011 心配

文字数 6,784文字

 教室に入ると、ひさしぶりに歩乃香が席に座っている。ここしばらく風邪で休んでいたのだった。菖は真っ先に、歩乃香の元へと向かう。
「歩乃香! おはよ、もう大丈夫なん?」
 ゆっくりと顔をあげた歩乃香は、心なしか顔色が悪い。いつもなら綺麗な髪型にしているゆるふわでツヤツヤな髪の毛は、乾燥したままのパサフワな感じでヘアピンすらひとつもついていない。歩乃香の後ろの、自分の席に座りながら菖は「無理したらあかんで?」と後ろ姿に声をかけた。
「ちょっと、聞いてくれる⁈」
 ものすごい形相で振り向いてきた。やつれた顔は心配だが、声には力が籠っている。
「なんよ、聞くよ?」
 歩乃香の顔に近づいて聞き耳を立てた。
「風邪は本当に引いてたんだけど、休んだときに見ちゃったんだよね」
「何をさ?」
「マサが浮気してた。忘れたスマホの画面でわかった」
「はあ? あのマサが?」
 マサは歩乃香の彼氏だ。2個上の先輩で、中学のときから1年以上は付き合ってるはずだ。今は地元近くの高校に通っている。
 歩乃香の地元ではイケメンと言われているマサはサッカー部で、可愛らしい顔と日に焼けた筋肉ゴリゴリの身体のギャップもあり人気らしい。ちなみにあたしのタイプではない、そこは強調しときたい。
 サッカーがない日は原付で歩乃香を迎えに来ることもあった。菖も何度か会ったことがある。歩乃香が着る制服のほとんどが白いシャツで、たまにコスプレ用だと思う無地の制服リボンをつけていた。傍から見ても、絵になるお似合いの美男美女高校生カップルだった。
 しかし歩乃香には、車で迎えに来る大人の男たちもいるのだ。友達だと言っていた。マサの浮気も気になるが、そのことも気になった。
「学校休む前にマサが来たんだよね、夜。お姉いなかったし、妹はお兄ん()行ってて。だからそのままアイツが(うち)に泊まって、朝学校行って、スマホ忘れてって。アタシは休んだから、そりゃ見えちゃうわよねー」
「浮気かどうかはまだわからんくない?」
「女からきてた通知のメッセージ見るかぎり、完全にヤッてんだわ」
「ヤッ、え、嘘でしょ?」
 菖には複数と関係を持つ意味がわからない、だけど目の前の歩乃香にも可能性がある。下手なことは言えなかった。
「アタシはさ、いいのよ。浮気されたとしても、しゃあないもん。でもこんなことで発覚しちゃうのが許せなくて。で、帰ってきたマサと大喧嘩よ。それで余計に、風邪が悪化した」
「浮気されてもしゃあないって、なんで?」
 聞き捨てならなかった。
「似たようなことしてるもん、アタシ、色々と。でもヤッてはないよ? 菖に信じてもらえるかはわかんないけど、誓ってヤッてはいない」
 歩乃香の家は複雑で、両親とは離れて暮らしていた。義父と色々あって折り合いもつかず、お兄さんが歩乃香たち姉妹を連れて別居した。それでも実の母親は義父と別れず、新しい家族として赤ちゃんも産まれたと話していた。
 お兄さんは結婚し、すぐ近くに歩乃香とお姉さん、妹ちゃんの3人は暮らしている。ここまでは菖も聞いていた。
 基本的な学費は親が出してくれているために奨学金がなかなか通らない。金銭的に苦しいとき、居酒屋のバイトで知り合った若い男性たちに少し援助してもらっていたそうだ。その代わりデートなどをしていた、と。
「マサはまったく気づいてないみたいだけどね、喧嘩のときに何も言ってこなかったから。言われるかと思った」
 歩乃香は首をすくめた。
 マサは歩乃香のことが大好きだった、と思う。個人的に話したことはないからわからない、でも見ていてわかる範囲ではとても大切にしていたように思う。
「ほいで、マサと別れるん?」
「さすがにほかの女とヤられたらね。それにアタシが冷たいとか、会えなくてさみしかったとか言い訳しながら、最終的に逆上して殴りかかろうとしてきたんだよ? 菖だってそんな男、嫌でしょ?」
「はああ? それは絶対だめ、あかん、イヤ!」
 暴力はだめだ。しかもこんな細身の女の子に! 菖は両手でバツを作る。
「もうさ、この際、パパ活やろうかなーなんて」
 は? 菖はさらに大きくバツを作って立ち上がった。
「だめだめそれはだめ! 歩乃香の自由やけど、だめ! あたしが嫌やし、最終の最終の最終手段にしてくださいっ‼︎」
「わーかったから座って! 菖、しーっ!」
 歩乃香が菖の腕を引っ張って座らせると、前の席から土門くんがこっちを覗いてきた。
「江藤さん、久野さんの心の叫びはあなたへの愛ですよ」
 そしてお得意の眼鏡の右フレームをクイッと上げ、キリッとした顔をしながら前へと向き直った。
「なにあれ、土門のアホに全部聞こえてたってこと?」
 小声で歩乃香が耳打ちしてくる。
「さすがに聞こえてはないと思うけど」
 菖も同じように小声で返した。愛とか知ってんのかよ、土門学級委員はよぉ? 茶化したいけど今は、ぐっと我慢する。
「アタシ、こんなんでも油絵まだ好きなんだよね」
 声のトーンを戻して歩乃香が言う。菖の机の上に置かれたままだったリュックに手を置いて、笑いかけてきた。
 南陽高校は制服などが自由な分、学費を入れても総合的に掛かる費用が他校に比べて少ないらしい。入学式のときにあっけらかんと「それが決め手」だなんて笑っていた歩乃香を思い出す。
「学校で絵の具とか安く手に入るから助かってるけど、油絵も描きたいし遊びたいし。親もあんなんだし、お姉のお金はなるべく妹に回してあげたいし」
 自分に言い聞かすかのように話す歩乃香は決して悲しい顔ではなく、やってやろうじゃないかというような、満ちた顔をしていた。それがまた、さらに美しい顔に見えた。
「だから少しでもお金欲しくて、そしたらマサが浮気したって、そりゃアタシも悪いよね」
 そのとおり、だけど、そうとは言えなかった。
「こんなん言うの歩乃香には微妙かもしれんけどさ、また(うち)に遊びにおいでよ。泊まりに来てさ、色々話そうよ。夜ご飯くらい、ママに言えば大丈夫やし」
 歩乃香の話を聞いていて、あたしの家庭は恵まれているほうなのだ、と菖は思う。
「うん、菖、ありがとね。夏休みにでもまた遊びに行こっかなー? あれ、アンタも夏休みにバイトするんだっけ?」
「そんなガンガン入るようなバイトじゃないと思うけど、コトブキでね。それよかさ、マサは別れるの納得しとるん?」
「いやぁ、してないかも。困ったもんよね、ほんとさ! どうしよう、校門で待ってたら」
「そんときはあたしが蹴散らしたるわ」
 菖ならやりかねないと爆笑する歩乃香は、頬に少しだけ明るみが出てきていた。
「とりあえずマサがいなくなったからって、パパ活はやめてよね」
 もう一度忠告すると、歩乃香は可愛く「はーい♡」と微笑んだ。わかってんのか、バカヤロウ。


◇◇◇

「江藤さん、ちょっと」
 僕は廊下から教室に向かって、大きめの声で呼んだ。江藤さんたちはお弁当を食べるために、机の向きを変えていたところだった。菖がいない今しかない。
「何よ、入ればいいじゃない」
 江藤さんが不思議そうにやってくる。
「菖は?」
「曽部ちゃんの教師室のプリンタが壊れたかもって聞いて、アホアホ土門たちとなんかやってたから遅くなるかも」
 教師室に行ったなら、こっちか。僕は美術科のすぐ隣にある3号館への連絡通路に江藤さんを誘導する。ここなら角になっていて、下の教師室から戻ってくる菖には見えない場所だ。
「こんなとこ呼び出して、菖となんかあったの?」
 気怠そうに江藤さんは腕組みをしていた。半袖シャツのウエストはしっかりとスカートに入れられて腰の細さを強調させているのに、上手い具合にシャツをゆるく着こなしている。広く開いた襟元から鎖骨と金の細いネックレスが見えた。
「あのさ、菖から何か聞いてない?」
「……何を? あ、アンタたちのデートか! ごめん、どうだった?」
 忘れてたという顔で笑いだすが、残念ながら僕がしたいのはその話ではない。
「このあいだ、菖が不審者につけられたんだ」
 笑っていた江藤さんが止まる。
「どこで?」
「すぐそこの本屋で。菖のことを盗撮した人がいたよって菖に言いながら、腕とか触ったクソデブおじさん」
 思わず苛立って言葉選びを間違ってしまった。
「剣崎も見たの?」
「うん、でもそのときは菖だけを見てて気持ち悪かった、クソダルマが」
「ダルマ⁈ 盗撮した人もいて、おじさんもいたの?」
 江藤さんは頭に手を当てて若干パニックになっている。僕は早口でもう一度、説明した。曽部先生に車で送ってもらったことまで。
「盗撮されたんなら腹立つけど、とりあえず無事で良かったわ」
 安堵の溜息をついて、ほっとした顔を見せた。
「データとか流出しないよね?」
「わからない。その不審者がまず捕まってないからね」
 江藤さんは黙ってしまう。
「僕にできることはほとんど何もないけど、仲の良い江藤さんには伝えておこうかなって。もし菖が話してきたときは聞いてあげてほしい。あ、篠宮さんにも軽く話しておいた」
「千緒ピヨは、なんて?」
「心配してた。中学のときから痴漢とかあったらしい」
 篠宮さんも詳しくは知らないみたいだった。周りのみんなも、すごく心配していたことを教えてくれた。
「まあさ、そういうのって話しにくいよね。特に何をされたかなんてさ、なかなか言えないもん」
 下を向きながら江藤さんは考え込んでいる。
「男には余計に、話せないよね」
「菖だけじゃなくて女子はみんな、気持ち悪いことのひとつやふたつ、起きるもんだし。慣れなきゃいけないのかね、女は」
 怒りの溜息に僕は何も言えなかった。
「アタシも心配だしさ、アンタがいない日は菖が帰るとき、なるべく近くにいようかな。電車、1区間だけ一緒だし。最悪、誰かに迎えに来させたりするか。マサと別れたしさ」
「えっ?」
 中学から付き合っている彼氏がいると聞いていた。傷心真っ最中なんだろうか?
「ごめん、なんかそんなときに」
「平気平気。だからうちの高校から彼氏作ってもいいわけだし、誰かにボディーガード兼ねてアタシと菖を送らせてもいいわけだし」
「え、菖にこの学校から、僕以外の男を?」
 恋愛マスターだと思っていた江藤さんは、このあいだ僕に忠告までしておいて、最近は彼氏と別れたわけだよね? それでほかの男をボディーガードにして、菖のことも守らすだと? 美貌を振り撒きながらなんてこと考えるんだ……恋愛マスターなのか、ハンターなのか? 僕は唖然とした。
「剣崎。菖を守るのとどっちが大事?」
 勝ち誇ったような顔で僕を見る。スレンダーで背が高く、モデルのような江藤さんに後退りしながら考える。てか、守ることと何が大事なんだ、どっちって、何⁈
 頭がこんがらがってくる。そんな僕を見て江藤さんが大笑いした。
「あははは! 菖が剣崎のこと面白いなんて言ってたけど、初めて意味がわかったわ、あはははは!」
 口に手を当て背筋を伸ばして高らかに笑う姿が、煽っているようにしか見えない。こんなところ誰かに見られたくない。
「悔しかったら、ちゃんと菖に言いなさいよ?」
 だから何を! でも声が出ない。そんな僕を横目で見て「本屋のことは黙っておくわね」と肩を叩き、江藤さんは教室に入ってしまった。
 教室を覗くと菖はすでに帰ってきていて、江藤さんたちと爆笑しながら土門くんの真似をしていた。


 授業が終わり、ふたりでコーラを飲みながら中庭の白いベンチに腰掛ける。ここは菖と僕の憩いの場になるもしれない。
「そういえばさ、剣崎のSNS、相互フォローひとり増えてたよね? 1が2になってた」
 フォローしあっている菖しか見られなかった、いわゆる鍵垢の僕のSNSにひとり参入してきた者がいる。
「その名はシンちゃん!」
「あ、ほんとだ、Shinって書いてあるわ」
 すぐにスマホで確認して見てくれている。
「中学のときの唯一の友達」
 おおー、と菖は目を丸くした。
「とはいえ、会ったりしてないけどね。中学の頃からシンちゃん、真面目で遊びに行くような人でもなかったし。小学校も違うから、偶然会うこともなくて」
「そんで久しぶりに連絡して教えたんや? いいやんいいやん!」
 なぜか菖が、コーラを持たない左手をぶんぶん振って喜んでいる。
「夏休みにお茶でもしないかってメッセージきててね。僕が帰ってきたら連絡するって返して。それでついでにね、教えたの」
「シンちゃんが見てんだから、ちゃんと投稿しろよ?」
 菖がにんまりと笑う。そこなんだよね、見てるふたりのことは信じてるけど、やっぱり変なことは書けないし。
 僕が投稿した写真はまだ、菖と見た海の1枚だけだった。
「投稿よりも僕は見る専だから」
「ガン見しんといてぇ」
 嫌がる菖にわざと目を細めて、意地悪そうな顔をしてあげる。
 菖もほかの女子より投稿は少なめだけど、遊びに行った景色や女子会の写真など楽しそうな投稿をしていた。美術科やほかのクラス、中学校時代の友達だと思う人からのアクションやコメントも多い。
「でもごめんね、菖も僕のこととか投稿したいよね?」
 女子はSNSで恋愛事情を大っぴらにすることがステータスなのか、中には彼氏の顔まで公開したり、いちゃいちゃしている動画を投稿したりとネットでまでエンジョイしている。
「そこは別に……もし過剰におまえのこと書いておまえが学校にチクッたら、あたし即退学やしな」
 南陽高校はネットリテラシーにうるさく、また誹謗中傷や悪い意味の書き込みなどにも目を光らせている。入学前に配られる冊子の1冊はまるごとそのための本で、入学直前には親子で署名もさせられる。"あなたやあなたのお子様がインターネットにおいて不適切な書き込みをしたと断定次第、退学していただきます"、とかなんとか。
 5年くらい前、生徒たちが裏掲示板なるものに伏せ字を使っていじめの書き込みをしたときも、ネットカフェを使ったのに特定されて全員即退学だったらしい。IPドメインの解析、特定までならまだしも、ほかの場所での特定となると警察が動いてるんじゃないかと思ってしまうほどだ。
 いじめられている生徒のスマホを使って、わざと書き込みをする事件もあったらしい。どうしたらそんなことが思い浮かぶのか。その件から個人ロッカーは、生徒証明書カードや暗証番号が必要な最新のものに変わり、各自スマホは常に持っておくかロッカーへ、という規約になった。
 僕が南陽高校を選んだ理由のもうひとつが、この徹底された管理体制を素晴らしいと思ったからだ。理念というか執念というか、生徒のための学校生活をこんなに考えてくれていることが、ただただすごい。
「すこーしくらいは僕のこと、書いてもいいからね⁈ 見てダメな感じなら言うから!」
「剣崎、まさか書いてほしいんやろ!」
 頷きながら「僕もちょっと書くかも」と言うと「憧れてたんだなぁ、うんうん」と菖が妙に納得していた。
「あっ!」
 急に大声を出すからびっくりする。どうしたのと訊くと、またSNSを開いてスクロールしていく。
「歩乃香、彼氏と別れたーってご飯のとき言ってたやん? あいつ、SNSにめっちゃマサのこと書いたり載せたりしてたからさ。どうしたやろ思って。あ、消してっとるわ、このあいだ見た歩乃香とマサのデートの動画がない。マサのほうは……消してないけど」
 苦笑しながら菖は、マサという男のSNSを眺めだした。
「なんかさ、マサ、歩乃香のこと大好きやったと思うんよね。なのにほかの女と浮気したらしい」
「えっ? それが理由だったの?」
 てっきり江藤さんがお別れしたのかと思っていた。
「マサは浮気したくせに、歩乃香と別れたくなさげなんやってよ」
 あ、なるほど、そういうことか……。菖は「マサが現れたらぶっとばしてやる」だなんてまた物騒なことを言って、片手をぶんぶんと、さっきよりも強く振っている。
「んあー、この女、かも?」
 画面を見せてもらうと、サッカーをしているマサという男の写真だった。その下に、いかにもなコメントをしている人がいる。
『マサはサッカーをしているときが一番かっこいい、誰よりも私がそう思ってる!』
「わかんないけど、気持ち伝わるコメントだね……」
 コメントの名前も女性の名前だった。するといきなり菖が立ち上がる。
「剣崎は、お弁当を食べてるときが一番面白い、誰よりも私が、そう思ってる‼︎」
 手を組んで空を見上げながら言ってきた。心なしか菖の顔は、キラキラしている。後ろの噴水のせいかもしれない。
 はあ、と僕は溜息をつきつつ笑ってしまう。
「ねぇ、なんなのそれ、その再現みたいなやつ!」
「菖ちゃんねる再現ムービーです!」
 ひとしきりふたりで笑ったあと、菖が呟いた。
「とにかく歩乃香が心配やな」
 僕は菖の心配だけでいっぱいなんです、と心の中で返しておいた。
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