003 キューバリブレ

文字数 4,780文字

 帰宅した菖はただいまの挨拶もそこそこに、自分の部屋に入ってベッドに身体を投げうった。ぼふっとした音とともに、近くの抱き枕を引き寄せる。
 なんなんだ、あいつ……!
 鋭い目をした剣崎の顔がよぎる。
 キザ! ナルシスト! ばか! ばかばかばか!!
 今度は眉を下げて笑う剣崎の顔がよぎる。あたし、おちょくられてる?!
 抱き枕を叩きながら顔をうずめ、両足をバタつかせながら特進科教師室で起きたことを思い返した。
 ――キミがもしまた酷い目に遭ったなら、僕は我慢できないかもしれない。
 顔が熱くなる。菖に発した、剣崎の言葉。
 力強い手、それにあの目。青白い肌に小さな顔が人形のように整っていて、赤みを帯びた唇から出る言葉はテレビドラマの台詞のようだった。
 剣崎の謎の勢いに加山と曽部は呆れながら「我慢しろ」と、ちっとも解決にならないアドバイスを繰り返した。
 圧倒されたあたしまで、「もしまたこんなことが起きても歯向かうな」「すぐさま先生を呼びに来い」など、なぜか剣崎より多くの注意を食らった。歯向かわないわけがない。
 ああでもないこうでもないと話しているうちに、剣崎は練習があるからとあっさり帰った。驚くぐらい、さらっと。
 その後、体育教師たちや教頭先生までが入ってきて、騒動を起こした男子7人全員の謹慎処分を決めたと報告があった。
 謹慎か、つまらん……。ふと時計を見ると、いつの間にか下校時間だった。結局、数学は出られんかったな……。
 忙しくなった先生たちに挨拶をして廊下に出ると、「大丈夫だった?!」と千緒が駆け寄ってきた。心配で待ってくれていたらしい。
「剣崎が授業を受けるようになってからね、スポーツ推薦のあいつら、なーんか剣崎のこと気に食わないみたいでさ。地味な嫌がらせが起きとったんよ。今日はひどかった。菖、ありがとね」
 荷物を取りに教室に向かう途中、千緒がお礼を言ってくる。
「あのさ、千緒。あたし、あのコーラ大好きやん? お菓子とかもさ、あれはひどいやろ。もったいなくて怒ったんやよ?」
「でも! 本当に、ありがとう」
 たしかに人の机にぶちまかしてることにも腹は立った。でも、誰かのために動いたのかと言われると、わからない。いつもみたいに勝手に身体が動いていた。
 もしかすると学級委員の千緒は、前から色々と考えていたのかもしれない。
 剣崎を思い浮かべる。なよなよしていそうな雰囲気と、強気の発言のギャップ。スポーツ推薦組が剣崎を標的にしたことが、少しわかる気もする。
 だからといって何をしてもいいわけではない。菖は虐めや嫌がらせが大嫌いだった。
「あいつ、ちょっとだけプライド高そうやし、もしかしたら反感買ったんかもしれんなぁ」
「え、剣崎が?」
 信じられないといった顔の千緒を見ると、普段はそんなことを感じさせないのだろう。
「キザやったよ、なんか」
 思わず、思い出し笑いをしてしまった。
「なになに? 仲良くなったん?」
 ニヤニヤしながら千緒がまとわりついてくる。
「わからんわからん、わからんけど!」
「ちょっと教えてよぉ!」
 そしてあたしは千緒に、剣崎とのことを話しながら、一緒に帰ってきたのだった。
 スマホが鳴る。さっき別れた千緒からのメッセージだ。剣崎についてまとめられたサイトのURLと、スケートをしている姿の画像が添えられている。
 黒い細身の衣装で、指先までしなやかなポーズをとる剣崎。
 世界で戦えるスケーターさん、だね。あたしはまた笑ってしまう。
 寝転びながらサイトを読んでみた。中学生最後の試合、フィギュアスケートのジュニア部門で世界一になったこと、最年少記録を打ち出したこと。
 茶化してしまった自分を少し後悔した。本当に剣崎は、世界的なスポーツマンなんやん……。
 読んでいくと、端正な顔立ちでファンが多いことや、課題は体力不足だと書かれている。
 あれだけ細けりゃな……さっき触れた、剣崎の手を思い出した。自分の手を見る。急にまた恥ずかしくなって、ドキドキして、枕に顔をうずめる。
 剣崎望夢。学校よりも、大切なことがある人。あたしが絵を描くことなんかよりずっとずっと、すごいことを成し遂げてる人。大きな夢がある人。カモの赤ちゃんかと思ったら、白鳥さながらの同級生。
 また話してみたい。そう思いながら、部屋を出て冷蔵庫のコーラを勢いよく開けた。


 菖の思いとは裏腹に、あれから剣崎は登校していなかった。
 随分と剣崎について調べた。試合の様子も動画サイトにアップされていた。フィギュアスケートは衣装も相まって、とても華やかなスポーツ競技だった。
 感心しながらもどこかまだあの剣崎だという実感がなく、調べた剣崎望夢という人物は遠い世界の人のように思えていた。
 自分なんかとはまったく違う世界の人種だ、と。
「久野、放課後な、ちょっと先生んとこ来いー!」
 昼休みに入ってすぐ、廊下から曽部の声が飛んでくる。菖は教室で同じクラスの歩乃香(ほのか)たちと、お弁当を広げていた。
「えー? 曽部ちゃん、なんでー?」
 開かれたままの扉越しに、大声で訊いてみる。廊下は食堂に向かう生徒もいて騒がしかった。
「いいから、後でな」
 曽部は手を振り立ち去った。後頭部の寝癖が、まだそのままである。
「菖、また何かしたの?」
 学年一の美女と囃し立てられている歩乃香が、小声で訊く。高校生らしからぬ大人っぽさで、夜のお店の綺麗なお姉さんに見えなくもない。
 お弁当の蓋を開けながら、菖は少し焦る。
「なんもしてへんって! あ、もしかしたらこの間、曽部ちゃんにオッケーもらったデザインコンテストのことかも?」
 美術科の中でも菖はグラフィックデザインを軸に勉強していた。水張りしたパネルにアクリルガッシュで丁寧に描いたデザイン画や、何色ものペンを使って描いたA4サイズのボードなど、いくつか曽部にゴーサインをもらっていた。
「あー、じゃあそれかもね。菖、頑張ってたし」
 少し残念そうな声で、歩乃香が笑う。菖は両手でガッツポーズをして、得意気に喜んだ。


「え? そそそ、曽部ちゃん?」
 放課後、真っ先に美術科教師室に向かうと、なんとそこには剣崎が座っていた。
 菖は驚いて、奥の教員用の机に座る曽部を見る。
「おう。剣崎がな、おまえに会いたいってよ。加山先生に頼まれたんだ、久野を呼んでやってくれって」
 会いたい?! 一瞬だけ止まってしまう。
「ちょ、ちょっと待ってよ、曽部ちゃん! あたしのコンテストは? 受賞したんやないん?」
「なーに言うとるか」
 書類を整頓しながら「結果はまだ出とらん」と曽部が呆れた顔をした。剣崎はソファに座って、口に手を当ててケラケラと笑っている。
「笑ってんじゃねえよ! おまえもなぁ、だったら学校来いよ」
「ふふ、僕が学校来てなかったの、知ってたんだ?」
 両手を口元に当てたまま意地悪そうに上目遣いで笑う剣崎に、菖の鼓動が早くなる。「はあ?!」と大声を出しかけたとき、曽部が割って入った。
「剣崎はなぁ、これから海外も拠点にしてスケートに専念するんだと。すごいよなぁ」
「海外?」
 思わず剣崎を見る。
「うん、カナダと日本でね」
「もしかして学校、辞めちゃうん?」
 この間も海外って言ってた……菖はなぜだか急に、さみしい気持ちになってしまう。
「そう思ったんだけどね。ここなら、辞めずにいられそうかなーって」
 剣崎が立ち上がり、はにかみながら菖の正面に立つ。黒いTシャツの上に羽織った、白い半袖シャツの胸ポケットから何かを差し出した。
「はい、僕の連絡先」
「えっ?!
「嫌なの?」
 長めの前髪から覗く強い眼差しが、菖に刺さる。すべて見透かされているようだった。
「い、嫌じゃないけど……」
 おそるおそる小さな紙を貰う。剣崎の細い指先が、菖の指に当たる。
 紙を見ると、直筆で名前とスマホの連絡先が書かれていた。
「綺麗な字」
 思わず声が出る。男子にはあまりいない、お手本のような美しい文字だった。
「久野、剣崎はなぁ、頭もものすごくええんやぞ。特進科2クラスあるだろ、そん中でもほぼトップ!」
 曽部の言葉に思わず菖は目を見開いて、剣崎の白く細い腕を掴んだ。
「そうなの? すごいやん! ねぇねぇ、やっぱ頭いいとさ、理数系なん?」
「うん? まぁね」
「すげぇ!!」
 わはははは、と豪快に笑う菖を見て剣崎も思わず笑顔になる。曽部も笑いながら、
「おまいら、もう帰りぃ。基本、男女交際は学校の外でやれい」
 教師室からふたりを追い出した。
「呼んどいて追い出すとか、曽部ちゃん、ひどーい!」
「曽部先生、今日は本当にありがとうございました」
 剣崎は律儀にしっかりと頭を下げる。ぐずる菖を廊下に押し出した曽部が、「じゃあな」と扉を閉めた。
 急にふたりきりになると、どうしていいのかわからない。自然と、校舎の外に出るために廊下を歩く。
 隣を歩く剣崎は、あたしより頭ひとつ分くらい背が高い。透き通るような肌の白さ、腕や腰の細さに驚いていると、剣崎と目が合う。
「久野さんは、男女交際してるの?」
 菖の顔を覗き込んで、また意地悪そうな顔をしてきた。サラサラと前髪が揺れている。
「し! してねぇし!」
「そっか、ふはは、よかったぁ」
 剣崎は子供のような笑顔を見せた。
「あ、あのさ剣崎」
 菖は、背負っているリュックの肩ベルトをぎゅっと握りながら、足を止めた。
「うん?」
「あたし、あれが剣崎の席なんて知らなかったんよ。こんなことおかしいって、お菓子とかアイスクリームとかさ、コーラもあたしが昔から大好きなやつでさ。それで、ひどいこと、やめさせたかっただけなんよ」
 前に説明しそびれたことを話した。うまく説明できてるのか、わかんない。でも、言わないと。
「だからね、剣崎を助けたわけやなくて……」
「知ってるよ?」
 遮るように剣崎は言う。
「それでも僕は、嬉しかったから」
 菖の顔を一瞬見て、剣崎はまた歩きはじめた。勘違いされてなかったことにほっとして後ろを歩くが、なぜだか恥ずかしくなってくる。
 あっ! と、剣崎が振り返った。
「コーラって、あのコーラ? 赤に水玉の」
「そうそう、それ! 昔からあるあのコーラ! 大好きなんよ!!
 思わず菖は飛び跳ねた。
「僕も大好き! 小さいときはね、たまにアイスクリーム乗せて食べるのが、幸せだったの!」
「やるやん! おんなじことしてたわ!」
 ふたりで顔を見合わせて、大笑いする。
「そうだ、このあいだね、海外遠征でご飯食べに行ったとき、お酒が出てきたの。僕のじゃないよ? それがね、コーラが入ってるお酒だったの! 知ってる? 確か、キューバリブレって名前だったんだよ」
「キューバ、リブレ? なんそれ、キューバ行ってきたん?」
「違う、違う」剣崎は手を振りながら、お腹を抱えて笑っている。
「どこ行ったん?」
 馬鹿にされてるような気がして、菖は剣崎の腕を揺する。
「そのときはね、アメリカ!」
「アメリカ? すごっ! アメリカってさ、ハンバーガーとかいろんなもんデカいって聞くけど、実際どうなん?」
 海外に行ったことのない菖は興味津々だ。
「デカいよ! ハンバーガーもコーラもポテトも、こーんなにデカいっ!」
 食べきれないんだよ、と両手を広げる剣崎のオーバーリアクションに、菖もお腹を抱えて笑う。
「ぎゃはははは! 羨ましすぎる! ねぇ、写真ないん? 見せて、見せて」
 よく考えたらポテトはデカいんじゃなくて量だろ! あたしは楽しくなって、剣崎にツッコミながら歩く。
 校舎の外に出る手前まで来ていた。ちょうど階段下のスペースに自販機がある。菖は駆け寄ってラインナップを確認し、手招きする。
「剣崎! 来て! コーラあるよ!!
「よし、乾杯するかぁ!」
 菖と剣崎は大好きなコーラで乾杯をした。楽しくて笑いすぎて、乾いた喉に格別なコーラだった。
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