015 夏の憂鬱から
文字数 7,342文字
はじめに言っておくが今回は僕、剣崎望夢のターンだ。異例の事態だということでご容赦願いたい。
とはいえ、何か新たな問題が起きたわけでもない。淡々と僕の日々は、ホテルとスケートリンク、その往復でほぼ埋めつくされている。その腹いせがこうなったとでも言おうか。
欲に関しては百合要素のおかげもあってか、あのときよりは一時的に高まった。しかし疲れのせいか、またもや衰退してしまっている。ずっとそんな欲はないまま過ごしてきた僕にはなくても構わなかったものなのに、さすがに年頃を迎えてる今、大丈夫なんだろうかと不安がよぎってしまう。
迷った末、シンちゃんにメッセージを送ってみることにした。中学のときの唯一の友達。シンちゃんは地域で一番の進学校に通っていて、夏休みも塾に缶詰だと嘆いていた。聞いてくれる余裕はないかもしれない、それでも何か言葉が欲しかった。
カナダでの質素で変わらない生活の報告とともに、最後に質問を付け足すことにする。
『ところでシンちゃん、変な話で申し訳ないんだけど。男としての欲ってどうしてる? そもそも、ある?』
僕は性的な知識を持っても、そういう話を友達としたことがなかった。興味もなかったし、したくもなかった。してはいけない、というイメージもあった。
シンちゃんは僕よりも品行方正な男子で、同じくそういう話をしているイメージがない。ただ仲の良い男友達同士で好みの女の子の話をしていて、あるとき静かに「それは興奮するね」と言っていたことを僕は覚えていた。シンちゃんでもそんなことあるんだ、と。
返信は思ったよりも早く届いた。
『望夢でもそんなこと言うんだ? 僕はそれなりに普通に、性欲はあるほうだよ。どうしてるかという質問には普通、と答えたいのだけど、きっとその普通を望夢は知りたいんだよね』
そしてほぼ毎日ひとりでしていること、ほかの友達は彼女を作ればセックスに持ち込むことが多いけど、それでもひとりでもすることなどなど……よくある話が書かれていた。
最後には『所詮、個人差だぞ』と注意書きまで添えてくれている。
『教えてくれてありがとう。疲れているのか、元々少なかった性欲がまた消えてしまって、不安になったんだ』
『スケート選手、特におまえの練習量は異常なんだから仕方ない。ましてや今は異国の空の下だろ? 気にするな。大丈夫だ。それよりも私的に気になることがある。SNSの子が彼女なのか?』
シンちゃんからの返信に驚いて、思わず「えっ!」と声が出てしまった。『どういうこと?』と送ってしまう。
『また消えてしまった、と書いてあることから性欲が一時的に増えていた、おそらくカナダへ発つ前だと予想した。望夢がSNSのアカウントを教えてくれたとき、僕のほかにフォロワーはひとりだけ。きっと大切にしている子なんだろうと思っていたから、離れて過ごす不安が出ているのでは、と考察した』
どこぞのミステリ小説だよ、と舌を巻く。そのとおり、だけど最後が気になった。離れて過ごす不安? 胸がざわめいてきた。
僕が海外へ行っても、どこへ行っても菖への気持ちは変わらない。何も問題はないと思っていた。
今の気持ちをそのままシンちゃんに送る。
『そうか。彼女ではないのか』
『うん』
『彼女にしちまえよ』
『色々あって、まだその段階じゃないと思ってる』
『大切にしてんだな』
『当たり前だよ、シンちゃん』
『でももしかしたら、彼女とか恋人だとか、そういう確約がない不安が心の中にあるのかもね』
『逆に彼女になっても何も変わらず、心配は尽きないんだけどなぁ』
『離れてたら誰かのモノになってしまうかもって、どこかで不安にならないの?』
……あるかもしれない。あまり考えないようにしてたけど。でもでもそれって、近くにいても同じだよね?
わからなくなってきた。わかったことは、意外とシンちゃんは恋愛関係の相談もできるってこと。
返信に困っていると、シンちゃんからまたメッセージが届く。
『とりあえず、性欲の衰退は気にするな。今は練習に集中。帰国すればきっと戻る』
そうだよね。菖に会ってしまえば戻ると思う。通話と妄想だけで、元気になったくらいだもんね。
言い聞かせる僕は弱気で、いつもの強気な僕は冒頭だけになってしまった。
菖がバイトを始めたライヴハウスのSNSに、菖が載った。自ら教えてくれたので見てみると、元気にポーズをとる菖の写真に紹介文が添えられている。
『夏休みのバイトで来てくれている、姪のあやめちゃん。数年前、ドリンクを手伝ってた可愛い子を覚えている方には懐かしいかも!』
コメントには『え! あの子戻ってきたの?』『今度のジャズイベ、あやめちゃん出勤しますか?』『外で整列係してたら声掛けていいです?』などと常連っぽい人たちから書き込まれている。
最後の写真が気になった。菖と一緒におそらくオーナーの叔母さんと、女の子みたいな青年が写っている。叔母さんも、叔母さんには見えない。でも菖が「めちゃくちゃ若え」って言ってたからその人で合ってると思う。
女の子みたいな青年のことを菖に訊いてみた。なんと叔母さんの息子さん、菖にとっては従兄だと言う。
『その日ちょうど、MADでライトのバイトしてたから』
ライトとは照明のことだ。そしてもう1枚、写真が送られてきた。
『リンさんにはもうひとり息子がいて、さっきのダイちゃんの兄貴。ちょっとバンドで有名な人やで、この写真はシークレットだかんね』
……え、なんだこの人? まず銀色の髪がすごく長い! セフィロス……有名なキャラクターが女体化したような人だった。男の僕から見ても綺麗すぎて、よくわからない。
しかも菖と密着して撮っているのが、いくら従兄とはいえムカついてきた。溺愛にも程があるでしょ。兄弟もおらず親戚付き合いが少ない僕には、理解しがたい。しかも僕よりお似合いに見えてきて、スマホを持つ手が震えてきた。
イトコって結婚でき……る、よね?
さっきシンちゃんから送られてきたメッセージが、頭に浮かんで点滅する。
――離れてたら誰かのモノになるって、どこかで不安にならないの?
大丈夫だと思っている。たとえ菖がこの人と結ばれても。結ばれても……?
嫌かも‼︎
そもそも初めて、こんなに近い形で男といる菖を見た。でも菖がこの人を選んだなら僕はきっと完敗だよ、菖の気持ちを尊重したい。
と勝手にそんなこと思って格好つけてるけど、嫌すぎる。発狂してしまいそうだ、菖……もう一度画面を見ると、セフィロス野郎の横で菖は可愛い笑顔をしている。
気になってセフィロスさんのことを調べてみた。バンドマン、セフィロス似。それだけですぐ画像が出てきた。ただ画像のその人は、菖と撮った写真よりも濃いメイクをしていて黒い唇が狂気を倍増させている。
ヴィジュアル系バンドのボーカルmissa。ミサ。……ミサ?
どこかで聞いた、あ、菖だ。コトブキでデートしたときに、菖がふと呟いたんだ。キャッティパークの猫のぬいぐるみをカスタムしているときだ。そうだ! この近くのライヴハウスでバンドマンの猫を作ったお客様がいて、とかスタッフさんが話してくれたときだ。菖がおもむろに「ミサかも」、そして「親戚」だと。
勝手に女の子かと思っていた。そうか、そういうことだったのか。しかもぬいぐるみを作るほうではなく、作られるほう。
なーるほどね。僕はホテルの部屋のソファに寝そべった。何も解決していないけど、答え合わせができたかのようで少し安心した。あのときの菖の様子に、敵対するような要素はなかった。
同時にあのとき、菖は僕のことを推しの存在のように言っていたことを思い出した。恋愛ではなく、ただの推し? そう思ってショックだった。
菖はいつか誰かと結ばれるのだろうか? 男友達は多いほうなのに免疫は少なさそうで、そんなところも好きだけど心配になる。
性欲あるの、なんてさすがに訊けないし。それにどちらかといえば、推しに恋愛感情は持てますか? そう訊きたい。
そういえばあのときの僕は菖に、黒猫の耳を着けてほしいと思っていた。伝えられなかったのに菖は、篠宮さんと弟くんと行ったキャッティパークで、黒猫の耳を着けた写真を送ってくれたんだ。以心伝心だと喜びを伝えると、菖は「勝手にテレパシーしてんじゃねえ! ふたりで黒猫って言っとったんやから当たり前やろ!」と照れていた。
こんなふたりなんだから大丈夫、と僕はまたも自分に言い聞かせる。
リンクサイドで休憩しながらスマホを触っていると、同じコーチに教わるロシア人の女の子が僕の正面に来て何かを伝えてきた。早い英語は聞き取れない。
もう一度よく聞くとロシア語だったが、スマホの背面に挟んだ菖との写真を指差した。この子は誰なのかと訊いているのだろう。
「She is……my girlfriend」
語尾にクエスチョンマークをつけてもおかしくない上がり方をしてしまう。ガールフレンドの意味が、ただの友達なのかどうかがわからない。
「Oh,so cute」
今度は英語で可愛いと言い、手を振って去っていった。
フィギュアスケートをしている女の子たちはみんな、すごく細い。細くないと跳べなくなってくるからだ。あのロシアの子も骨ばった体型をしている。
それが普通だった。僕の普通もそこだった。しかし今は少し変わった。みんながスケートで良い結果を出し、その後は健康的な身体になれたらいいなとも思う。
今日は母さんはリンクには来ず、日本から来たスケート連盟の人たちと夕食の準備をしている。みんなで手巻き寿司をしようと、繁華街のあるバンクーバーまで食材を探しに行った。ある程度の日本食は揃うが、ごまかしながらの日本食だ。
少食の僕は異国の地に来てからずっと食欲がなく、最近やっと食べられるようになってきた。
お偉いさんたちが来た理由はもうひとつあって、これは菖に一番に報告したいから帰国して会ったときに伝えようと思っている。
練習しながら一心不乱に滑る僕は徐々に、氷と自分だけの世界に入っていく。すると翼が生えたかのように身体が動く。指先まで力が入る。
気づくと息を切らして、冷たくなった皮膚と体内の熱が身体を休めろとぞわぞわしてくるのだ。
この地方はカナダの中でも紅茶を飲む習慣があるらしく、母さんが温かい紅茶を用意してくれていた。水筒の紅茶でも美味しい。体内に染み渡る。菖にもこの紅茶、お土産にしたいな。花の香りがふわっと漂う紅茶はすごく飲みやすかった。
僕には何人かのコーチがいるが、カナダへ来た最大の理由のコーチがリンクに入ってきた。これからジャンプとステップの練習だ。通訳さんの空気も少しピリッとする。
僕は頬を叩き、気合いを入れた。
離れて過ごす夏休みに不安もあるが、その不安を解消してくれているのも菖だと気づく。
中学のときの誰々と会った、被服科の誰々ちゃんとランチした、などと報告してくれるからだ。その中には男友達も含まれているが、聞いていても特に何も感じない。何かあったり起きていたら、菖のことだからわかりそうな気がする。
その流れで驚いたことがあった。菖のお父さんが家に帰っていないらしく、久しぶりに電話で話したそうだ。なんでも話してくる菖だけど、家族のことは弟くんの話がほとんどだった。
「うちはさ、剣崎みたいにちゃんとした親じゃねーからさ」
お互い時間が合って通話していると、さみしそうにそんなことを言われた。
お父さんと何を話したのかは具体的によくわからなかったけど、お小遣いをせびったとかで喜んでいた。仲が悪いわけではなさそうだった。
「そういえば菖の弟くんは皐 って名前だけど、皐月って言葉は5月のことでしょ、菖と同じで5月生まれなの?」
密かに気になっていたことを訊いてみた。
「そうそう、それもパパが名前決めたんやけどさ、皐は本当は6月生まれだったんよ、予定日。やでジュンにしようって思ったんやって」
6月はJuneでジュンか……。
「ふざけとるやろ? ほいで結局、5月30日に生まれたんよ」
さすがに笑ってしまう、マジか。
「それで名前、変えたんだね」
「そういうこと!」
面白いお父さんだな。菖のお父さんって感じ、するかも。
「お父さんに会いたい?」
「うーん。出張とかで、ずっと家におる人やないから慣れとるし、会いたいってわけでもないけど……」
言い終わる頃には声が少しずつ弱まっていて、きっと本当はお父さんにいてほしいんだろうと思う。
「ま、おったらおったでうるせーからな、おらんほうがいいかもしれん。剣崎もパパになんか言われるかもしれへんし」
「えっ?」
娘の周囲には怖い系のお父さんなの⁈
「調子乗ってサインくれとかさ、菖のことよろしくとか、ぜってーうるさそう」
ふぅ。良かった。そういう感じね。
「びっくりした、怖い人なのかと思った」
「怒らせると怖いよ、めっちゃ」
将来のことが少しちらついた。いつか頭を下げる日がくると思うし。
「剣崎のお父さんは? 怖い?」
「あんまり怒ることはないかなぁ。優しいけど、ほんわかした感じではなくて、優しい先生みたいな感じ」
「そっかぁ。あたしみたいな奴見たら、剣崎のそばにおるん嫌がられへんかな?」
「そんなことあるわけないよー!」
と言って、ふと考えた。それは菖も、将来のことを見据えて言ってくれてるの?
「こんな女の子らしくない子はだめです! とか言われてまったりしてなあ?」
なんて言って、ぎゃはははと笑う菖に僕も笑って返した。
「大丈夫だよ。父さんは僕のこと信じてくれてるし、僕が選ぶ人を悪くは言わないし、僕も言わせない」
菖の笑い声が少し変わった。スマホの向こうできっと照れているのだと思う。どういうつもりで話しているのか真意はわからなかったけど、似たような気持ちだと勝手に思うことにした。
カナダと日本の遠距離夏休みも、もう少しで終わりを迎えようとしている。
厳しいトレーニングにも慣れ、カナダのコーチの指導も僕の身体に上手く取り込まれていると思う。難易度の高いジャンプも、足首や身体の違和感なく跳べている。
帰国したらコーチに言われたヨガかバレエを取り入れてみようかなと考えつつ、僕はホテル併設のプールで泳いでいた。習っていたフォームは身体が忘れていなかった。泳ぐことも定期的に取り入れたほうが、体幹にもいいかもしれない。今度また聞いてみよう。
ただ僕の中では海外のコーチから学ぶことは多くとも、年単位で移住するほどではないと感じていた。住み慣れた日本のほうが当たり前だけど合っているし、環境も良い。
ひとしきりプールで泳いだ僕は、ふと思い出した。ここに着いた頃、菖にプールの豪華さを写真で見せてあげると『泳いでもないのに送る奴おるかぁ? 剣崎の泳いでるとこは?』などとメッセージがきていた。わざと挑発してきていることはわかってたので無視したけど、ちょっと送ってやるか。
肩あたりから上の、濡れている僕を何枚か撮る。一番かっこいいと思う写真を菖に送信した。
ほとんど休みがなかった中での2連休。疲れてバンクーバーやトロントまで遊びに行く気力も何もない。行けばきっと、すごいと思う建物や景色があっても、楽しむ余裕はない。
もう少し休んでもいいんじゃない、と親心で母さんは心配してくれるが、このカナダでの練習の費用のほとんどはスポンサーさんなどのおかげで成り立っていた。母さんのパートも休ませてしまって、もっとどこかへ一緒に出かけられたら……とも思ったけど、恩返しは練習と成果しかないと思っている。
プールから上がると僕は、あらかじめ母さんに誘われていたアフタヌーンティーを嗜みに出かけることにした。ちょっとした恩返し、になっているかな?
ドレスコードがあるとかで、念のため持っていった光沢感のある黒いシャツを着てホテルを出た。外は夏の陽射しなのに湿度が低く、長袖でも過ごしやすい。母さんも珍しくシックなワンピースを着て嬉しそうだ。
僕たちが泊まっているホテルより何倍もの大きなホテルの豪華なラウンジで、アフタヌーンティーに参戦した。カナダなのにどこか英国っぽい雰囲気が漂う。
3段の丸いスタンドにスコーンやケーキ、デザートが乗っていて、きっと菖が喜ぶだろうなぁと笑ってしまう。僕はそんなにも食べられなくて、箱に包んでもらった。母さんもギブアップして少しだけ包んでもらう。紅茶は飲み放題で、母さんはたくさん飲んだ。
お土産にあの美味しかった紅茶をたくさん買って、海を見に行った。色鮮やかなヨットも浮かんでいてとても素敵だと思う。だけど、菖がいない。いつかここに菖を連れてきてもいいかな、なんて思うけど、コトブキの海でもいいや。コトブキの海なんて何もないのに。
ここはアフタヌーンティーも美味しかったし、絶対に菖は喜ぶと思う。でも日本の東京になら、探せば似たようなティールームがありそうな気もした。
菖がこんな遠い海外にまで行きたいと言うのなら、いくらでも連れて行ってあげたい。
僕が菖に見せたい景色は今のところ海外ではなくて、菖が求めるものや、僕の愛するスケートリンクとか試合なんだと思う。
前に菖が、スケートのことでよく海外に行く僕のことを、すごいすごいと目を輝かせて誉めてくれた。でもそんなことないよ、菖がいる場所のほうが僕にとっては素敵なんだよ。
こんなところまで来て僕は、日本にいるときとやっていることはなんら変わらない。もちろん練習内容は違うし自分のためにやっていることだけど、他人から見たらつまらない人生だろうし、自分でも少し思ってる。普通の高校生なら、簡単に菖と水族館に行けるんだろうな……。
部屋に帰った僕は泣きそうだった。あと少しで帰国なのに。ホームシックなのか? アヤメシック? ベッドに倒れ込むと、コロコロと黒猫のぬいぐるみが僕の頭に転がってくる。赤チェックのリボンをつけた可愛いそいつを手で包み込むと、目から涙が少しだけ溢れてしまった。
無駄にならないように、強くなるんだ。誰にも負けない。僕は絶対に負けない。
とはいえ、何か新たな問題が起きたわけでもない。淡々と僕の日々は、ホテルとスケートリンク、その往復でほぼ埋めつくされている。その腹いせがこうなったとでも言おうか。
欲に関しては百合要素のおかげもあってか、あのときよりは一時的に高まった。しかし疲れのせいか、またもや衰退してしまっている。ずっとそんな欲はないまま過ごしてきた僕にはなくても構わなかったものなのに、さすがに年頃を迎えてる今、大丈夫なんだろうかと不安がよぎってしまう。
迷った末、シンちゃんにメッセージを送ってみることにした。中学のときの唯一の友達。シンちゃんは地域で一番の進学校に通っていて、夏休みも塾に缶詰だと嘆いていた。聞いてくれる余裕はないかもしれない、それでも何か言葉が欲しかった。
カナダでの質素で変わらない生活の報告とともに、最後に質問を付け足すことにする。
『ところでシンちゃん、変な話で申し訳ないんだけど。男としての欲ってどうしてる? そもそも、ある?』
僕は性的な知識を持っても、そういう話を友達としたことがなかった。興味もなかったし、したくもなかった。してはいけない、というイメージもあった。
シンちゃんは僕よりも品行方正な男子で、同じくそういう話をしているイメージがない。ただ仲の良い男友達同士で好みの女の子の話をしていて、あるとき静かに「それは興奮するね」と言っていたことを僕は覚えていた。シンちゃんでもそんなことあるんだ、と。
返信は思ったよりも早く届いた。
『望夢でもそんなこと言うんだ? 僕はそれなりに普通に、性欲はあるほうだよ。どうしてるかという質問には普通、と答えたいのだけど、きっとその普通を望夢は知りたいんだよね』
そしてほぼ毎日ひとりでしていること、ほかの友達は彼女を作ればセックスに持ち込むことが多いけど、それでもひとりでもすることなどなど……よくある話が書かれていた。
最後には『所詮、個人差だぞ』と注意書きまで添えてくれている。
『教えてくれてありがとう。疲れているのか、元々少なかった性欲がまた消えてしまって、不安になったんだ』
『スケート選手、特におまえの練習量は異常なんだから仕方ない。ましてや今は異国の空の下だろ? 気にするな。大丈夫だ。それよりも私的に気になることがある。SNSの子が彼女なのか?』
シンちゃんからの返信に驚いて、思わず「えっ!」と声が出てしまった。『どういうこと?』と送ってしまう。
『また消えてしまった、と書いてあることから性欲が一時的に増えていた、おそらくカナダへ発つ前だと予想した。望夢がSNSのアカウントを教えてくれたとき、僕のほかにフォロワーはひとりだけ。きっと大切にしている子なんだろうと思っていたから、離れて過ごす不安が出ているのでは、と考察した』
どこぞのミステリ小説だよ、と舌を巻く。そのとおり、だけど最後が気になった。離れて過ごす不安? 胸がざわめいてきた。
僕が海外へ行っても、どこへ行っても菖への気持ちは変わらない。何も問題はないと思っていた。
今の気持ちをそのままシンちゃんに送る。
『そうか。彼女ではないのか』
『うん』
『彼女にしちまえよ』
『色々あって、まだその段階じゃないと思ってる』
『大切にしてんだな』
『当たり前だよ、シンちゃん』
『でももしかしたら、彼女とか恋人だとか、そういう確約がない不安が心の中にあるのかもね』
『逆に彼女になっても何も変わらず、心配は尽きないんだけどなぁ』
『離れてたら誰かのモノになってしまうかもって、どこかで不安にならないの?』
……あるかもしれない。あまり考えないようにしてたけど。でもでもそれって、近くにいても同じだよね?
わからなくなってきた。わかったことは、意外とシンちゃんは恋愛関係の相談もできるってこと。
返信に困っていると、シンちゃんからまたメッセージが届く。
『とりあえず、性欲の衰退は気にするな。今は練習に集中。帰国すればきっと戻る』
そうだよね。菖に会ってしまえば戻ると思う。通話と妄想だけで、元気になったくらいだもんね。
言い聞かせる僕は弱気で、いつもの強気な僕は冒頭だけになってしまった。
菖がバイトを始めたライヴハウスのSNSに、菖が載った。自ら教えてくれたので見てみると、元気にポーズをとる菖の写真に紹介文が添えられている。
『夏休みのバイトで来てくれている、姪のあやめちゃん。数年前、ドリンクを手伝ってた可愛い子を覚えている方には懐かしいかも!』
コメントには『え! あの子戻ってきたの?』『今度のジャズイベ、あやめちゃん出勤しますか?』『外で整列係してたら声掛けていいです?』などと常連っぽい人たちから書き込まれている。
最後の写真が気になった。菖と一緒におそらくオーナーの叔母さんと、女の子みたいな青年が写っている。叔母さんも、叔母さんには見えない。でも菖が「めちゃくちゃ若え」って言ってたからその人で合ってると思う。
女の子みたいな青年のことを菖に訊いてみた。なんと叔母さんの息子さん、菖にとっては従兄だと言う。
『その日ちょうど、MADでライトのバイトしてたから』
ライトとは照明のことだ。そしてもう1枚、写真が送られてきた。
『リンさんにはもうひとり息子がいて、さっきのダイちゃんの兄貴。ちょっとバンドで有名な人やで、この写真はシークレットだかんね』
……え、なんだこの人? まず銀色の髪がすごく長い! セフィロス……有名なキャラクターが女体化したような人だった。男の僕から見ても綺麗すぎて、よくわからない。
しかも菖と密着して撮っているのが、いくら従兄とはいえムカついてきた。溺愛にも程があるでしょ。兄弟もおらず親戚付き合いが少ない僕には、理解しがたい。しかも僕よりお似合いに見えてきて、スマホを持つ手が震えてきた。
イトコって結婚でき……る、よね?
さっきシンちゃんから送られてきたメッセージが、頭に浮かんで点滅する。
――離れてたら誰かのモノになるって、どこかで不安にならないの?
大丈夫だと思っている。たとえ菖がこの人と結ばれても。結ばれても……?
嫌かも‼︎
そもそも初めて、こんなに近い形で男といる菖を見た。でも菖がこの人を選んだなら僕はきっと完敗だよ、菖の気持ちを尊重したい。
と勝手にそんなこと思って格好つけてるけど、嫌すぎる。発狂してしまいそうだ、菖……もう一度画面を見ると、セフィロス野郎の横で菖は可愛い笑顔をしている。
気になってセフィロスさんのことを調べてみた。バンドマン、セフィロス似。それだけですぐ画像が出てきた。ただ画像のその人は、菖と撮った写真よりも濃いメイクをしていて黒い唇が狂気を倍増させている。
ヴィジュアル系バンドのボーカルmissa。ミサ。……ミサ?
どこかで聞いた、あ、菖だ。コトブキでデートしたときに、菖がふと呟いたんだ。キャッティパークの猫のぬいぐるみをカスタムしているときだ。そうだ! この近くのライヴハウスでバンドマンの猫を作ったお客様がいて、とかスタッフさんが話してくれたときだ。菖がおもむろに「ミサかも」、そして「親戚」だと。
勝手に女の子かと思っていた。そうか、そういうことだったのか。しかもぬいぐるみを作るほうではなく、作られるほう。
なーるほどね。僕はホテルの部屋のソファに寝そべった。何も解決していないけど、答え合わせができたかのようで少し安心した。あのときの菖の様子に、敵対するような要素はなかった。
同時にあのとき、菖は僕のことを推しの存在のように言っていたことを思い出した。恋愛ではなく、ただの推し? そう思ってショックだった。
菖はいつか誰かと結ばれるのだろうか? 男友達は多いほうなのに免疫は少なさそうで、そんなところも好きだけど心配になる。
性欲あるの、なんてさすがに訊けないし。それにどちらかといえば、推しに恋愛感情は持てますか? そう訊きたい。
そういえばあのときの僕は菖に、黒猫の耳を着けてほしいと思っていた。伝えられなかったのに菖は、篠宮さんと弟くんと行ったキャッティパークで、黒猫の耳を着けた写真を送ってくれたんだ。以心伝心だと喜びを伝えると、菖は「勝手にテレパシーしてんじゃねえ! ふたりで黒猫って言っとったんやから当たり前やろ!」と照れていた。
こんなふたりなんだから大丈夫、と僕はまたも自分に言い聞かせる。
リンクサイドで休憩しながらスマホを触っていると、同じコーチに教わるロシア人の女の子が僕の正面に来て何かを伝えてきた。早い英語は聞き取れない。
もう一度よく聞くとロシア語だったが、スマホの背面に挟んだ菖との写真を指差した。この子は誰なのかと訊いているのだろう。
「She is……my girlfriend」
語尾にクエスチョンマークをつけてもおかしくない上がり方をしてしまう。ガールフレンドの意味が、ただの友達なのかどうかがわからない。
「Oh,so cute」
今度は英語で可愛いと言い、手を振って去っていった。
フィギュアスケートをしている女の子たちはみんな、すごく細い。細くないと跳べなくなってくるからだ。あのロシアの子も骨ばった体型をしている。
それが普通だった。僕の普通もそこだった。しかし今は少し変わった。みんながスケートで良い結果を出し、その後は健康的な身体になれたらいいなとも思う。
今日は母さんはリンクには来ず、日本から来たスケート連盟の人たちと夕食の準備をしている。みんなで手巻き寿司をしようと、繁華街のあるバンクーバーまで食材を探しに行った。ある程度の日本食は揃うが、ごまかしながらの日本食だ。
少食の僕は異国の地に来てからずっと食欲がなく、最近やっと食べられるようになってきた。
お偉いさんたちが来た理由はもうひとつあって、これは菖に一番に報告したいから帰国して会ったときに伝えようと思っている。
練習しながら一心不乱に滑る僕は徐々に、氷と自分だけの世界に入っていく。すると翼が生えたかのように身体が動く。指先まで力が入る。
気づくと息を切らして、冷たくなった皮膚と体内の熱が身体を休めろとぞわぞわしてくるのだ。
この地方はカナダの中でも紅茶を飲む習慣があるらしく、母さんが温かい紅茶を用意してくれていた。水筒の紅茶でも美味しい。体内に染み渡る。菖にもこの紅茶、お土産にしたいな。花の香りがふわっと漂う紅茶はすごく飲みやすかった。
僕には何人かのコーチがいるが、カナダへ来た最大の理由のコーチがリンクに入ってきた。これからジャンプとステップの練習だ。通訳さんの空気も少しピリッとする。
僕は頬を叩き、気合いを入れた。
離れて過ごす夏休みに不安もあるが、その不安を解消してくれているのも菖だと気づく。
中学のときの誰々と会った、被服科の誰々ちゃんとランチした、などと報告してくれるからだ。その中には男友達も含まれているが、聞いていても特に何も感じない。何かあったり起きていたら、菖のことだからわかりそうな気がする。
その流れで驚いたことがあった。菖のお父さんが家に帰っていないらしく、久しぶりに電話で話したそうだ。なんでも話してくる菖だけど、家族のことは弟くんの話がほとんどだった。
「うちはさ、剣崎みたいにちゃんとした親じゃねーからさ」
お互い時間が合って通話していると、さみしそうにそんなことを言われた。
お父さんと何を話したのかは具体的によくわからなかったけど、お小遣いをせびったとかで喜んでいた。仲が悪いわけではなさそうだった。
「そういえば菖の弟くんは
密かに気になっていたことを訊いてみた。
「そうそう、それもパパが名前決めたんやけどさ、皐は本当は6月生まれだったんよ、予定日。やでジュンにしようって思ったんやって」
6月はJuneでジュンか……。
「ふざけとるやろ? ほいで結局、5月30日に生まれたんよ」
さすがに笑ってしまう、マジか。
「それで名前、変えたんだね」
「そういうこと!」
面白いお父さんだな。菖のお父さんって感じ、するかも。
「お父さんに会いたい?」
「うーん。出張とかで、ずっと家におる人やないから慣れとるし、会いたいってわけでもないけど……」
言い終わる頃には声が少しずつ弱まっていて、きっと本当はお父さんにいてほしいんだろうと思う。
「ま、おったらおったでうるせーからな、おらんほうがいいかもしれん。剣崎もパパになんか言われるかもしれへんし」
「えっ?」
娘の周囲には怖い系のお父さんなの⁈
「調子乗ってサインくれとかさ、菖のことよろしくとか、ぜってーうるさそう」
ふぅ。良かった。そういう感じね。
「びっくりした、怖い人なのかと思った」
「怒らせると怖いよ、めっちゃ」
将来のことが少しちらついた。いつか頭を下げる日がくると思うし。
「剣崎のお父さんは? 怖い?」
「あんまり怒ることはないかなぁ。優しいけど、ほんわかした感じではなくて、優しい先生みたいな感じ」
「そっかぁ。あたしみたいな奴見たら、剣崎のそばにおるん嫌がられへんかな?」
「そんなことあるわけないよー!」
と言って、ふと考えた。それは菖も、将来のことを見据えて言ってくれてるの?
「こんな女の子らしくない子はだめです! とか言われてまったりしてなあ?」
なんて言って、ぎゃはははと笑う菖に僕も笑って返した。
「大丈夫だよ。父さんは僕のこと信じてくれてるし、僕が選ぶ人を悪くは言わないし、僕も言わせない」
菖の笑い声が少し変わった。スマホの向こうできっと照れているのだと思う。どういうつもりで話しているのか真意はわからなかったけど、似たような気持ちだと勝手に思うことにした。
カナダと日本の遠距離夏休みも、もう少しで終わりを迎えようとしている。
厳しいトレーニングにも慣れ、カナダのコーチの指導も僕の身体に上手く取り込まれていると思う。難易度の高いジャンプも、足首や身体の違和感なく跳べている。
帰国したらコーチに言われたヨガかバレエを取り入れてみようかなと考えつつ、僕はホテル併設のプールで泳いでいた。習っていたフォームは身体が忘れていなかった。泳ぐことも定期的に取り入れたほうが、体幹にもいいかもしれない。今度また聞いてみよう。
ただ僕の中では海外のコーチから学ぶことは多くとも、年単位で移住するほどではないと感じていた。住み慣れた日本のほうが当たり前だけど合っているし、環境も良い。
ひとしきりプールで泳いだ僕は、ふと思い出した。ここに着いた頃、菖にプールの豪華さを写真で見せてあげると『泳いでもないのに送る奴おるかぁ? 剣崎の泳いでるとこは?』などとメッセージがきていた。わざと挑発してきていることはわかってたので無視したけど、ちょっと送ってやるか。
肩あたりから上の、濡れている僕を何枚か撮る。一番かっこいいと思う写真を菖に送信した。
ほとんど休みがなかった中での2連休。疲れてバンクーバーやトロントまで遊びに行く気力も何もない。行けばきっと、すごいと思う建物や景色があっても、楽しむ余裕はない。
もう少し休んでもいいんじゃない、と親心で母さんは心配してくれるが、このカナダでの練習の費用のほとんどはスポンサーさんなどのおかげで成り立っていた。母さんのパートも休ませてしまって、もっとどこかへ一緒に出かけられたら……とも思ったけど、恩返しは練習と成果しかないと思っている。
プールから上がると僕は、あらかじめ母さんに誘われていたアフタヌーンティーを嗜みに出かけることにした。ちょっとした恩返し、になっているかな?
ドレスコードがあるとかで、念のため持っていった光沢感のある黒いシャツを着てホテルを出た。外は夏の陽射しなのに湿度が低く、長袖でも過ごしやすい。母さんも珍しくシックなワンピースを着て嬉しそうだ。
僕たちが泊まっているホテルより何倍もの大きなホテルの豪華なラウンジで、アフタヌーンティーに参戦した。カナダなのにどこか英国っぽい雰囲気が漂う。
3段の丸いスタンドにスコーンやケーキ、デザートが乗っていて、きっと菖が喜ぶだろうなぁと笑ってしまう。僕はそんなにも食べられなくて、箱に包んでもらった。母さんもギブアップして少しだけ包んでもらう。紅茶は飲み放題で、母さんはたくさん飲んだ。
お土産にあの美味しかった紅茶をたくさん買って、海を見に行った。色鮮やかなヨットも浮かんでいてとても素敵だと思う。だけど、菖がいない。いつかここに菖を連れてきてもいいかな、なんて思うけど、コトブキの海でもいいや。コトブキの海なんて何もないのに。
ここはアフタヌーンティーも美味しかったし、絶対に菖は喜ぶと思う。でも日本の東京になら、探せば似たようなティールームがありそうな気もした。
菖がこんな遠い海外にまで行きたいと言うのなら、いくらでも連れて行ってあげたい。
僕が菖に見せたい景色は今のところ海外ではなくて、菖が求めるものや、僕の愛するスケートリンクとか試合なんだと思う。
前に菖が、スケートのことでよく海外に行く僕のことを、すごいすごいと目を輝かせて誉めてくれた。でもそんなことないよ、菖がいる場所のほうが僕にとっては素敵なんだよ。
こんなところまで来て僕は、日本にいるときとやっていることはなんら変わらない。もちろん練習内容は違うし自分のためにやっていることだけど、他人から見たらつまらない人生だろうし、自分でも少し思ってる。普通の高校生なら、簡単に菖と水族館に行けるんだろうな……。
部屋に帰った僕は泣きそうだった。あと少しで帰国なのに。ホームシックなのか? アヤメシック? ベッドに倒れ込むと、コロコロと黒猫のぬいぐるみが僕の頭に転がってくる。赤チェックのリボンをつけた可愛いそいつを手で包み込むと、目から涙が少しだけ溢れてしまった。
無駄にならないように、強くなるんだ。誰にも負けない。僕は絶対に負けない。