021 メイビーベイビー

文字数 6,735文字

 今でも本気でサンタクロースを信じているかのような、剣崎はそんな顔をしていた。目の前の純粋そうな視線から逃げるように菖は目を逸らす。
 常々思っていた。あのとき、剣崎を助けたわけじゃない。大それたことをやってのけたわけでもない。
 あたしはヒーローでもスーパーマンでもない。かといってヒロインなんかじゃないし、女の子らしくもない。こどもっぽいし、優しくもない。適当でズボラで、絵も歌も何もかもが中途半端。
 嫌いな奴なんてたくさんいる。敵もいた。でも菖は屈しないし、屈したくもなかった。
 とうとう剣崎に嫌われたと思った。付き合ってたかどうか、微妙な女の子の存在まで出てきて、心のモヤモヤがつきまとう。
 変なことするの、あたしが初めてって言ったやん! そう言いたかった。しかし菖は思う。
 彼女でもないのにそんなことを言う資格、あたしにある?


 千緒とひとしきり笑った後、平然を装ってカリキュラムを組んだ。3人が一緒に受ける授業は体育だけだった。
 菖と剣崎は、生物と国語、美術デザインも一緒にできた。
「ここのデザインの授業受ければ、そのまま菖と帰れるから」
 なんて言って剣崎は決めていた。特進科は7限授業の日も出てくるため心配だったが、その曜日は大丈夫だった。
「意外と自分の科の授業で大変かもー」
 うーんと肩を伸ばした千緒も、剣崎も、目一杯にカリキュラムを組んでいた。特進科は進学のための授業も踏まえて組まないといけない。
 その点、菖は少しお気楽だった。被服科と情報処理科のデザインの授業も選択できた。
 2限目から登校してみたかったのに、そこはクリアできなかった。1限目は自分の科の授業や、クラス全員で受ける必須の授業があらかじめ組み込まれていた。こういうところが大学との違いなんだろう。
「単位取れるかな。僕、心配になってきた」
「大丈夫やろ、必修科目さえ取っとけば! スケートの大会で優勝連発したらちょっとは優遇されるんちゃう?」
「そんな簡単に勝てなーい」
 口を尖らせ頬を膨らませた剣崎が、「でも見ててね」と小声で言ってくる。
 学祭が終わった後に剣崎は試合を控えていた。年内は大きな大会に3試合も出るそうだ。シニアの大会だとテレビでも流れるらしく、菖は密かに楽しみにしていた。
「大会とか公欠扱いでしょ? ま、代わりのレポートは多くなりそうやけどね」
 すると千緒がスマホを見て驚いた。
「わっ、もうこんな時間!」
 教室にはもう誰もいなかった。
「ほんとだ、早いね」
「私、そろそろ塾行かんと……あ」
 塾というワードを出してしまった千緒が口に手を当てた。
「いってら」
 菖は大丈夫だと目配せをして手を振る。
「ごめん、おっ先!」
 急いで資料をリュックに詰め、千緒は足早に教室を出て行った。静寂に耐えられないのか剣崎が口を開く。
「菖が来る前に、篠宮さんに訊いたんだ。ひとつ上の人とどうなのーって。うまくいくといいよね」
 あきらかに話題を変えようとしていて、良いのか悪いのかわからなくなってくる。
 千緒はその人のことが好きかどうかわからない、そう言って躊躇していた。気持ちが今ひとつわからないあたしも、剣崎に対して躊躇しないといけないのかもしれない。
「そうやよな。あたしらも、そろそろ行こか。剣崎、練習行くんやろ?」
 元気な振りをして菖も資料をリュックにしまう。剣崎も「そうだね」と片付け始めた。
 机を前に戻して廊下に出ようと剣崎の横を通ると、まだ座ったままの剣崎に手首を掴まれた。
「菖。本当に、何もないからね?」
 見上げてくる剣崎が今にも泣きそうな顔をしている。躊躇して控えめな態度をとってしまったうえに、こんなに早く見破られると心が苦しくなってしまう。
「わーってるよ」
 笑って剣崎を見たが、ほんの少し顔がひきつった。剣崎の手を離そうと、力が込められた指を触る。
「やだ。今、離したら駄目な気がする」
 何が駄目? 思わず訊きたくなったが無視をした。掴んできている指を離そうとしても、びくともしない。
 観念した菖は、そのまま剣崎と対面になるように隣の席に座った。いつの間にか両手首を掴まれてしまっている。
「剣崎はほんと、白くて綺麗な腕やねぇ」
「ねえ!」
「なあに」
 剣崎が椅子を動かしてこちらに近づいた。くっつきそうだった膝と膝が交差して、剣崎の膝がさらに近づいた。長い脚で、菖が座る椅子ごと挟んでくる。
「本当に本当に、何もないから!」
 至近距離で睨んできて、両手首を強く握ってくる。初めて会ったときのことを思い出した。力強い目だと思った。
「剣崎、それよりもさ!」
「……うん?」
「あたし、そんないい奴やないよ?」
「えっ?」
 ぽかんとした顔になって、あどけない表情になった。睨んできた目はどこにいった? 可愛くて思わず笑ってしまう。
 どうして笑っちゃうんだろう。真面目に話さなきゃいけないのに。
「あたしはさ、剣崎が思うような、そんな出来た人間やないってこと」
「さっきの話?」
 菖は掴まれた手首と一緒に、うんうんと頷いた。
「嫌いな人がいるのは驚いたけど、菖らしい理由じゃん。そんなこと気にしてたの?」
「え? うう…うん」
 そんなこと、とあっさり言われると、なんだか小さなことにも思えてくる。
「そのままの菖でいいってよく言うじゃん、僕」
「うん、言うね」
「でしょ? そのとおりなんだよ。それよりもさ!」
 それよりも? 剣崎がおかまいなしに手首をぶんぶんと振ってきて、大笑いしてしまう。
「それよりも、だって! あははは!」
「それよりもだよ! 菖は中学のとき好きな子、いた?」
「いたけど……剣崎もその、千緒の塾の」
「違う‼︎ 最初はいいなって思ったよ。でも……全然違うの‼︎」
 菖の言おうとすることを遮ってまで、剣崎は否定してきた。
 手首を掴んでいた剣崎の手が、どんどんと腕に上がってくる。引っ張られて、背もたれから前のめりになってしまいそうで「ちょっと」と姿勢を正そうとした。
 すると剣崎が腕を掴んだまま、菖の胸に傾れ込んできた。長い脚は開いたまま、膝の上に乗ってきた。剣崎の重みと体温がとても熱い。
 ねぇ、胸は……ちょっと待って? 声が出ない。
「好きな子と付き合ったの?」
 慌てふためいている菖のことはまったく気にしていないらしい。考えてもいない質問がきて、拍子抜けした。なんとか声を出す。
「……そんなこと、いや、待って、ねぇ、この体勢は」
「ねぇ、聞いてる?」
 また菖の話を遮った剣崎は、胸に顔を埋めつつ低くて怖めいた声を出してきた。
 剣崎の手は知らぬ間に、菖の首に回されていた。
 跨いでいる剣崎の太ももと、自分の太ももが触れ合う。しかもそんなに重くなくて腹が立つ。
 よく見てみると、剣崎の太ももが細身の制服ズボンにぴったりと沿うように太い。夏休み前はこんなに太くはなかったはずだ。今の体勢じゃないと気づかないくらい、鍛えられている。
 剣崎の身体が熱い。胸のあたりも剣崎の呼吸が当たっているせいか、熱い。心臓の音を聞かれてしまいそうで恥ずかしくなる。
「ねぇ、好きな子って彼氏だったの?」
 応える前に質問が微妙に変わった。胸元の剣崎の目が、こちらを見てくる。そ、その場所やめてほしい……のに言えない。椅子のふちを掴む手が汗ばんでくる。ひとまず質問に、短く応えた。
「少しだけ、ね」
「少し、だけ?」
 少しとはなんですか? と訊いているように顔をあげて睨んできた。首に回された剣崎の手は菖の髪を撫でていた。
 手の動きがくすぐったくて、菖は肩や首を動かしてしまう。
「くすぐったいってば。少しだけ、付き合ってたってこと」
 答えを聞いた剣崎は、また胸に顔を埋めた。回した腕や手が力一杯、菖の肩や頭、髪に力を加えてくる。
「はああああ」
 珍しく大きな溜息、それとも叫び声というのか。勝手に人の谷間に向かって、負の感情のような暗い嘆きを吐いた。くすぐったいからやめて、と目を瞑る。
「スケート以外でこんなに嫉妬するなんて、自分でも思いもしなかった!」
 そして赤ちゃんのように、胸に埋めた顔をイヤイヤと言い出しそうな勢いで横に動かした。
「ふあっ?」
 止めようとして剣崎の頭に触れると、さらさらとした髪が菖の指と同化するかのように馴染む。
 赤ちゃんのイヤイヤのような動作はすぐに収まった。そして谷間から「うぅ……」とうめくような低い声が聞こえた。


◇◇◇

 菖の胸の中の幸福感にかまけて、だいぶ恥ずかしいことをしてしまった。どうしよう。嫉妬心に駆られた、と言い訳をしてもいいだろうか?
 とにかく僕はかなり恥ずかしいことをしてしまい、うめき声まで出してしまった。下半身も昂りそうだったのに、すっかり落ち着いた。
「はぁ、もう剣崎は。泣いとんの?」
 優しく髪を梳かすかのように撫でてくれている菖が、胸の中の僕の顔を覗き込もうとしている。横向きにして顔を見せてあげた。
「あ、泣いてねーわ」
 見てくる菖にわざとむすっとした顔をする。力を込める腕も気力がなくなって、菖の腰あたりに移動した。
「てかさ、ちょっとはずいんよ、さすがに」
 小声で菖が言ってくる。僕はわざと、ふてくされた顔のまま質問をした。
「こんなはずいこと、今までした?」
「だからしてないっての」
 中庭でも話したようなことをまた訊いてしまってる。菖がそんな僕の背中をトントンしながら髪も撫でてくれて、なんだか猫になったような気分だった。もう猫になって菖の上で溶けちゃいたい。
「あのさ。もし、してたら……駄目だった、ってこと?」
 菖の言葉に、ふやけてた僕は瞬時に身体を起こした。
「駄目なわけない! 僕の勝手な妬みだってば!」
 菖は少しだけさみしそうな顔を浮かべたけど、すぐに微笑んだ。
「剣崎は? 彼女のひとりやふたり、いたっしょ?」
「いーなーい! シンちゃんに訊いてもいいよ?」
「出た、剣崎のお友達!」
「シンちゃん、菖に会ってみたいって言ってたよ。学祭に呼ぼうかな?」
 僕はまた菖の胸に顔を埋めた。恥ずかしいって言われたからには、もう少しこのままで。
 話題が変わったからか、菖も僕の髪を撫でて受け入れてくれる。
「呼んだらいいやん! てかさぁ、このあいだそのシンちゃんと会ったときに、あたしのこと話してたん?」
「うん、話した」
「なんて? どんなこと?」
 珍しく菖が意地悪そうな顔をして訊いてくる。脚もバタバタさせて。この体勢で脚は、あんまり動かさないで!
「えぇー。なんかその、ほら。高校で仲いい子がいるんだーって」
 いざ訊かれると、あのときの話の内容なんて絶対に菖には話せない。秘密結社のトップシークレットだよ。
「ふうん。その仲いい子ってのが、あたしってことね」
 まだ意地悪そうな感じで言ってくるから、僕は吹き出してしまった。仲いい子。それ以上の僕の勝手な気持ち、シンちゃんには話してるけどね。笑えてきてしまう。胸元がくすぐったかったのか、菖が身体をよじらせた。
「てか剣崎、練習行くんやろ?」
「はぁ、そろそろ行くかぁ」
 猫になっていたかったけど、僕は立ち上がった。長い脚は菖を跨いだままでも大丈夫だった。ひょいと片脚を避けると、菖も立ち上がる。
 そのときふと、僕たちは仲が良すぎてこのまま、恋人未満のようなこの関係がずっと続いてしまうんじゃないか。頭の中でよぎってしまった。
 シンちゃんが言ってた「一生ヤらせてもらえなかったりしてな?」がリフレインする。
 リュックを背負って教室を出ようとする菖に「待って」とストップをかけた。「どした?」と扉に手はかけたものの、開けずに僕を見て心配してくれる。
 横に立つと、菖は意外と背が低い。呼び止めたくせに何を伝えたらいいのかわからなくなった僕は、まさかの言葉が出てしまった。
「あのさ、待っててほしい」
「ほえ? 教室(ここ)で?」
 腑抜けた顔で菖は指を下に向けていた。
「違う違う違う!」
 自分の言葉にも慌てた僕は、頭の中を整理する。ヤらせてもらえないのは嫌だ、でも付き合うとか好きだとか伝えるのはまだ今じゃない気がする。それに好きって言葉じゃもう足りない気がする。でも菖は、どうなんだろう?
 それに身体目当てじゃない、でもさっきしてしまったことはそう見える……。今すぐ付き合いたい、でも今だけしか味わえないであろうこのままも楽しい。
 伝えたいことと「でも」が交互に出てきて、結局もう一度同じことを言った。
「待っててほしい、色々と。菖とのこと!」
 下に向けていた指を触りながら、菖の手を取った。僕が見つめ続けるし手も取られて恥ずかしいのか、菖は目を逸らしてしまう。恥ずかしがってる菖の可愛い癖だ。
「え、色々って何……」
「色々! まだ今は、わかんなくていいけど!」
 菖は恥ずかしすぎてふざけたいのか、うーんと悩んでいる振りをしている。
「菖とこうやって仲がいいのも楽しい。でも、普通の仲良しとは、違うよね?」
 さすがにわかってるよね? お互いに、特別だよね?
 菖は僕の目を見て静かに頷いた。僕の手の中の菖の手が、少しだけぎゅっと握ってくる。それだけで僕は幸せな気分になった。
「だから色々と、待ってて」
 綺麗な黒髪を撫でると、菖は手を離して背を向けながら扉を開けた。
「なんか赤ちゃんがワガママ言っとるー」
 わりと大きな声で言うから、思わず僕も廊下に出た。誰もいなくて安堵の溜息が出る。
「さ、駅まで行くぞ?」
 なんだか嬉しそうな笑顔をしている。待っててくれるってことなのかな? 確約中、みたいな(ふだ)をつけたいとこなんだけど。
「今日の剣崎はずーっと赤ちゃんやったから、成長するの待ってやるかぁ」
 階段を降りる僕の足がつまずきそうになった。確かに僕、さっきまで赤ちゃんだったわ……猫とか思ってたけど、すっごい赤ちゃんでした。
「皐が赤ちゃんのとき、思い出した」
 弾けるような笑顔で菖が言ってくるけど、本当に待っててくれるのか不安になる。それって家族愛? 将来の家族愛ってことに、してよね?


 スケートリンクで滑ってるあいだもずっと僕は、顔に風が当たることなんかより、菖の胸の心地良さについて考えていた。菖は下着、つけてるよね? 服の上からでも柔らかかった……グミのような、柔らかめのボールのような、クッションとはまた違う……マシュマロ? しかも菖から微かに漂う甘い匂いもマシュマロは近い。え、まはか菖の身体ってマシュマロ⁈
 滑りながら笑ってしまって、咄嗟に僕は手袋をした手で口元を隠した。
 それに……胸の中で横にふるふると顔を動かしたときの、あの感触。癖になりそうな……あ、僕ただの変態だわ。
 もういいや、ここまできたら僕のしたいこと、菖もわかってるでしょ。でも拒絶されちゃうかもしれないから、このあたりで止めとかないと。僕も歯止めが効かなくなりそう。我慢できなくなる。
 リンクサイドに出てスマホを見ると、菖から黒猫の赤ちゃんのスタンプが送られてきていた。くっそ……。
『ばぶばぶ』
 わざと一言だけ返すと、菖は大喜びした。
『赤ちゃんきた! 赤ちゃん‼︎』
 悔しすぎる僕は、意地悪な方向に持っていくことにした。
『ばぶばぶ赤ちゃんは、菖の胸の中が一番なんだよ。わかってる?』
 すぐに既読になったのに返信がこない。ふ、恥ずかしがってろ。
『そんなにきもちいいもんなの?』
「えっ?」
 思ってもみない返信がきて、僕は叫んでしまった。え、どうしよう。菖はどんなつもりで訊いてきたのか? どうしよう、仕掛けたのは僕のほうなのに焦ってしまう。
 深呼吸してメッセージを書いた。
『気持ちいいというよりかは、菖がマシュマロみたいに柔らかくて、すごく居心地もよかったし、もっとぎゅーってしたい』
 すっごく迷ったけど、本音を送ってしまった。いいのかどうか、もうわからない。冷や汗が出てきた。既読になっても、また返信がない。諦めてスマホをリンクのベンチに置こうとしたとき、通知で画面が光った。
 光速の勢いでメッセージを見る。
『いつか剣崎に食べられるような、そんな覚悟はしてある』
 ふああああ? いきなりの菖の、告白以上のような言葉に僕は有頂天になった。バンザイしたいくらいだ。やったー! やったぞ! シンちゃん、やったよぉ‼︎
 菖でもそんなこと言ってくれるんだ? 嬉しすぎる!
 いつから覚悟してたの? ねぇ、どこまで食べちゃっていいの?
 色々と訊きたいのに、ここは紳士的な対応をしたくなってきた。しなきゃ駄目な予感がする。ここで浮かれてちゃ、ただの盛りのついた男子高校生と変わらない。
『ありがとう、菖。絶対に待っててね。じゃ、練習戻る』
 即座に返信がきた、また黒猫の赤ちゃんのスタンプだった。それでも僕は、有頂天だった。
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