010 結ばれたリボン

文字数 5,752文字

 恥ずかしくなってきた、そう思ったら落ち着いてきて涙も少なくなってきた。大声で泣いてしまったことも、今ここで剣崎に抱き締められて慰められていることも、暑さのせいかくらくらしてきて夢のようだ。恥ずかしい。夢であってほしい。
 そう思いながら菖は剣崎の腕の中で目を閉じた。剣崎のゆるめのオーバーチュニックを涙と汗で濡らしてしまった。ごめんね、と心の中で謝って胸元の部分に手を添える。心臓の音が聞こえる。
 自分の腕を剣崎の身体に回すことなんて、考えられなかった。恥ずかしすぎる。
 こんなに人前で泣いたことも初めてだった。
 一緒にいたいって言ってくれたことが、嬉しかった。
 剣崎が髪を撫でながら、肩をさすってくれる。潮のかおりと波の音がさらにリラックスさせてくれて、このまま剣崎を押し倒して寝転びたかった。堤防のコンクリートでそれはさすがにできないな、なんて考えてしまう。
「菖、落ち着いた?」
「うん……ふはっ、ありがとう」
 目を閉じたまま恥ずかしさのあまり、剣崎の胸元でにやけて笑ってしまう。
「今のうちに話しておくけど」
 剣崎の声に目を開けた。海を見る剣崎の首筋が骨張っていて綺麗だ。長めの後ろ髪が揺れている。
 菖が少し起き上がったことを確認した剣崎は腕を少し緩め、ペットボトルの水を勢いよく飲んだ。口元からこぼれる水が、その首筋に流れる。菖は思わず口を這わせようとしてしまい、慌てて指で水を触った。
 剣崎が飲みかけのペットボトルを渡してくれる。迷いもあったが、そのままありがたく飲む。泣いた喉に、水がごくごくと流れていく。美味しい。飲んでいると、新しいペットボトルを開けて交換してくれた。剣崎は残った水を一気に飲み干した。
「夏休みに入ったらすぐ、カナダへ行かなきゃいけない」
 剣崎の片脚が菖の背後にきて、腕は離れながらも菖のどこかに触れていた。
「言ってたね、前に」
 あれから1か月も経っていないのに、昔の出来事のような気がしてしまう。
「夏休み中、ずっと?」
「終わる頃には帰る予定。毎日、連絡する。時差もあるし忙しいかもしれないから、電話はあまりできないかもしれないけど」
「それだけで嬉しいよ」
「だって僕、菖くらいしか連絡したい人いないもん」
 菖は思わず笑ってしまう。
「だからね、菖も必ず連絡してね?」
「わーったよ、仕方ねぇな」
 内心とても嬉しく思う菖は、もう元気な自分を見せたかった。泣いてばかりいられない。
 剣崎はずっと一緒にいられないことを謝ってきた。そんなこと、謝るようなことじゃない。家族ですら常に一緒にいられるわけじゃない。常に護衛でもつけない限り誰かが守ってくれるなんてないし、そんなこと思ってもない。
 真剣に謝ってくれた剣崎を思うと笑ってしまうが、そんな真剣さが身に染みて嬉しかった。
 誰にでもこんなに優しいんかな? と少し気になってしまい、吹き飛ばすように菖は立ち上がって叫んだ。
「でも、一緒にどっか行きたかったなー‼︎」
 剣崎も立ち上がり、少し困った顔を見せて海を眺めた。


「あ、そうだ」
 しばらくふたりで海を見ていると、剣崎がしゃがんでボディバッグの中から「あげる」と袋に包まれたものを渡してきた。プレゼントのようなリボンシールが貼ってある。
「え、なにこれ!」
 もう一度ふたりで堤防に座る。
「先月、誕生日だったでしょ? なんかお祝いしたくって」
「えええええ? ゴールデンウィークなんてまだ知り合ってもないやん!」
「お祝いしたかったって話してたら篠宮さんが、デート行けって言ってきて」
 剣崎は照れくさそうに頭を掻いた。そういうことだったのか、あの突進してきた千緒ピヨ……!
「来年は絶対、お祝いさせてね」
 満面の笑みで言ってくれる。嬉しい。袋をそっと開けると、透明のスマホケースだった。
「あっ! これって?」
「そう、僕とお揃いだよ」
 剣崎がスマホを持って見せてくる。
「スマホケース変えたんやなーって思っとった! ありがとう‼︎」
 透明の箱の中に入っているスマホケースは、散りばめられたホログラムでキラキラと光を放っていた。
「わあ、綺麗! すごい! ほんっとにありがとう!」
「透明だから写真とかシール、入れられるでしょ?」
「うん! 剣崎との写真は、さすがにだめかぁ」
「いいよ、入れても。ただ僕は入れられないからなぁ。僕はあの、さっきのクマのシールとか入れようかな?」
「クマじゃねえよ、キャッティパークの猫や‼︎」
 ツッコミながらパシッと剣崎の腕を叩く。
「やば、暑さでやられてんのかな?」
 そう言って剣崎はまた水をごくごくと飲む。菖も慌てて保冷剤を替えさせて、さらにいくつか渡した。
「あとさ、もうひとつプレゼントっていうか、その……」
「ん? まだあるの⁈」
 誕生日過ぎたのに貰いすぎだよ! 菖は、いらないいらないと手を振ってしまう。
「お互いのスマホに、緊急連絡先として登録しない?」
 剣崎は菖のスマホを指差した。緊急連絡先って、親になってるけど?
「親以外もできるん?」菖はスマホを剣崎に渡した。
「できるよ、触っていい?」
 うん、と頷いて一緒に画面を見る。
 連絡先アプリの中から【剣崎】と登録した欄を押して、自分で剣崎望夢と書き直した。見ている菖は少し笑ってしまう。
 知らなかった住所や自宅の電話番号、家族構成まで色々と打ち込んでくれる。そして最後に、緊急連絡先として登録してくれて【剣崎望夢】の横に赤いアスタリスクがついた。
「これでもし菖に何か起きたら、僕に連絡がいくことになるかもしれない。それでもいい?」
 菖は何度も頷いた。同じように菖も剣崎のスマホに登録して、緊急連絡先のマークがついた。
 これで剣崎に何か起きたら、菖に連絡がいく。……そんなことになって剣崎こそ大丈夫なんだろうか?
 しかしこれは、剣崎の発案だ。心配してどうにかしようと考えてくれた気持ちが伝わってくる。
 隣の剣崎と目が合って、笑いかける。
 剣崎も嬉しそうな顔をしていた。菖の髪を撫でながら、「さっきSNSのIDも打ち込んでおいたから、フォロリクくれない? 昨日アカウント作ったんだぁ」なんて身体を揺らしながら、ワクワクしていた。
「おい、本当の目的はそれかあ?」
 ふたりで大笑いする。
 空はオレンジ色に変わり始めていた。海風も少しずつ涼しくなっていく。
「菖、夜ご飯も一緒に食べよっか」
「やったー、わーい!」
 カモの赤ちゃん、と言いかけて菖は慌てて口を噤んだ。


◇◇◇

 菖はすっかり元気で、でもきっと強がっているんだろうけど、楽しんで歩く姿はさっきまで泣いていたなんて思わせなかった。
 頼んでいたイベントブースでキャッティパークのお試し猫をもらう。結局、僕の分(菖イメージの猫)は菖が払ってくれた。「だって交換だもんね」とかお会計のときにうるさくて、ほんとにこの頑固女は……と思いつつ、そういうところはしっかりしてるんだなと泣き顔の菖と比較して感心した。スマートに奢ってあげられる男になれなくて情けない。
 少し早めの夜ご飯として、本格的なハンバーガーが楽しめるアメリカンダイナーに来た。お昼に検索していたら見つけて、菖がファストフードのことを話してきたから忘れられなかった。
 僕の喉も、水だけじゃ足りなくなってきた。
 今日は食べちゃお! コーラも飲もう! だなんてふたりで盛り上がる。
 メニューに載っていたダブルチーズバーガーのとろりとしたチェダーチーズを見て、菖もこれにすると決めた。
 電飾に囲まれた店内はところどころレトロな看板や自転車が飾られていた。古びた革のソファに身体を預けて、コーラで乾杯する。菖はコーラを飲みながら、2匹の猫のぬいぐるみをテーブルに並べて写真を撮っていた。
 保冷剤のおかげで熱中症にはならなかったけど、ちょっと疲れたな……手を広げて大きく伸びをすると、スキニーパンツのポケットに違和感を感じた。
「あ!」
 菖の赤チェックのリボンだった。「ほどけそうだったから」とリボンを渡すと、菖は僕の手首に何回か巻いて結んだ。
「あげる」
 僕の手の甲を優しく、ちょんちょんと触ってくれる。そして僕の手首の前に猫のぬいぐるみを置いて、撮影を始めた。
「あっ、いいこと考えた」
 と言って僕の手首からリボンをほどくと、菖は自分に似せたほうの黒猫のぬいぐるみの首にリボンを巻きはじめる。紫の目で、口を開けた黒猫。あっという間にリボンが結ばれて、大きめの蝶ネクタイをしているようにも見えた。菖は満足して「可愛くね⁈」とまた撮影している。2匹並んでいると本当に可愛くて、僕もたくさん撮った。
「ちゃんと可愛がってね?」
 少し心配そうな顔をする菖に、「僕のほうもね?」と青い目の黒猫のぬいぐるみを撫でた。
 店員さんが「あら、可愛いわねぇ」とダブルチーズバーガーを持ってきてくれて、黒猫のぬいぐるみは端に追いやられた。


 帰りの電車は一緒に座ることができた。
「ねぇ、あのアメリカンダイナーまた行こ! バーガーも旨かったし、ポテトもホクホクで最高やったわ! めちゃうま!」
「行こうね、雰囲気も良かったしね」
 菖は美味しくてボリュームのあるハンバーガーにご満悦だった。
「なんでハンバーガーとポテトとコーラって、あんなに合うんやろか」
 腕組みしながら一生懸命考えている。
 ちなみにアメリカンダイナーでのお会計は、店内で写真を撮る菖を置いて僕が払うことに成功した。もちろん気づいて怒ってきたので、次にまたデートしたときお願いねとあしらった。少しはスマートにいけただろうか?
「今日、楽しかったね」
 菖は僕の顔を見て頷いた。
「泣いた菖も見られたしね」
「言うなぁああ!」
 すぐさま菖がぽかぽかと両手で僕を叩いてくる。手を止めさせながら、
「どんなときも菖はそのままでいいし、僕も一緒にいる」
 そう伝えると菖は赤面しておとなしくなった。
「……ありがとう」
 僕にできることは何もないのかもしれない。菖の苦しい気持ちとか、異性に対して気持ち悪いと思うこととか、異性の僕じゃ払拭できないかもしれない。それでも、僕にやれることがあるのならしてあげたいし、そばにいたい。
 肩に頭が当たる。菖があの中庭でそうしてきたように、僕の肩にもたれかかってきた。でも今日は、笑顔の菖だ。
 すっかり日が暮れた窓に反射する僕は、口元が完全に緩んでいる。そんな僕に気づかない菖は、もたれながら「この写真いいねぇ」なんてスマホを見ていた。
 夏休みにカナダへ行くことが億劫に思えてくる。このまま菖と一緒に遊んだり勉強したりして過ごしたい。どこか一緒に行きたかったと叫んだ菖に、水族館でもどこへでも連れていってあげたい。ふたりで逃避行したら楽しいだろうな。なんて考えたけど、僕は首を横に振った。
 逃避行なんてしたら、心の底から何も楽しめない。
 それに高校生らしい夏休みデートもしてあげられない僕は、いつか菖にフラれるかもしれない。
 菖が降りる双葉駅で、電車内でバイバイして別れる。僕は降りるつもりだったけど、菖が「そのまま乗ってろ」と頑なに拒んだ。住んでるマンションをこのあいだ見たから、駅から近いこともわかっている。ご厚意に甘えさせてもらった。
 電車が見えなくなるまでずっと手を振ってくれていた。
 ひとりで電車の揺れにウトウトして、少し寝てしまう。そのあいだに菖から帰宅したとメッセージが届いていた。
 帰宅すると、母さんに「ご飯どうする?」と訊かれる。夜ご飯の時間も過ぎていて、父さんがテレビを見ながら晩酌していた。
 ハンバーガーも食べたけど、何か口にしたい気もしてきた。
「とろろご飯にしてたけど、お蕎麦もあるわよ」
「じゃあ、とろろ蕎麦いただこうかな!」
 僕は服を脱いでタンクトップ姿で父さんの隣に座った。ビール缶は2本目に突入している。
「学校の友達と、ご飯食べたんじゃなかったのかい?」
 父さんは赤くなった顔で漬物を食べた。
「食べたんだけどね、もう少し食べようかなって」
 少食な僕はなかなか体重を増やせず苦労している。食べられるときに食べておきたかった。
「望夢、栄養のことも大事だけど無理はしないこと。あと友達となら何を食べたっていいんだからな。少しくらい、気にすることはない」
「うん、ありがと。久しぶりにジャンクなもの食べたよ、美味しかった」
 くっくっくっと父さんが笑う。
 母さんがお茶と、冷たいとろろ蕎麦、豆腐と人参の天ぷらを持ってきてくれる。
「遊びに行くってこんな時間まで、デートだったんでしょー」
 お茶を飲んでいた僕は思わず咽せてしまう。これじゃ、菖みたいやないか! と話し方まで心の中で真似してしまう。母さんはルンルンで、おぼんを持ったまま座布団に座り僕の顔を見る。
「デートっていうか」
「女の子となら帰り道、ちゃんと送ったか?」
 酔っているのに父さんの心配はそこだった。電車内で別れたけど、送ったよという意味を込めて蕎麦を啜りながら頷く。
 母さんは根掘り葉掘り聞きたそうだったけど、父さんが止めてくれた。「母さん、望夢も年頃なんだ」そうだ、そうだ! 聞いたか、年頃なんだぞ。
「ええー。聞きたかったな。お母さん、応援しちゃおーっと」
 だからそれがいらないんだってば! 僕は母さんを完全に無視して、一心不乱に蕎麦を啜った。
 それでもこの両親に、スケートも何もかもを応援してもらっていることにすごく感謝している。
 食べ終わった後、ゆっくりスマホを見た。菖からのメッセージの中に、夜まで一緒にいられたことも嬉しかった、と書いてあった。たしかにスケート以外で、夜まで誰かと一緒にいたことなんて初めてだ。
 夏休みはお祭りや花火で夜の遊びも増える。きっと菖は、そういう場にも遊びに行くだろう。そこに男子がいたりなんかしたら嫉妬心しかない。行きたくて行くカナダへのスケート練習が、憎く思えてくる。大好きなスケートを憎く思う日がくるなんて。
 きっと菖はこれからも、僕にとってありとあらゆる経験の初めての相手になるんだろう。喧嘩までして注意してくれたことから始まって、初めてづくしだ。
 大袈裟だけど、将来の金メダルか今の菖か、天秤にかけそうになる。天秤にかけられないのなら、どちらも手に入れるしかない。
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