012 再会

文字数 6,310文字

 夏休みを迎える前日、剣崎は学校を終えてすぐに東京経由でカナダへと旅立った。
 空港まで見送りに来るかと訊かれた菖は、遠いこともあって断っていた。剣崎だけじゃなくてお母さん、コーチの人たちや通訳さんまでいると聞いたらなおさらだ。
 早く帰りたい、なんて行く前から駄々っ子のように言ってくれたことが嬉しかった。
「しばらく日本にいないから、見られたところで問題ないかなって入れてみたの」
 学校の廊下で別れを惜しんでいると、剣崎がスマホケースの裏側を見せてくる。菖とのツーショット写真を入れてくれていて、思わず大声を出して驚いてしまった。
 僕は入れられないから、なんて言ってたのに! 菖はすでに、千緒や歩乃香と撮った写真と、再度許可を取って剣崎との写真を入れていた。剣崎との写真は念のため、手元で隠れやすい下のほうに配置した。
 キラキラしたお揃いのスマホケースにお互いツーショットを入れていると、なんだかもっとキラキラして見える。
 こんなことして彼氏彼女と疑われるのも当たり前だ。でも、決定的なことを言われたわけじゃない。よく海外に行く剣崎は、日本人よりも外国人の接し方に近いのかもしれない。スキンシップも多いし、優しいのもそのせいなのかもしれない。
 剣崎にはもうひとつ、変えたことがあった。メッセージチャットのアイコンを、お試しイベントで作成したキャッティパーク猫2匹のイメージ画像にしたのだった。赤いチェックのリボンは菖が描き足してあげた。
「これでメッセージ送るたびに僕たちの黒猫が見えるね」
 と得意げに笑ってきた。
「こっちも変えなくていいの? こうじか」
 菖が剣崎のSNSの名前部分を見せると、さらに笑ってくる。
「ふふ、これはね、こうずかって読むんだよ」
 【好事家】の文字が表示された画面をもう一度見る。
 こうずか⁈ 知らんかった……って、読めるかぁ、んなもん! じ! ず! はぁ?
「自分の名前を入れようか迷ってやめたんだ。それで、好事家にしたんだよねぇ。菖、夏休みはお勉強しなきゃだねえ?」
「うるっせぇ‼︎」
「ちなみに好事家の意味は、物好きな人、だよ」
 剣崎はまだ笑っている。ぐぬぬ、夏休みのあいだに脳的ビフォーアフターしてやろうか。
 ちなみにあの赤チェックのリボンをした黒猫は、一緒にカナダへ行くらしい。おい、ずるくないか?


 カナダとの時差は17時間。剣崎からの連絡は思っていたより少なく、カナダらしい写真もあまりなかった。どっか東京にいるんじゃねーの? なんて思ってしまうぐらい、メッセージの内容も普通だ。『練習いってきます』なんていつもと変わらない。
 送られてきた写真のホテルの部屋は広そうだった。連れていった黒猫のぬいぐるみは、ベッドの枕元にちゃんと置かれていた。
 たまに送られてくる景色やホテルのロビー、プールサイドなどは日本と違っていて異国を感じた。そもそもプールに入っていないのにプールの写真って! 泳いでるとこ、見てみたいんですけど? きっとスケートリンクとホテルの往復ばかりなんだろうと予想する。
 そんなことを考えていたら剣崎からメッセージが届いた。
『これからコトブキ行くの? ひとりでしょ、気をつけて! がんばってね』
 菖は今から、夏休みにお世話になるバイト先へ挨拶に行くところだった。時差がキツいと言っていた剣崎は、そろそろ眠たい時間のはず。
『ありがと、剣崎はゆっくりおやすみ』
『自撮り!』
 菖の写真、できれば今カメラで撮って、という意味でおねだりをしてくる。ちょうど玄関にある姿見に向かって、顔と全身を撮って送った。
『ライヴ行く子みたい、可愛い! 僕そういう服も好きだよ』
 パンクスファッションを黒くしたような、ヴィジュアル系ファッションをカジュアルにしたような少し変わった服を着ていた。
『ありがとう、それは嬉しい』
 個性的な服装への理解は極端だと思う。多様性とはいえ、理解してくれない人のほうがまだまだ多い。
『また写真も、今日のことも送っておいてね。サイレントにして寝るから気にせずガンガン送ってね』
『わかったから寝ろ』
『うん、おやすみ、あーやーめ!』
 メッセージはたまに交換日記のような、剣崎が寝たり練習しているあいだにゆっくり近況報告をする形にもなっていた。
 剣崎からの長々とした報告はない。練習初日、スケートの技の成果のようなものが送られてきたが、さすがにやめようという話になった。あたしがスケート詳しかったら聞いてあげられたんだけどなぁ。ごめんよ、剣崎。
 でも何かあるとメッセージを送ってくれる。『母さんが街へ出て迷子になったらしい、無事リンクに到着』とか。『白米が足りない』とか。長時間ではないが、通話もする。
 歩乃香は「海外ギャルとアクシデントが起きるかもよ」なんて不吉なことを言ってきた。不安にさせないように気遣ってくれてる剣崎が、そんなことをしないと思う。
 海外ギャルねぇ……菖は異国の地に立つ剣崎を思い浮かべた。海外ギャルとのアクシデント? アバンチュール? それが剣崎のためになるのなら、負けを認めるしかない。


 錆びついた扉を開いて少し歩くと、チケットブースやロッカーエリアに続く道がある。誰もいなくて薄暗い。一番奥の重すぎる二重扉をぐぐっと押し開けた。冷気とともに機材をセッティングする音が聞こえてくる。
 今年に入って初めて、ここに来た。客電で明るいフロアをぐるっと見渡す。スタッフ数名がステージにマーシャルのアンプを慎重に運んでいる。
「菖ちゃん、久しぶり」
 ドリンクコーナーの中からリンさんが小さく手を振って微笑んできた。思わず駆け寄ってしまう。
「お久しぶりです!」
「半年も会わないと、すっかりお姉さんになるものねぇ。そこ、座って。ドリンク、いつものでいいでしょ?」
 ふたつ並んだ折りたたみ椅子を指差して、プラカップに注いだコーラを出してくれる。菖はお礼を言ってコーラを受け取り、椅子に座った。
 ここはコトブキの繁華街を一本奥に入ったところにあるライヴハウス、MAD。マッドは、狂った、という意味。でも本当の名づけた意味は、また違う。
「ちょっと待っててね、書類とか持ってこなきゃ」
「はーい」
 細くて綺麗なリンさんは、父の妹、すなわち菖の叔母だ。20代にも見えるくらい若いが、計算すればもう40代だったはず。倫子(のりこ)と呼ぶのは菖の両親くらいで、倫という字からリンと呼ばれていた。
 幼稚園のときに毎夏、オフィーリアのプールによく連れていってくれた人がこのリンさんだ。特製チキンラーメンの人。あの頃のリンさんは、オフィーリア近くの八幡駅前に住んでいた。
 思えば夏休みの前から2か月間くらい、預かってくれていたんじゃないだろうか。
 当時リンさんは水商売のママをしていた。毎日毎日、綺麗なお姉さまたちが家に来ていた。時折、その中のこどもたちも預かっていたのだろう、一緒に遊びながらお世話したりされたり。たまに男性も来て、お年玉のようにお小遣いをくれた。
 その中のひとりがリンさんのパートナーだと知ったのは、小学校に入ってからだった。
 雇われママをしながら息子たちを育て、落ち着いた頃に経営側に回った。水商売の店舗を増やして手広くやる中、ライヴハウスもオープンさせた。余裕が出てきた今は、住処(すみか)にも近いMADを仕事の拠点としている。
「オーナーなんて呼ぶ人もいるけど、スタッフとか馴染みある子はみーんな変わらずリンって呼ぶわ。菖ちゃんもそう呼んでね」
「わかりました、リンさん!」
 小学校高学年くらいだろうか、父に連れられて初めてMADに来た。ライヴハウスという場所に来たことが初めてだった。そしてあのリンさんが、夕方なのにドレスや着物を着ていない! お休みなの? 最初は驚いたが、おへそが見えそうな小さなTシャツにスキニーデニムでライヴハウスを切り盛りしている姿も、すごくすごくかっこよくて綺麗だった。
 以来、菖はMADに入り浸るようになる。ここで様々なジャンルのライヴを観てきた。中学2年生の頃には、ドリンクコーナーで氷を入れたりプラカップを渡したり、自然と手伝うようになっていった。たまにお心遣いも貰ったが、そんなことよりも楽しくてすすんで手伝っていた。
「常連さんたちにね、菖ちゃんがここでバイトするかもって言ったら、すっごく喜んでてねぇ」
 リンさんから『高校忙しい? 夏休みになったら遊びに来ていいからね。バイトするのならMADでお願いよ』とメッセージが届いたときには本当に嬉しくて、二つ返事で引き受けた。
「バイトしようかどうしようって感じだったんで、めっちゃ嬉しかった! です!」
 最後にリンさんと会ったときは、剣崎とのデートで着ていた服を買ってもらったクリスマス頃だった。父と菖と、途中からリンさんも加わってショッピングをした。新作の春物が並ぶ場所に置かれた赤チェックのセットアップを、菖に似合いそうだと見つけてくれたのはリンさんだった。
 それからあたしは高校の推薦だったり、中学卒業だったり、あっという間に入学やらなんやらで、パパも帰ってこねーし、リンさんに連絡する機会をすっかり逃してしまってたのだった。
「そんな堅苦しくしなくていいから。ところでまさか、兄ちゃん、まだ帰ってない感じ?」
 リンさんの「兄ちゃん」はパパのことだ。あたしはわざと怒ってる顔をして、何度も頷いた。
「ミサキとは東京で会ってんのよ? んもー、今から電話してあげる」
 パパからのたまにくる連絡はメッセージがほとんどで、いきなり電話ともなると少し焦る。どうしよ?
 焦る菖のことなどおかまいなしにリンさんはスマホで電話をかけた。
「もしもし? 兄ちゃん? 今ね、菖ちゃん来てんの。MADに。そう、家じゃない、MADに。で、バイトしてもらうことにしたから、許可の電話してんの。違うって、MADでだってば。キャバじゃないって。うん、だから高校生のバイトは保護者の許可いるの。そうよ。うん、うん、うん、わかった。菖ちゃんに代わる」
 そうか、保護者の許可がいるのか。ママには何も話さず来てしまった。リンさんがスマホを渡してきて、話しなさいと目配せしてくる。
「もしもし」
「おう、菖、久しぶり。ごめんなぁ、パパなかなか帰れんくって」
「ほんとだよ、東京にいんの?」
「ずっと東京ってわけじゃないけど、ほぼ東京。仕事だよ、心配すんなって。倫子んとこでバイトするんだって? 本当にMADだよね? ほかの店じゃないよね? ところで菖の高校って、バイトしていいの?」
 そういえばパパは、あたしが高校生になった姿を一度も見てなかったわ。質問が多すぎてうんざりして、一言で済ます。
「うん、大丈夫」
「ママにはちゃんとお金送ってるから、そこは心配するなって」
 そうじゃねーんだよ、当たり前だろ、それは。
「パパ。あたしね、夏休みなんよ。今度、千緒と皐も連れてキャッティパークに行く計画もしとるんよ。皐も連れてくんなら、お金いるやろ? それに服とか買いたいしさ、MADまでの交通費とか、あたしにも色々と事情があんの!」
「あー、皐にも謝っといて。会いたいなぁ」
 呑気なパパに少しイライラしてくる。
「帰ってこなくていいけど! パパ、たまには帰ってきたら!」
「ごめんごめん、もう少ししたら帰る。あ! 菖にもお金振り込んどくから、コトブキまで電車の定期買ってもいいし。あと千緒ちゃんにもよろしくね、皐とも昔からいつも仲良くしてくれとるもんなぁ。千緒ちゃんのご飯代も、そこから出しといて」
 よっしゃ、ラッキー! あたしは少しだけ、おじさんを騙すということがわかった気がした。パパ活の推奨はしないけど。
 ありがとうと伝えて、笑いを堪えたリンさんにスマホを返した。
「自由すぎる兄ちゃんでごめんね」
 電話を切ったリンさんが両手を合わせて謝ってくる。
「リンさんが謝ることやないっす!」
 父からお小遣いをたくさん貰えそうで、菖の苛立ちは帳消しだ。それに話せて良かったとも思った。リンさんのおかげだ。
 その後、時給のことや22時には必ずバイト先から帰ることなどの取り決めをして、書類や誓約書を書くことになった。
 ドリンクコーナーで立ったまま書類を書いていると、どこからか微かに香水のいいにおいが漂ってくる。リンさんが香水でもつけたのだろうと思っていると、においはどんどん強くなってきた。
 ぱっと後ろを振り向くとちょうど扉がゆっくり開かれて、腰くらいまである銀色の髪をなびかせた華奢な男が入ってくる。黒いロングスカートのような服を纏い、優雅な仕草で首を傾げながらこちらを見た。目が合った菖は思わず叫んでしまう。
「ミサキ⁈」
「あ、やっぱり菖だ、久しぶりっ!」
 背筋を伸ばし、ゆったりとしたリズムでコツコツと足音を鳴らしながら菖に近づく。ローズとベリーが混ざったような、濃厚な甘めの香水がよく似合っている。お客さんのいない無機質なライヴハウスに、花が咲いたかのような錯覚を起こさせた。
「でも菖。ライヴハウスではなるべく、ミサって呼んで欲しいな」
「そっか! ごめん、missa、もう有名やもんね」
 菖は思わず、しまったと思い口に手を当てた。その手を取りながらミサは、スカートのようなマントのような黒い布をつまみ、膝を曲げながら深く華麗なお辞儀をする。メイクも何もしていないのに、立ち振る舞いは貴婦人のようだ。思わず見惚れてしまう。
「こんなことするけど、中身はずっとミサキだよ」
 パッと手を離しておどけて見せた。
 missaと名乗るこの男はミサキ、菖の6つ上の従兄(いとこ)でリンさんの長男だ。昔からこのあたりでは美少年で有名で、ゲームのキャラクターに似てるからと「コトブキのセフィロス」だなんて呼ばれたりもした。
 今ではヴィジュアル系バンドのボーカルとしてその世界では有名で、去年の秋から東京を拠点に活動している。メジャーデビューを目論んでいるはずだ。
「あれ? 帰ってきてたの?」
 リンさんがステージから降りてくる。機材の調子を見ていたようだった。
「うん、さっきね。部屋にダイちゃんいないし連絡したら、まだ専門学校、夏休みじゃないんだってね。つまんなーいって思ってたら、菖が今日MADで面接するかもって聞いて、暇だからここに来たってわけ」
 ミサはポケットから取り出した大きめのサングラスをかけ、クルッとその場で回転する。長い銀髪と黒い服が、ふわっと舞い上がった。
「ダイちゃんにも会いたいなぁ」
「あの子もたまにここで仕事するから、そのうち会えるわ」
 ダイちゃんはミサキの弟で、名前はダイキ。Misaki and Daikiの頭文字から、リンさんはこのライヴハウスをMADと名付けたのだ。
 ヤンチャだったミサキと違って無口でおとなしく、顔立ちも女の子みたいだったダイちゃん。ダイちゃんを守るミサキを見て菖は、上の子とはこうあるべきものなのだと育った。
「菖は今日からバイト?」
 ミサがリンさんに訊く。
「今日は面接だけ。前にやってもらってたこととほとんど変わんないから、今日からでもいいんだけど」
「今日はやめといたら? お腹空いたから久しぶりに菖連れて、ご飯食べてきていい?」
 いくら知ってるリンさんの面接とはいえ緊張して、お昼はほとんど食べていなかった。菖はとたんにお腹が空いてきて、見つめてくるミサキに頷き返す。
「じゃ、初仕事は明後日からね。菖ちゃん、よろしく」
「よろしくお願いします!」
 リンさんが差し出してくれた右手をそっと握り返した。その上にミサが手を置いて、なぜか「オーッ!」と叫んだ。
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