006 約束と不審者

文字数 5,820文字

 6限目が終わり、菖は中央階段で待っていた。
 剣崎の「一緒に帰ろう」は、この中央階段から一緒に下りて、学校前の駅までを指す。時間がある日は教室や外で話したり、近くのコンビニに寄ったりしていた。剣崎は練習がない日でも、夜ご飯までには必ず帰る。
 しっかりしてんなぁ。菖は感心しつつも、おぼっちゃまだなと思うときもあった。自分とは正反対だ。ま、剣崎のことだから、宿題や家でもできるトレーニングを欠かさないんやろね。真面目やないと、偉業は達成できんもんな。
 高校に入ってからはほとんどしていないが、菖はよく夜遊びをしていた。家にいることがつまらなかったり色々あって、中学2年から3年はよくほっつき歩いていた。いわゆる不良仲間とゲーセンやショッピングセンターでたむろし、たまに深夜徘徊。
 だから剣崎と夕方には手を振って別れることが新鮮でもあり、ふざけた自分とはやっぱり違う人種なのだと、どこか線引きをしていた。
 視界の先に、教室から出てくる剣崎と千緒が見える。
「千緒ー! 千緒も一緒に帰る?」
 手を振ると、千緒だけがドドドドッと菖に向かって走ってくるではないか。え、なになになに、こわい!
「菖! ちょっと!」
 少し大きめの身体で体当たりしておきながら、おかまいなしに菖の腕を引っ張り、剣崎と距離を取る。
「ど、どしたん⁈」
 千緒が止まると、勢いで菖は少し吹き飛んだ。廊下が滑る。千緒はそれでも菖の腕を掴み、引き寄せ、内緒話をするかのように密着する。
「あのさ、菖。今度の日曜日、一緒に買い物しよって私、言ったやん?」
「は、はい」
 千緒の小声は少し呼吸は乱れているものの、有無を言わせぬ迫力があった。
 ひよこのような千緒はいずこへ? 千緒ピヨ改造計画の一環としてあたしは、夏服を見立てて欲しいと頼まれていた。
「それね、ナシ!」
 ほえ? 千緒ピヨちゃん?!
「え? どうし」
 菖の言葉を遮って千緒が大きな声を出す。
「でね! 剣崎がね! その日! 一緒に過ごしてくれるって‼︎ ねっ?」
 階段の前で待ってくれている剣崎に向かって同意を求めた。剣崎も、笑顔で頷く。
「と! いうわけで! おっさきー!」
 スキップでもするかのように、千緒は手を振りながら走り去った。え、あいつマジかよ……あたしは腕をさすりながら、呆然とする。
「と、いうわけで、日曜日ね」
 いつの間にか菖の横で剣崎が微笑んでいた。
「あたしはいいけど……剣崎、大丈夫なの?」
「大丈夫、日曜日は練習オフにしてたから」
 本当か? おぼっちゃまは何時まで大丈夫なんでしょうかね? と聞いてやりたくなったが、あたしは見守ることにした。忘れていたけどこいつは、カモの赤ちゃんだ。親鳥が護衛してやらぁ!
 なんて強気に思いながらも心臓はバクバクしていた。最近のあたし、おかしい。付き合ってなくたってデートくらい何回か、したことあるのに!
「ところで菖、今日少し時間ある? 本屋に行きたいんだよね」
 勝手に名前で呼んでることが少しくすぐったい。
「お! いいよ、駅横の本屋さんよね? 行こ行こ」
 気持ちを隠すかのように剣崎の提案に乗った。
 ふたりで階段を降りながら、参考書を見たい人と画集を見たい人の対決をする。真面目な剣崎と、貫く菖の互角の戦いは引き分けに終わり本屋に着いた。


 画集を見たいのに、広すぎる店内に菖は負けた。まず店内案内のマップが見つからねえ。見渡す限り、たくさんの本! 学校帰りの南陽高校の生徒も、ちらほら見かけた。
 山積みの参考書が並ぶ一角に、剣崎は喜び勇んで向かっていった。そんな剣崎を横目に、菖はふらふらと歩いた。
 目についた絵本コーナーで立ち止まる。
 絵本って、少ない言葉とわかりやすい絵で伝えなきゃいけない……絵本で有名なことだと、ブルーナカラーだろうか。はっきりした色合いの、決められた数色。その数色を使って、絵本は彩られている。
 あたしも自分の色が欲しい。アヤメカラー! いいね、紫系は絶対に作りたいね。アヤメパープル? 最高! かっこいい!
 並べられた絵本を手に取り、ペラペラとめくってみる。棚をよく見ると、飛び出す絵本があった。その隣には、音を鳴らして遊べる絵本。着せ替え人形がシールになって、重ねられる絵本。
 ひゃあー、今こんなんまであるんだ? キラキラしたプリンセス大特集の本もある。幼児教育の雑誌に分類されるのだろう、ジュエルのついた王冠カチューシャが付録されていて本格的だ。すごい。あたしもこのカチューシャ欲しい……!
 夢中で絵本や幼児教育の本を立ち読みしていた。トントントン、と指で肩をつつかれる。
 剣崎かと思って振り向くと、紺色のスーツを着た太ったおじさんが立っていた。誰? 思わず、笑顔の筋肉が下がる。
 なにか? という顔を向けると、はぁはぁと不自然な息を吐き、意味のわからないことを言ってきた。
「君、さっき盗撮されてたよ」
「……は?」
 いきなりなんなんだよ? 菖は臆せず、睨む。睨まれたおじさんは少し驚いた様子だったが、すぐにまた、はぁはぁと息を荒くする。頬が紅潮しているのがわかる。
「君は足を少し開いてただろう? その隙間にさっき、男の人が足を入れてたんだよ、こうやって」
 菖の今の両足は、ほんの少しの隙間しかない。そこを割り込んで、おじさんの右足がグイグイと入り込んでくる。スリッポンを履いた足の親指に、おじさんの革靴の感触が伝わる。
「それでね、靴の先にちいちゃなちいちゃなカメラが仕込まれててね。君、撮られてたんだよ」
 足を入れられた覚えも、気配も、何もなかった。だけど、されたのかもしれない。背後からならわからない。
 おじさんはまだ、菖の足のあいだに足を入れたまま動かない。
 菖は急に、自分の短めのスカートが汚らわしい存在に思えた。しかしすぐに、それは違う、と必死に自分に言い聞かせる。あたしは何も悪くない!
 おい、おじさん。なんで、その盗撮した野郎を注意しなかった? なんで、捕まえてくれんの? なんで、あたしに言うの? なんで? なんで‼︎
「ねぇ、盗撮とか、怖いよねぇ?」
 声の出ない菖の二の腕を、ポロシャツの半袖が上に捲れるくらい撫でてきた。おじさんの顔の汗が滴り落ちそうだ。全身ではぁはぁと息をして、不気味な熱がこっちにまで伝わる。ぞわぞわと反射的に身体が反応して、震えてしまう。
 すると足元に挟まれてないおじさんの左足が、小さく一歩こちらに踏み入れられて、さらに密着する形になる。肌の感触を確かめるように、菖の二の腕をまた撫でた。
 きめえ‼︎ 寒気で思考がストップされた脳内を、自分自身で呼び戻す。声が出ない。だけど、かろうじて足は動いた。
 おじさんの足をかわして振りきり、絵本コーナーから飛び出して大きな通路を目指して走る。立ち読みの人に助けを求めようと思ったが、早く遠くに行きたくて前に踏み出す。
 振り返るとおじさんも追いかけてきたのだろう、菖のリュックに手を伸ばそうとしていた。声にならない悲鳴をあげる。すんでのところで、また走る。遠くに見える参考書コーナーに、剣崎の姿はなかった。
 剣崎! どこ? どこ行ったんよ‼︎
 後ろを見ると、おじさんはまだ着いてきていた。こんなん、じわじわ追い詰められた獲物みたいじゃねーか! 強気な気持ちとは裏腹に、脚や手が少し震えてきた。菖は前に進みながら、左右の棚の間を素早く確認する。後戻りは出来ない、でも撒きたい。どこにおるんよ、剣崎‼︎
 参考書コーナーのすべてが見えたわけではない、死角にいたのかもしれない。曲がって、棚の間を通って戻るか……どうしよう、剣崎、助けて……!
 そのとき、少し先の通路できょろきょろしながら歩く剣崎が見えた。
「剣崎っ‼︎」
 全速力で剣崎の元へ走り、左腕にしがみつく。
「うわっ、ごめんごめん」
 菖は腕に顔を押し付けて涙が出そうになるのを必死で堪えた。


◇◇◇

「……菖? どうしたの?」
 僕の腕にしがみつく菖の震えに気づいた。何も答えない。
 ふと、視線を感じた。遠巻きに、でも確実に、こちらを見ているスーツ姿の中年男。よく見ると、その視線は菖だけを見ている。そんなに遠くはない。でも僕の視線と交わらない。
 顔が蒸気で火照ったような汗まみれの不審者は、口をもごもごさせて、大袈裟に舌で唇を舐めるような仕草をした。気持ち悪い。
 近くの棚に南陽高校の生徒が何人かいた。助けを求めようか?
 視線を戻すと、不審者が少し近づいていることに気づく。だるまさんが転んだ、かよ。やばい気配しかない。
 何があったんだ? 菖に、何をした?
 ひとまず本屋から出よう。
「菖、歩ける?」
 僕の左腕にしがみついたまま顔をあげない、でも頷いた。
「大丈夫、迂回して行くから。そのまま一緒に、行くよ」
 僕は菖の髪を一度撫でて、横の現代小説コーナーの中に入る。後ろや前を注意しながら、棚と棚をジグザグに歩いて出口を目指す。店員さんに話して匿ってもらおうかとも思ったけど、こういうときにいない。それに何が起きたのかもわからないし、きっとおおごとにしたくないんじゃないかと、すごく迷いながら出口まで来た。
 出入り口はひとつしかない。不審者が着いてきたら、大声を出すか店員さんに助けを求めるつもりだった。しかし、見る限り近くにも後ろにもいない。残念ながら店員さんもいない。そのまま外に出た。
 どうせこのチェックのボトムで南陽高校だってバレてるだろう。だったら、学校に戻ろう。さすがに校舎内には入ってこれないし、来たとしても不審者を捕まえられる理由が増える。
 本屋から出てすぐに南陽高校前駅と学校だ。不審者が後ろにいたとしても、走ればなんとかなる。
 校門に着いたときには僕の腕から菖は離れ、何が起きたかをゆっくりと話してくれた。
 気持ち悪さと怒りで、僕の頭はクラクラしてきそうだった。


 教室に戻ろうかと思ったけど、少しでも菖の気持ちが落ち着くように中庭へ向かった。ここはグラウンドと違って芝生になっていて、洋風の白い噴水がある。丸いお皿が縦にならんだようなデザインで、勢いよく水が流れていた。白いベンチに菖を座らせる。
 生徒も帰って静かな中庭に、水の音だけが響く。
 うなだれている菖……こんな菖を見たのは初めてで、どうしたらいいのかわからない。心配しているのに、もどかしい。焦る僕はとりあえず、隣に腰掛けた。
「ごめんね、剣崎」
 ついこのあいだは僕に「おまえが謝ることなんて、なーんもねえんだよ」なんて言っていたのに!
「それよりも……その……大丈夫?」
「……うん」
 デリケートな問題だけに、どこまで話していいのか迷ってしまう。
 僕はあの不審者が盗撮犯なんじゃないだろうか、と考えていた。あきらかにおかしい。防犯カメラでチェックしたとて、言い逃れできるやり方なのが確信犯な気がしてならない。腹立たしい。
 百歩譲って本当に、誰かに盗撮されたとしよう。なぜ菖を怖がらせる必要がある? それとも盗撮は嘘で、怖がらせただけ?
 どのパターンでも許せなかった。不審者も盗撮犯も、僕が殺してやりたい。
 フィギュアスケートの試合でも似たようなことがある。試合会場の関係者出入り口に、ファンが待っていることがある。それはまだ、許せていた。応援の声も嬉しい。
 ただ最近は、勝手に写真を撮ってる人がいる。スマホカメラの普及でもう仕方ないことかもしれないけど、おかまいなくシャッターが切られたり、わざわざ望遠カメラで撮られたり、ひどいとそれをネットで公開したり……心底困っていた。
 でも僕のケースとはやっぱり違う。菖はおそらく、というか絶対、性的な嫌がらせだ。
 また胸がチクッとする。
 僕が部屋にひとりのとき、菖で身体が反応してしまうこと。……違う、僕はあんな不審者じゃない‼︎ しかし一緒な気がしてきてしまい、殺したい衝動どころか気落ちしてしまいそうになる。
 横でおとなしく座る菖に対して愛しい気持ちと、かわいそうな気持ちと、誰にも見せたくない気持ちと、そして怒りで……僕は体内から粉々に爆発してしまいそうだった。
「菖」
 僕はおそるおそる菖の肩を抱き寄せた。触れていいものなのか、すごく迷った。拒絶されてもいい覚悟で、菖に触れた。
「なんて言っていいかわからなくて、ごめん」
 ふわっと菖のいいにおいが僕の鼻をくすぐる。菖は何も言わず、僕の肩に頭を預けた。肩を抱きながら、菖の髪に顔をうずめる。そっと一度だけ、髪にくちづけをした。
 なぜだか僕が泣いてしまいそうだ。触れさせてくれてありがとう。男なのに、ごめんね。助けてあげられなくて、ごめんね。
「おい、おまいらー! 男女交際は学校出てからや言うたぞーい!」
 顔を上げると、中庭を挟んだ校舎を繋ぐ渡り廊下で曽部先生が手を振っている。
 いつもなら「曽部ちゃん!」と駆け寄る菖なのに、空元気すら出なさそうだ。菖の頭をぽんぽんとして、僕だけ曽部先生の元へ行く。
「剣崎、どうした」
 曽部先生はベンチに座ったままの菖に向かって顎を動かした。
 簡単に、菖から聞いたことを説明する。曽部先生に話すことは一瞬迷ったけど、僕だけでは何もできない。かといって、なぐさめるだけでは済ませたくなかった。心配すぎる。誰か頼れる人が欲しかった。
「……そうか、話してくれてありがとな、剣崎。ちょっくら待っとってくれるか? その本屋と、学校の警備にも連絡するわい。そんで久野と剣崎を家まで送る」
「え、でも」
「なぁに、親に報告するとかはせん。心配やからの、家の前まで送り届けたるわい。ええか、そこで一緒に待っとれよ」
「わかりました、ありがとうございます」
 足早に校舎へ戻る曽部先生に一礼して振り返ると、菖は噴水の水に手を入れてバシャバシャと遊んでいた。
 少しほっとして菖のほうへと向かう。
「冷たっ!」
 歩く僕に、菖が水をかけてきた。キラキラと、水の粒が舞う。
「ありがとう、あたしもう大丈夫だよー」
 まだ笑顔が弱々しい。でもまた水をかけてくる。
「こいつー!」
 僕も駆け寄り、負けじと水をかける。いつもと違いすぎる菖の顔を見てると、放っておけない。
 かわいそうに。怖い思いをして。
 僕は菖への複雑な思いを消して、父親のような感情を持ちたいのだろうか?
 それもまた、いいかもしれない。
 そのときは僕のいかがわしい欲も罪悪感も、水に流れて消えてしまえばいい。
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