018 シャチ

文字数 8,757文字

 酷暑の夏休みだった。とうとう明日から学校が始まってしまう。
 焼けたアスファルトが溶けそうに滲んで見える。暑すぎて、もはや蝉すら鳴いていない。汗と一緒に、湿度と熱気が身体にまとわりつく。
 つばが大きめの帽子をかぶった菖は、双葉駅のスーパーでアイスを買って家まで歩いていた。いつもなら昼まで寝ているはずが、なぜだか早く目が覚めてしまったために散歩がてら外を歩いていた。
 黒いロングのキャミワンピースに、薄い生地の羽織物。夏休みのいつだったか、剣崎に写真をせがまれてこの服を見せるといつも以上に絶賛してくれて、帽子とともにお気に入りのコーディネートになった。
 普段なら選ばないような、大人っぽい服。「高校生にもなったんだから」とショッピングモールでの買い物中に、母の昭子がロング丈のワンピースを勧めてきた。ドラマの中でお金持ちの人が外国の海で着るサマードレスみたいで試着すると、太って見えて一度やめた。
「やっぱりこういう服は、背が高い人のものよなー」
 なんて言いながら、いくつかのお店で試着をさせてもらった。同じようなデザインでも少しだけ腰元が絞られた型があって、背が低めの菖にフィットしたワンピースが見つかった。昭子も「これならいいわね」と買ってくれた。
 お昼前なのに、しかも徒歩5分あるかないかの双葉駅の往復で、こんなにも暑い。もう汗だくだった。
 家に着くとすぐにアイスを冷凍庫に閉まい、ゲームに勤しむ皐に声を掛けつつ冷えた自分の部屋へと戻った。
 帽子を置いていつものようにベッドにダイブすると、剣崎に模した黒猫のぬいぐるみがコロコロと菖の元へとやってくる。
「このあいだはびっくりしましたねぇ」
 菖は小さめのぬいぐるみを手にとり語りかけた。そして自分で、黒猫を頷かせているかのような動きをさせる。
 花火のときの剣崎、あれはなんだった? ただの変態やんか! そう思うのに、菖は嫌ではなかった。恥ずかしくて、むず痒くなる。
 駅のホームで話していたときの、剣崎の弱気な発言にも耳を疑った。
 あたしが近くにいないことが、そんなに? 近くにいても、そんなに会えていないのに? 実際、家は近いわけでもない。同じ県だけども。あれ、こういうときは国単位の規模で考えるんやっけ?
 遠いカナダでほとんどひとりで、毎日毎日スケートと過酷なトレーニング。余程、孤独だったんだろう。
 そんなことで弱気になるなよ。そう呆れてしまったのも本当だ。でもすぐに思った。あいつ、孤独で弱気になる? ならんと思う。
 なのに泣いてしまった、あたしが。呆れて泣いたわけでもないし、さみしかったから泣いたわけでもない。
 多分……あたしは、さみしかったと求めてくれる剣崎に自分はふさわしくない気がして、なのにそれでも剣崎は求めてくれて、さみしいとか孤独めいたことを言うから、勝手に涙が出てしまった……気がしている。
 このあいだの花火のときから、ううん、もっと前から。剣崎はあたしのことを好きなんだろうって、たくさん伝わってくる。それが嬉しくて、弱気な剣崎でいてほしくないと思ったのかもしれない。
 夏休みなのに会えなくて、つまらない気持ちもあった。一緒にお祭りにも行きたかった。水族館や映画デートなんてものも、剣崎とならしてみたかった。
 しかし菖は、そこまでくよくよしていたわけでもなかった。
 たくさん絵も描いたし、ライヴハウスでのバイト、千緒や歩乃香とのおしゃべり、中学時代の友達と久しぶりに遊んだり、被服科の友達とご飯に行ったり。
 父の和彦は結局まだ帰ってこないが、母の昭子と皐の3人で昭子の実家へ帰省旅行もした。3人でプラネタリウムや水族館にも行ったし、バスケのリーグ試合を観に行ったりもした。
 ライヴハウスでバイトをしている菖に気づいて、声を掛けてくれた南陽高校の1年と2年の男子たちとコピーバンドを組むことにもなった。秋の学祭でライヴをするためだ。夏休み後半は、カラオケやスタジオで練習した。
 バイトも問題なくこなせていて、「夏休みが終わっても、週末を中心に引き続きお願いね」とリンさんに頼まれていた。
 剣崎にはすべて伝えている。スケートしかしていない剣崎に、ただ遊んでいるだけのような報告は失礼にあたるんじゃないか。そう思うこともあった。
 あいつのさみしさは、そこからきているんだろうか。あたしがほかのことをしているあいだ、剣崎を忘れているとでも思ったのか?
 思い返せばあのとき、菖以外どうでもいい、みたいな口振りもあった。わあ、それ依存ってやつ? 菖は笑ってしまう。
 そんなふうに見えない。だって剣崎は、いつも背筋を真っ直ぐに前を見据えて、凛としていて、動画で観るフィギュアスケートなんて本当に綺麗な姿で。一心不乱に、夢に向かっている。
 誰が良いとか駄目とか測るものではない。でも剣崎は、ここいらの高校生の誰よりも努力を重ねている。実際に見たことはなくとも、菖にはそれが伝わってくる。
 剣崎のこと忘れてなんてないよ、いつだって想ってる。机の上に、お土産をたくさん詰めた袋が置かれていた。キャッティパークでも、水族館でも、母方の遠い実家先でも、剣崎に何をあげようか自然と考えていた。
 明日の開講式で渡すんだ。菖はちょっとした手紙を添えるために、勢いよく起き上がった。


 夏休み明けの開講式は、始業式みたいなものだ。2期制のため、10月下旬に約1週間の秋休みを挟む。そして秋休みの前後どちらかで、南陽高校学園祭が開催される。
 2年生と3年生は昨日が開講式だった。式自体は30分ほどで終わるらしい。菖たち1年生は、昼休み後から開講式だ。後期から自分で授業のカリキュラムを組むようになるため、その説明会が開講式後に続けて行われる。
 体育館だろうと講堂だろうと、式が行われる日はいつもの制服ズボンかスカート、そして白シャツとネクタイが必須と決まっていた。
 菖は久しぶりの白シャツとネクタイに窮屈な不快感を感じていた。首元のボタンをひとつだけ開けてネクタイをずらし扇子で仰いでいると、前の席の歩乃香が振り向いて言う。
「菖、また胸でかくなったんじゃない?」
「またってなんだよ……」
 午前の授業はホームルームで、学祭の出し物をどうするのか話し合いをしていた。各クラス、何かをしないといけない。
 基本的に剣崎や千緒がいる特進科は、食べ物系の屋台を出店する。準備期間が少なくて済むからだ。機械科と情報処理科は、特性を活かした商品を売ったりイベントをしたり、男子が多いと遊戯系の屋台を出すこともある。
 被服科の出し物は伝統芸になっていて、全学年で写真館をする。3年生が衣装を作り、2年生がテーマに沿った小道具を作る。1年生は手伝いながら当日はヘアメイクをメインに担当する。大好評なので気合いの入り方も違い、学祭が終わってすぐに翌年のテーマを練り始めることもあるらしい。
 そんな中、美術科はかなり自由だった。美術といっても幅が広すぎて、何かを作って売るにしてもコンセプトがないと統一感が出ない。普段からアートに向き合っているため、こういうときは違うことではしゃぎたい、という欲求もある。
 クラス全員が登録しているグループメッセージでも、夏休み中から議論は始まっていた。特に男子は気合いが入っていて、簡易的なカフェをやりたいという。
 当初は男女がお見合いのような形で出会える「ねるとんタイム」をやりたかったらしい。どこかの大学の学祭でやっていて、とても盛り上がったそうだ。しかし土門くんがさすがに却下した。そうじゃなくてもきっと学校側から受け入れられるわけがない。男子のわけのわからない盛り上がりに、女子は若干しらけていた。
 そんなイベントよりはカフェのほうがいいでしょう! 男子の意見に添った女子の決定権により、現在進行中でどんなカフェをするか、アイディアが飛び交っていた。
 黒板には定番のメイドカフェ(男子もメイドまたは執事)から始まり、ナースカフェ、戦隊カフェ、水着カフェ、無口カフェ、無人カフェ、本気でやるカフェ……など、馬鹿げた案まで書かれている。
「あ、いいこと思いついた!」
 歩乃香が手を挙げ、土門くんが「江藤さん、どうぞ」と眼鏡の右フレームをクイっと触る。
「猫カフェ!」
 立ち上がった歩乃香は、「にゃ♡」と猫の仕草をする。一部の男子がざわめく中、土門くんは冷静だった。
「動物の持ち込みは禁止です」
「違うのよ、アタシたちが猫になってカフェの運営も接待もするのよ、猫耳着けて」
 おおお! 今度は全員が自然と声を出してしまう。どこからともなく、「それいいかも」「猫カフェって字を見て騙すこともできるしな」「全員で猫耳か!」とみんなが意見を言い合いだした。
 菖も、「歩乃香やるやん」と席に座った歩乃香の頭を撫でる。
「江藤さんの仰る猫耳と、あと尻尾くらいなら、学祭の服装の規定内におさまると思います」
 土門くんも資料を見ながらチェックをしていく。
「できれば、ほっぺにヒゲとか描きたーい」
「それくらいなら大丈夫です。白塗りや過度のメイク、顔を覆う被り物は禁止されてますので……」
 聞いていた菖は、コピーバンドで出る予定のライヴのことが気になった。衣装も厳しいのだろうか。コテコテのヴィジュアル系バンドは出たことがないと聞いていたが、そもそも規定のせいで出ていなかったのかもしれない。
「土門くーん、服装ってどんな規定なん?」
 挙手したまま菖は土門くんに問いかけた。
「えっとですね、基本いつものとおり制服のズボンかスカートは必須です。着用できない場合は事前申請が必要です。着ぐるみは完全に禁止、ネクタイをしていても白衣など紛らわしいものを羽織ることは禁止。申請した服装が通れば、おそらく生徒だという腕章を付けるっぽいですね」
「ちなみに、学祭2日目のステージもそうかな?」
「あー、そちらは……えーっと、そうですね、同じみたいですね。ステージだけなら腕章は付けませんが、事前申請の項目が何やら多いようですね」
 土門くんは「久野さん、過度なメイクは駄目ですよ」と資料を見ながら簡単に説明をしてくれた。うーん、これはコピバンのメンバーと話し合わねば。
 学祭の初日は一般客も招いて、各クラスの出し物を楽しんでもらう。夜は生徒と近隣住民で片付けながらのキャンプファイヤー。2日目は町民市民の屋台をグラウンドに出店してもらいながら、生徒や住民が楽しめるお祭りイベントのような日だ。有志の生徒で講堂や体育館でパフォーマンス、ライヴ、余興などを披露する。
 菖が色々と考えているあいだに、美術科の面々は生徒たちによる猫カフェという意見に落ち着いていた。立体制作が得意な生徒が尻尾をどう簡単に作るかまで話し合っていた。
 お堅い土門くんもニマニマと怪しい微笑みをしていて、どうやら乗り気らしい。
「ねぇ、菖は黒猫だよね?」
 歩乃香がキラキラしたやる気に満ち溢れた顔で訊いてきた。
「選べるならそりゃ黒猫やな、でも紫でもいいかも! アヤメパープル」
「は? 何パープル?」
「なんでもねぇです」
 笑いながらごまかした。歩乃香が拳を作って力説し始める。
「アンタはね、黒猫で可愛くいってもらうから! アタシはどうしよっかな、ギャル全開のキラキラキャットでいこうかな? うちらのこのビジュで他校の男子全員、かっさらってくわよ!」
 気合いの入り方が妙に違う気もするが、きっと歩乃香のことだ、可愛く仕立てた後は途中で面倒になって投げ出しそうだ。
「それでは、みなさん。我々1年8組美術科は、猫カフェという案でよろしいですかね?」
 土門くんが資料を片手にパンパンと叩いて注目させた。
「異議なーし」
「オッケーだよーん」
 そして全員の拍手喝采になった。ひとまず決まりだ。
「それでは今から、曽部先生のところへ報告してきます。昨日までに決めている上級生とかぶったり先生の許可が降りないと、この案は否決です。説明不足になるといけませんので江藤さん、補足の付き添いお願いいたします」
 土門くんは眼鏡の右フレームをクイッとさせて歩乃香を見た。
「歩乃香、指名されてやんの」
「はあ? もう仕方ないわね、土門のアホは!」
 そう言いながら歩乃香は勢いよく立って、教室を出る土門くんの後ろに続いた。菖はふたりに「よっ、いってら!」と手を振った。


◇◇◇

 お昼休みに久しぶりに会ったみんなが夏休みに何をしたか、聞いているだけで楽しかった。僕は美術科のみんなにカナダ土産として、小袋のメープルシロップポップコーンと、箱一面に入った一口サイズのチョコをどうぞと配った。
「菖は別であるから、後でね」
「剣崎! 何それ美味しそう! あたしにも入ってる? ポップコーンの!」
「入ってる入ってる」
 その場でポップコーンを開けてしまった土門くんに「ひとかけらよこせ」などと菖はひと粒奪いながら、チョコもちゃっかり2個食べていた。メープルリーフとハートのチョコ。
「なんこれ、めちゃくちゃ美味しいー!」
 頬に手を添えながらとろけるような笑顔を見せてくれて、僕まで笑顔になる。
 その後、講堂で開講式と後期のカリキュラム選択や単位の取得についての説明会があった。月曜日から金曜日までどの授業を受けるのか、締切り日までに自分で決めて提出しなければいけない。
 何度も「不安な生徒は早めに提出しつつ、担任に相談するように!」と言われる。その先生を見ていると、講堂のステージは照明が近くてとても熱そうだ。菖は今度この講堂で歌うらしい。本当に大丈夫なんだろうか? ハラハラしてしまいそうだ。それに僕は、学祭に出られるかもまだ微妙だった。
 これから本格的にフィギュアスケートの試合が増える。練習もほぼ毎日、欠かせなくなる。今以上に学校に来られないかもしれない。大会日は公欠扱いになるため、今のところはレポートなどの提出で単位は大丈夫そうだと加山先生たちは見込んでくれた。
 コーチ陣も一応、学業優先とは言ってくれている。しかし期待値とともにスポンサーさんへの挨拶回りや、テレビや雑誌の露出も増える。控えたくてもこの先のご縁や感謝を考えると、こなさなければいけないものもある。
 中学のときも卒業式の途中で抜けて、海外の試合へと飛んだ。あのときは自分の中でも学校よりスケートだった。今は少し違う。
 単位の説明も終わりに近づいていた。2列目の左端に座っている僕は、振り返って8組の美術科が座ってそうな後方の席を目を凝らして確認する。
 いた、菖だ。菖がどこにいるのか、僕にはすぐわかる。そして笑ってしまった。肘掛けに右肘を置き、手で顔を支えるようにして完全に寝ている……ほんとにもう。
 菖とは近々一緒にカリキュラムを組もうと話していた。それで余計に、安心している気がする。聞いとらんくてもなんとかなるやろ? そんな声が後方から聞こえてきそうだ。
 説明も終わり、今日はこのまま解散となった。僕は扉に近い菖に追いつくよう素早くロビーに出た。ロビーの少し先をみんなと歩く菖を見つけ、走って後ろから驚かす。
「わっ‼︎」
「ひゃあ! ちょっ、け、びびったあ!」
「ね、菖、1組寄ってかない? ついでにお土産渡したいから。それから8組行こ?」
「ねぇねぇ、剣崎の、菖のお土産って指輪?」
 普段はリコと呼ばれているイシノさんが訊いてきた。いきなり指輪と言われて、僕も菖も戸惑ってしまう。
「指輪ってお土産になんのかよ?」
「だーって婚約指輪にもなりそうじゃん」
 イシノさんは自分の左手を顔の前に持ってきて、薬指に指輪があるかのように眺める。
「でもよく言うよね、海外旅行で奮発ついでに指輪とか」
 江藤さんがイシノさんの左手の薬指に指輪を嵌める仕草をする。
「そうなんだ! 知らなかった」
「こいつはなぁ、旅行じゃなくてフィギュアスケートの練習で行ってんの!」
 菖が僕の肩を叩きながら、イシノさんと江藤さんのやり取りを手で振り払う。僕は肩に置かれた菖の左手を取り、薬指をすーっと触った。
「じゃあいつか、だね」
 くすぐったかったのか菖はすぐに手を引っ込めて、江藤さんとイシノさんのあいだに入った。
「何をいまさら恥ずかしがってんの?」
「菖、指輪貰っときなー」
 ふたりにいじられながら菖は「じゃあ屋台のオモチャの指輪がいいかな、お祭り。いつか剣崎も一緒に行きたいやん」と笑う。
 高校生らしいことをしてあげられないかもしれなくて、僕は少し胸が痛んでしまう。
「がんばる」
 苦笑している僕がわかったのか、江藤さんが「ある意味、高い指輪のほうが簡単かもね」と目配せしてきた。本当に、前途多難すぎる。


 菖が冗談で言ってくれてるのもわかってるけど、きっと本音だよね。高い指輪をねだるより、お祭りだなんて。
 いや、菖は大人になったら高い指輪、ドクロとか紫の宝石とか、みんなが選ばなさそうな高価なものをねだってきそう。
 階段の分岐点で江藤さんたちとバイバイして、菖は1組の廊下で待ってくれていた。教室の後ろのロッカーから大きな荷物を取り出していると、篠宮さんが「菖にお土産渡すんやってぇ?」とやってくる。
「あ、篠宮さんにもちゃんとあるよ」
 僕は、シンちゃんにもあげたメープルクッキーやお菓子、紅茶の詰め合わせを渡す。
「こんなにいいの? ありがとう」
 そう言って篠宮さんは僕にもお土産をくれた。
「キャッティパークのお土産は菖が買ってたから、私は家族旅行の」
 今日はみんなからお土産を貰えて、本当に嬉しい。ありがとうと言って中身を見ると、蕎麦と漢方薬みたいなものが入っていた。センスが面白い。僕のことを考えてのことかもしれなくて、学校の友達もいいもんだなと思った。
 篠宮さんとふたりで廊下に出ると、菖が欠伸を噛み殺していた。その顔を見て笑いながら篠宮さんが睨んだ。
「あーやーめー、カリキュラムの話ちゃんと聞いとった?」
「おん、聞いとった、聞いとった!」
 待て待て待て。僕は菖の頬をつつく。
「嘘つけ菖、寝てたでしょ。最後」
「な、な?」
 驚いた顔で菖は僕を見てきた。目が、なぜ知っているのだと語ってくる。僕にはすべてお見通しだよ、と無言で見つめ返しておく。
「ほんとにもう困るよね、菖には」
「ぐぬぬ……。あ、千緒もさ、今度一緒にカリキュラム組もうよ。ね、剣崎」
「うん、いいよ」
「私は大体決まってるけどね、照らし合わせしよか。じゃ、塾あるし、おっ先ぃ!」
「千緒、じゃあねー!」
 篠宮さんは元気に手を振って帰っていった。浴衣のこととかデートのこと、結果が気になるところだったが、まぁいいか。
「はい、菖。僕からのお土産」
「なんかでけぇなって思っとったわ、ありがと!」
 大きなビニール製の横長の袋に、たくさんのカナダ土産を入れておいた。中を見れば、一番の目玉にすぐ気がつくと思う。
「なんこれええええええ‼︎」
 菖の絶叫とともに袋から出てきたものは、シャチのぬいぐるみだ。両手でなんとか抱えられるくらいの大きめのシャチ。
「きゃああああ可愛い可愛いめちゃくちゃ可愛いきゃああああ‼︎」
 シャチを持ったまま間髪入れずにずっと叫んでバタバタしている菖のほうが、よっぽど可愛いオモチャの人形のようだ。
「カナダはね、海でシャチが見られる場所らしくって。僕は残念ながら見てないんだけど、行きの空港でこれ見つけたとき、絶対に菖に持って帰ろうって思ったの。オルカラボっていうところもカナダのどこかにはあるみたいだよ」
「おるからぼ?」
「シャチの別名がね、オルカっていうの。ラボは研究所って意味かな」
 オルカの意味は魔物だけどね。僕は菖のあまりの喜びように、言えなくなった。
「すっご! シャチ! オルカ! 可愛いっ‼︎ 剣崎、ありがとううう」
 シャチをぎゅうっと抱き締めながら菖が満面の笑みでお礼を言ってくれる。
 その姿に僕は改めて、一目惚れのような、目の前が痺れる感覚に陥った。心臓がドクドクしてくる。その屈託のない眩しい笑顔は、今は僕だけしか見ていないけど、誰にでも見せる笑顔なんだよね? 無自覚とは、罪すぎないか? 
 体内までドクドクしてきた、落ち着かないと。
「でもそっかあ、剣崎、シャチ見てないくせにこれ買ってくれたんかぁ」
 心臓を高鳴らせてた僕に気づかない菖は、今度は寂しげな顔をしていた。
「大丈夫だよ、いつか菖とどこかのシャチ見るから。それまではこのシャチを、たまに菖に見せてもらう」
 シャチに顔を埋めたまま「うーん」とうなって、さみしそうにさらに抱き締めている。何それ? 僕はシャチのぬいぐるみに嫉妬しそうになる。普通そこは、僕を抱き締めるんじゃないの?
 また心臓がドクドクと波打ったがすぐに治まった。今のはヤキモチ、だよね。
 少し妬んでしまった僕は、今ここでライバルになったシャチの口先に軽くキスをした。菖の目が丸くなる。キスをしたシャチの顔を、菖に向けた。
「わかった? わかったら、はい」
「え?」
 無理矢理にシャチとキスをさせた。満足気な僕の顔を見た菖は、頬を赤らめて睨んでくる。
「剣崎、カナダでやっぱり変なこと、学んできたん?」
「変なこと? ふふ、菖が思うキスなんて誰ともしてないよ。安心して。ね?」
 そして僕はもう一度、菖に抱かれているシャチにキスをした。今度は菖を見つめながら。キスをする瞬間は目を瞑ったけど。
 菖の顔がさらに赤くなっていくのがわかる。
 可愛いね、と頭を撫でようとしたところで菖が8組に向かって走り出した。
「ばかばかばか、剣崎のばーっか‼︎」
 廊下に叫び声がこだまして、ほかのクラスの生徒が何事かと見てくるものだから、僕まで走って追いかける羽目になった。
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