 廊下を走ってあと少しで8組に到着、というところで追ってきた剣崎に後ろから手首と肩を掴まえられてしまう。
「うああっ!」
「菖! ……さっきの、変なことってなぁに?」
 耳元で言われて思わず身体がのけぞってしまった。思いきり走ったせいで、菖のはぁはぁとした息遣いだけが目立つ。なんで剣崎は、はぁはぁしてねーんだよっ? 追いつかれるし惨敗やん!
 いつの間にか手首と肩を掴む手には力が込められていて、剣崎がまた髪越しの首元に唇を這わせてきた。
「んんんんー‼︎」
 お! ま! え! は!
 声にならない謎のパワーを出して剣崎を退かせ、教室の中へと逃げ込んだ。廊下に置き去りにした剣崎を見ると、口元に手を置いて何やら笑っている。悔しい、なんかよくわからんけど、悔しい! ほんとにもう、おまえは‼︎
 教室には数人しか残っていなかった。廊下にいる剣崎を、まだ冷房の効いている教室に呼ぶ。
 長くなっていた剣崎の髪は少しだけ切ったようで、珍しく整髪料でまとめられていた。
「髪、切ったよね? それ自分でセットしたん?」
「うん、少し横分けっぽく。どう?」
 左隣のキシイくんの席に腰掛けながら爽やかな笑顔を見せてきて、先ほど芽生えた殺意は消えてしまう。
「うんうん、よー似合っとる」
 面と向かって訊かれるとなぜか菖のほうが照れてしまい、剣崎の顔が見れなくなってしまう。当の本人は「かっこいいでしょ、試合はこの髪型にしようかな」なんて自画自賛している。
「あ、キシちゃんにもポップコーン渡しといたよ。めっちゃ喜んどったで! でね、あたしからのお土産は、じゃーん! こーれ!」
「なになに、ありがとうー! 見ていい?」
「どうぞ」
 菖は机に横たわるシャチのぬいぐるみに頭を乗せて剣崎を見た。これ、まさか枕になる?
 渡した紙袋を覗く剣崎が「わああ」と声を挙げた。
「なんかいっぱい入ってるんですけどぉ」
「ぐはは。なんかさ、色々買っちゃったんよな」
「これは? キャッティパークの?」
 剣崎が猫型の水晶玉のようなキーホルダーを見せてきた。
「そうそう。剣崎は薄い水色で、あたしは薄い紫色にしたん。綺麗やろ? リュックのファスナーにつけたんだぁ」
「え! 僕もつける!」
 菖が机にリュックを置いて見せると、剣崎も同じメインポケットのファスナーにキーホルダーをつけた。ふたりで顔を見合わせて笑ってしまう。
「どんどんお揃い増えてくなぁ」
 剣崎も嬉しそうな顔で、うんうんと頷いた。
「菖。僕はさ、なかなかお祭りとか一緒に行けないけど」
「さっきのは冗談! ちょっとワガママ言って、剣崎のこと困らせたかっただけ!」
 舌を出してごまかしてみた。一緒にお祭りに行きたいのは本音だ。でも指輪の話をどうしていいかわからず、内心むず痒かった。
 剣崎になぞられた左手の薬指。恥ずかしかったのに、それだけで嬉しい気がしてくる。
「菖がね、こうやってお揃いにしてくれたり、僕も菖もお土産を交換したり、いつものメッセージでもそうだけど、何気ない日常を共有していくこと。それって、ものすごく大切だなって思った」
「……そうやな」
 じっと見つめてくる剣崎に菖も微笑んだ。照れてしまう。剣崎も笑って、また紙袋に視線を落とした。
「ねー、何これ」
 大笑いしながら黒猫の目が施されたアイマスクを掲げる。
「飛行機で使えって」
「うははは! そうだね、これ使おっか」
 キャッティパークのヘアバンドやタオル、お菓子も入れておいた。
「え、これは? すご」
 家族で水族館に行ったときに買った、ミニチュアのガラス細工。シャチもいるし、イルカやタコ、エイにクマノミ、色々なお魚の仲間たちがプチプチの袋に詰められていた。
「これはなぁ、この灰皿みたいな透明ケースの中に、こっちの水色のちっちゃいキラキラな石をザーッと流すんよ。そしたら好きなように、こいつら並べて飾るん」
「シャチ対シャチじゃん!」
 剣崎がおそるおそるシャチのガラス細工を取り出して、シャチのぬいぐるみの前に持っていく。「大きいのと小さいの対決、可愛い!」すかさず菖はスマホで撮影した。
「ありがとう、ジオラマみたいだね。家に帰ったらやってみよーっと!」
 ほかにも水族館のイルカがついたボールペンや、帰省したときに買ったお守りなどを見て喜んでくれる。
「嬉しすぎる! お守りはスケートシューズ入れてるバッグにつけるね。ん? これは?」
 紙袋からキラキラした青いボールを出した。卵くらいの大きさの、まんまるなスーパーボール。
「それ、光にかざすとめっちゃキラキラするんよ」
 窓に向けてボールを見た剣崎は、じっと目を凝らした。きっと中のホログラムが、万華鏡のようにキラキラして見えるはず。
「わあ、すごい! キラッキラ! しかも綺麗な青だね」
「そうやろ、透き通ってるのにちゃんと色が出ててさ。あたしも青と紫持ってんの。皐は緑と金色と、パールみたいな白もあったっけな」
 笑いながら「これ、どこのお土産なの?」と訊いてくる。帰省先に行く新幹線の駅構内で、ガチャガチャを何度も回したことを話した。
「まさかのガチャガチャ!」
 おなかを抱えて笑う剣崎に菖は言った。
「えー、なんでそんな笑うん! これも共有やろ? 思い出の共有や!」
 剣崎はさらに大笑いしながら、青いスーパーボールを教室の床に当てた。一気に天井近くまで跳ね返り、驚いてふたりで長いこと大爆笑していた。


 駅の前で改めて、お互いにお礼を言う。
「あ! その紙袋の中にちょっとした手紙も入れといたから」
 剣崎は「うそ、見たい」とゴソゴソしたが、「後で見て!」と止めさせた。手紙に絵まで描いてしまい、今見られるととても恥ずかしい。
「あ! 講堂行く前に学祭の話し合い、した?」
 菖は話題を変えたくて学祭のことを訊いた。
「したよ、うちは焼きそばやるんだって」
「えっ‼︎ それは素晴らしい、食べますっ!」
 菖は思わずバンザイしてしまう。
「最初はわたあめ案だったんだけど、加山先生に報告したら3年生がやるんだって。だから練り直したよ」
「早いもん順やもんなぁ」
「それもあるし、やっぱり3年生に簡単なの譲るのかもね。菖んとこは? 何になったの、決まらなかった?」
 すぐに決まらないこともあるらしい。特に美術科は、何をやるのか想像もつかない案がくる、と先生たちから恐れられているそうだった。
「決まったよ、猫カフェやるんやぁ」
 シャーッ! 両手を猫みたいなポーズにして、菖は剣崎に襲いかかる。剣崎は器用に避けながら「え、猫、持ってこれるの?」と驚く。
「ううん、あかんよ。だからこう、シャーッてあたしたちが」
「え?」
「カフェだからジュースとか持って、いらっシャーッ!」
「いや、そこは、いらっしゃいませにゃん、とかにしてほしい」
 冷静なツッコミに、菖はさらにシャーッと剣崎を襲う。
「だまれだまれシャーッ!」
「ちょっ、菖、あはははは! あー、面白い。こんな可愛い猫なら僕、連れて帰るわ」
 シャーシャーと鳴くあたしの頭を剣崎がふわっと抱き寄せてくる。もちろんあたしはもう鳴けない、シャーッとした手もそのまま止まってしまう。
「なんなの、どうなってんの、この仔猫は」
 笑いながら剣崎が頭をぽんぽんと触り、しゃがんで目線を合わせてくる。
 な、なんだよ……ムッとなってつい頬が膨らんでしまう。
「わははは! あー可愛い、絶対いつか連れて帰ろうっと!」
 そう言って改札に向かっていった。ムカついて「シャーッ‼︎」と叫びながら追いかけると、剣崎は笑いながら逃げる。菖ももう笑ってしまって、おなかを抱えて走れなくなってしまった。
 改札を越え互いのホームへ続く分かれ道で、「またね」と手を振る。これからまたこんな日々が続くと思うと、菖は楽しみだった。
 家に着いて剣崎からのお土産を見てみた。シャチと剣崎に気を取られすぎて、ほかのものを確認していなかった。
 メープルシロップが4種類も入ってる! う、嬉しい……! 紅茶もたくさん入っていて、涼しくなったらきっと美味しいだろうな。あのポップコーンやクッキー、カナダらしいお菓子もたくさん入っている。思わずシャチに「おまえんとこのお菓子、美味しそうやね」と話しかけてしまう。
 最後に出てきたのは絵本だった。英語だと思う文章でまったく読めないが、ページを捲ると茶色のクマが冒険しているのがわかる。優しい色合いの可愛らしい絵だった。
『絵本ありがとう、すごい! 英語の絵本なんて初めてやよ!』
『僕もまだ読めなかったけど、見た目で選んでみた! 菖、絵本気にしてたから』
 真剣に選んでそうな剣崎が目に浮かぶ。
 届いたメッセージによると、4つも入っていたメープルシロップは採取の時期によって区切られた4種類らしい。早い時期に採られたメープルシロップは色が薄く、高価と知って驚いた。普通、寝かせたほうが美味しいんやないの?
 剣崎といると、知らないことを知れて面白い。4種類ものメープルシロップをお土産に買ってしまう剣崎も、とても面白い。菖は笑いながら、シャチを撫でた。


◇◇◇

 練習を終えてオフィーリアから出た僕は、菖に『今から帰るー、ねむいー』とメッセージを送りつつ電車に乗った。
 明日から授業か。再来週くらいには学校に行ける日が少なくなってきそうだ。試合が近い。やれることは今、やらないと。
 この時間の乗客は少ない。座席の隣に置いたリュックから参考書でも出そうと手を突っ込むと、紙袋に手が当たった。そうだ、菖がお土産の中に手紙を入れたと言っていた。
 いろんなお土産が入っていて封筒らしきものはない。中を覗いてよく見てみた。スーパーボールなんて入れてくるところが、本当に面白いな。その青く透きとおるボールの下に、1枚の白い紙が折りたたまれているのが見えた。これか。手のひらサイズの紙を開いてみた。
 【カナダお疲れ様でしたん】【いつかキャッティパーク一緒に行こう 水族館もね】
 そしてふたりで買った黒猫のぬいぐるみが描かれている。可愛い。もっとびっくりしたのは【このあいだの2人 花火うれしい】と、学校から花火を見たときの僕と菖の絵を描いてくれた! すごい! 実は僕は、帰国したときに降り立った東京で、菖の好みにも近そうな服を買って着替えてからこっちに帰ってきた。だから服まで描いてもらえたの、とっても嬉しい。
 窓に反射する僕は驚くほどにやけてしまっていた。
 顔を元に戻して、すぐに手紙に視線を落とした。【ちゃんと食え、太れ】だって! ふたりの絵の横には、おかえり、ただいまって書かれてて、ほんと可愛いー‼︎ 小さな子からファンレターを貰ったような感覚になってしまう。
 よく見ていると、菖は自分の姿に【あやめ】って書いてるのに、僕のことは【けんざき】、上のほうにかろうじて【けんざきのぞむくん】と書かれていた。
 菖に名前で呼ばれたこと、ない‼︎
 ……ちょっと考えるのやめよう。手紙が嬉しすぎるから、またゆっくり、その件は考えよう。
 僕は手紙をスマホで撮影する。いつでも見たいし、額縁に入れて飾りたいくらい。
 いつかラブレターくれないかな? 僕が海外遠征のときに手紙書く? うーん、時間差がありすぎるし、ちゃんと届くのか怖い。でもポストカードとか出してみようかな? ポストカードだと配達員とかに見られちゃう? ラブレターも欲しいけど、僕も菖に何か書いて送りたい。
 おまえがラブレターを書けば? もうひとりの自分と、脳内のシンちゃんが言ってくる。それこそ壮大なラブストーリーかラブコメ小説になりそうだし、勉強をおろそかにしてしまいそう。
 なんだかんだ僕は怖いのだ。菖と現状以下の関係になってしまったら、どうしよう。フラれたら、どうしよう。無理、生きていけない!
 ……いや、生きていける。恋愛したいと思ったときに寄ってきた女の子と、適当な恋愛をすればいい。性欲もなかった本来の僕は、そんな感じになろうとしていた。
 でも怖い。菖じゃない人と恋愛とか、今は考えられない。




 あとは寝るだけの僕はベッドに腰掛けて、これで何度目だろう、菖の手紙を見ていた。
 ラブレターが欲しいとかフラれたらどうしようとか考えてしまったけど、本当にこの手紙が可愛くて嬉しくて、SNSにアップしたくなる気持ちが初めてわかった気がする。みんなにも見せたいもん。
 それに僕の絵、特徴を捉えてよく描けている。上手! もっとキャラクターみたいな僕も描いてほしいし、スケートしてる僕のことも描いてほしい。スケートの先輩で自分のグッズを売ってる人がいるけど、僕は菖の絵で作ってもらいたい。
『イラスト上手いって言ってくれてありがとう、あたしも嬉しいわ! おやすみ』
 ちょうど菖からメッセージが届いたのですぐに返信をする。
『ねぇ、いつかスケートしてる僕のこと描いて! あと2頭身キャラになった僕とか! 有名な選手になるから、そのときは専属で描いてね。キーホルダーとかグッズにしたーい!』
『いいよ、描いてやる! シャーッ!』
 怒ってるのか意気込んでるのか、わかんないんだけど⁈ 突っ込みたいけど寝る時間だし、もう、ほんとに菖は。可愛い奴め。
 机の上に手紙を置いて電気を消し、僕もベッドに寝転んだ。
 学祭、出れるかなぁ。試合の日とはかぶってないけど、練習が過密になっていくことを考慮するとギリギリな気がする。
 面倒そうに思える屋台も、最近はクラスのみんなと話したりして楽しいからやっぱり出たい。美術科のカフェも楽しみだし、菖が猫になるのなら絶対に見たいし。キャンプファイヤーもあるとか聞いたけど、違うクラスの菖と一緒に見てもいいのかな? きっといいよね。
 中学のときのイベントは1年生のとき以外、ろくに出られなかった。途中参加、途中離脱。僕も積極的に出たいわけでもなく、優先しなかった。
 これからは最優先するからね! 以前、コーチたちにそう宣言したら驚かれた。「のんたん、学校楽しいんだねぇ」だなんて笑われた。察してほしい、きっと察してると思うけど。
 帰国したときの東京で、スケート仲間にも会った。僕はスマホケースに入れた写真を外すことをすっかり忘れていて、必死に見えないようにした。見えても構わないけど何を言われるか、何を噂されるかわからない。信頼していて仲もいいけど、まだ言えない。
 特に僕は、一足早くシニアの、大人と同じ大会にでる。ライバルだったみんなとは今年度は戦わない。抜きん出たことでライバルではなくとも、妬まれる可能性もある。
 スマホケースには今、菖と行ったアメリカンダイナーで撮った黒猫のぬいぐるみ2匹の写真を入れていた。
 いつか江藤さんあたりに頼んで、みんなで写真撮ってもらおうかな? 何人もいる写真なら、見られても大丈夫だよね?
 いいこと思いついたな。僕はその瞬間に、寝た。


 数日後、コーラのコマーシャルが放映された。
 僕はあらかじめ、美術科のみんなには先に報告しておいた。菖がお昼休みにCM鑑賞会を開いてくれて、コーラで乾杯して盛り上がった。特進科から美術科までの長い廊下を歩くと、「コマーシャル観たよ」なんて声も掛けられて、照れたけど嬉しかった。
 コマーシャルはしっかり観ないと僕だとわからないような作りだった。ただコーラのホームページや媒体なんかを見れば、はっきり写っているものもあった。
 僕単体のコマーシャル、いつかできるだろうか。スケート関連でも、スポーツでもなんでも。
「ほんますごいよなぁ、コマーシャル出られるなんてよ」
 帰りに寄った中庭のベンチで、コーラを飲みながら隣に座る菖が言う。
「みんなも盛り上がってくれたし、すっごい嬉しい。鑑賞会もありがとう」
「だってこんなん、観るしかねぇやろー」
 ニコニコした菖を見て思った。以前の僕なら澄ました顔をしていたかもしれない。あくまでクールに、こんなの通過点ですよって。
 今もそう思ってるけど、もっとちゃんと思ってること、嬉しいとか楽しいとか単純な気持ちを伝えたくなる。これは絶対に、隣で笑っている菖の影響だと思う。
 菖はスマホでコーラのホームページを見ていた。
【立ち上がれ少年少女(コドモ)! 大人なんかに負けるな】
【立ち向かえオトナ! コドモに負けてたまるか】
「あたし、このキャッチコピーも、疾走感あるデザインも好きやな。あのコーラやで特別扱いかもしれへんけど」
「うんうん、デジタルみたいなデザイン、かっこいいよね!」
「実はうちさ、新聞とっとるんやけど。この広告があってさ、切り取って保管した!」
 はにかんだ菖がスマホの写真を見せてくる。新聞の一面広告を撮ってくれていた。
「えー、このパターンで広告になってんだ? 菖、これファイルに入れてくれてるの?」
「うん! ビニールポケットっていうの? こんな大きなファイルはないで、折らんと入らんかったんやけど。青いやつ、剣崎用にしたん」
 えへへ、と足をぶらぶらさせて菖が笑う。
「そのファイルがたくさんになるように、頑張るから見てて」
「ったりめーよ! しかし剣崎は、本当にすごいわ!」
 あまりに誉められると、ありがとうしか言えなくなってしまって複雑になる。
「そういえば菖、僕のイラスト描いてくれてる?」
「ああ! ちょっと下書きみたいなの描いとるよ、見る?」
「見たい見たい、見せて!」
 リュックから小さめのスケッチブックを開いて渡してくれた。そこには僕が小さくなったようなキャラクターが何体か、鉛筆で描かれていて思わず叫んでしまう。
「えっ、かっわいい‼︎」
「せやろ。その何枚か後のページに、動画で見たスケートしとる剣崎も試しに描いとる」
 小さな僕がわちゃわちゃしているページを何枚かめくると、急にタッチが変わって僕が氷の上でポーズをとっている絵が描かれていた。上半身の黒いひらひらとした衣装が靡いている。めくると次は、ステップをしている僕。全身を描いてくれてるから顔の表情は簡易的に描かれているものの、真剣な様子が伝わってくる。
「菖、すっごい上手なんだけど! うますぎる! ねぇ、僕のことすごいとか言うけど、菖も充分すごいよ?」
「ははっ。剣崎、絵の世界はこんなん、普通も普通よ」
 少しさみしそうな笑顔を見せた菖は、力なく噴水を眺めた。
「絵なんてなかなかさ、クラスでいちばんうまーいとか、それくらいの取り柄なんよ」
 返す言葉に困った僕はスケッチブックをめくった。今度は衣装らしいものが描かれていた。
「あ、それはね、剣崎の衣装! こんなんあってもええんちゃうかなーって勝手にデザインしてみた!」
 服飾デザイナーさんばりの描き方をした菖の考案衣装は、何パターンも続いた。圧巻だった。
 前まで母さんが衣装を作ってくれていた。徐々に大変になっていき、今では衣装をオーダーしている。僕は実際にデザイン画を見たことがあるのだ。生地や細かい部分の指定が書いてないだけで、見劣りしない出来栄えだと思った。
「菖、これ本格的だよ。被服科行っても良かったんじゃない……?」
「それはない、あたしお裁縫がまったくダメやで。でも被服科のナオちゃんおるやろ? あの子にもそれ見せたら誉められたん、嬉しかったわぁ」
 絵も上手でライヴで歌うって言ってて、衣装のデザイン画も描けて、僕からしたら菖のほうがすごい。本当にすごいよ。
 そう言いたかったけど、菖のさっきのさみしそうな笑顔が離れなくて言えなかった。
「ねぇ、菖。このスケッチブックちょうだい」
「ええっ?」
 菖はコーラを吹き出しそうになって驚いている。
「な、なんで?」
「だって僕、この菖の描いてくれたイラストとか衣装、ほんっとに好きだもん!」
 いつの間にかスケッチブックをぎゅっと抱えてしまっていた。完全に駄々っ子だ。
「ちょ、おまえ……」
 菖の顔は呆れている。でも僕は引かない。
「お願いっ!」
「いや、それ下書きだしさぁ……ほんならとりあえず、ゆっくり見たいんなら貸してやる。少ししたら返せよ?」
「わかった! それで下書きとか色々終わったら、僕にちょうだいね?」
「え、そんなにぃ……?」
「そんなにも! 本当に衣装にするかもしれないし!」
「本当に? あーもう、わーったよ」
 呆れた顔をしながら菖はベンチから立ち上がった。そしてなんと、僕の頭を自分から撫でてくれた。
 わあ……! 嬉しくて嬉しくて、きっと僕は満面の笑顔だったと思うんだけど、菖の口から出た言葉は予想外のものだった。
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