004 ふたりの気持ち

文字数 4,671文字

 剣崎がくれた白い小さな紙は、名刺のような少し厚みのある紙だった。
 部屋のベッドに転がった菖は何度も何度もその紙を眺める。今日はちゃんと、半袖とショートパンツのルームウェアに着替え済みだ。
 名前と連絡先が書かれているだけなのに、なぜか胸がいっぱいで苦しいような、ワクワクするような、よくわからない感情が渦巻いていた。
 お互い大好きなコーラで乾杯して、海外やスケートの話、ゲームの話まで盛り上がった。剣崎が好きなゲームはいくつか弟の(さつき)も遊んでいるゲームで、一緒にやらされていたから知っていた。
 あいつ、あんなに面白い奴やったんや。意気投合して1時間も話し込んでいた。あっという間だった。
 時間が経っていることに驚いてふたりで駅に向かうと、剣崎の乗る電車は反対方面だと言う。訊くと、家はかなり遠い。練習場にしているスケートリンクが南陽高校の隣の八幡駅近くにあって、それでこの学校を選んだと教えてくれた。
 剣崎と話していたら思い出したことがあった。小さい頃、そのスケート場に行ったことがあったのだった。
 厳密にいうとそこは、夏季のあいだはプールに変わる場所で、何度も泳ぎに行っていた記憶のほうが多い。スケートは一度しか遊んだことがなかった。
「スケートやったことあるんなら、いつかオフィーリアで一緒に滑ろうよ」
「えー、昔の話やでなぁ」
 その昔オフェリアと呼んでいたプールは、年中スケートができる施設に変わっているとのこと。オフィーリアスケートリンク、という名称らしい。
 オフィーリア。ミレーの絵画から名付けられたのだろうか? 色彩豊かな花々が浮かぶ水面に、横たわるような姿で描かれた、溺れ死ぬオフィーリア。
 綴りの問題でオフェリアとも読めるから、きっとその部分は昔から変わっていないのだろう。しかしプール時代にその名は、とても縁起の悪い恐ろしい名前なのでは? うわぁ……少し身震いする。
 剣崎の誘いにも困った。運動は苦手だし、思い出の中のあたしも氷上におしりをついて半泣きしていた。
 スケートはこっちに越してきてから遊んだと思う。小学1年生くらい。その一度だけのスケート経験は、ほぼゼロに等しい。断言できる。上手く滑れなくて余計に、再び行くことはなかったのだろう。
 プールで遊んだあの頃はまだ東京の幼稚園に通っていて、夏休みにこっちの叔母の家に滞在していたときだ。
 大きな長方形のシンプルなプールで、遊び場やスライダーなんて何もないところだったけど、休憩中に従兄たちと食べたアメリカンドッグやポテト。帰宅して食べた、叔母が作ってくれる半熟卵と挽肉が入った特製チキンラーメンの、それはそれは美味しかったこと!
 なんだか色々と、懐かしい。
 ……剣崎は練習の真っ最中だろうか。あたしはベッドの上で、体育座りをする。
 迷った末に、『久野菖です。さっきはめちゃくちゃ楽しかった、ありがとう』と簡単にメッセージを送った。
 夜10時頃、返信がきた。『練習終わったよ』スケートリンクで笑っている、黒い練習着の剣崎の画像が何枚か送られてきた。『他の人には見せないでね』
 氷の上を滑りながら、自分で自分を撮って笑っている。リラックスした屈託のない剣崎の笑顔はとても可愛くて、思わず目を細めた。


◇◇◇

「お母さんは学校辞めてもいいと思ってるからね」
 オフィーリアでの練習を終えて電車で帰ろうとしたら、母さんが車で迎えに来てくれていた。部屋着姿だったから館内に入らず車内で待ってくれていたのだろう。
 夜の空いている道路を、窓を開けて走る。6月の生ぬるい風が心地良い。そう、スケートリンクの寒さと汗で身体が冷えるのだ。
 助手席に座る僕は、残しておいたコンビニのツナおにぎりを頬張り、食べることに忙しい振りをして聞き流す。
「嫌な思いして行く必要ないでしょう? 望夢にはフィギュアスケートという人生があるんだもの。まぁ、お父さんは許さないでしょうけど」
 父さんは昔から「将来の為に、スケートだけじゃなく勉強もちゃんとしなさい」と言う人だった。真面目で規律正しい父さんは、役所勤めで平日は忙しい。
 車で飛ばしても家に着くまでにまだ30分はかかる。片手で器用に、足元に置いたリュックから参考書を取り出した。
「僕が高校行くって決めて、学校も決めたんだからいいの」
 おにぎりを食べ切ったついでに答える。
「確かに勉強しておいて損はないわね。でも、嫌がらせに耐えるのももう大変でしょ。それに望夢、キレたら怖いし嫌なのよ。もし他所様に迷惑かけたら……」
「何もしないって!」
 運転席の母さんを睨む。母さんも僕を横目で見た。
「だってこの間は、女の子が危なかったんでしょう?」
 心の中がチクッとする。
 嫌がらせは母さんにも少し話していた。久野さんが注意して揉めた件は、学校から母さんに報告があった。
 中学でも嫌がらせなんてたくさんあった。だから母さんも、「またか」という感じではあった。
 高校生にもなって嫌がらせなんてするか? する人はするんだろうな、と予想はしていたけど正直驚いた。
 競技が違うとはいえ、同じスポーツマンにこんなことされるとは。かなり残念だった。
 自分がリンクに近いあの高校を選んだことで、スポーツ推薦枠が作られるなんて思いもしなかった。学力だけで余裕で受かることもわかっていたのに、気づいたら受験は免除されていた。
 もう僕と家族だけで決められる進路ではなく、コーチ陣まで関わっていた。
「お母さんね、あの話聞いたとき、女の子に何かあったらどうしようって思った。でも練習から帰ってきた望夢の顔見て、なんていうか、望夢も年頃なんだなってちょっぴり安心したのよね」
 ウィンカーをカチカチ鳴らしながら嬉しそうに話す。
「安心?」
「そう、安心」
「結局のところ、心配御無用ってわけ?」
 意味のわからないことを言う母さんに、僕は呆れた。
「あなた気付いてないの? あのとき、すごく嬉しそうな顔して話してきたのよ?」


 わかってる。きっと顔に出てたんだろうね。
 お風呂から出た僕は、洗面所の鏡に映る自分を睨む。
 僕が久野さんに出逢った日。加山先生から先に話を聞いていた母さんの心配を他所に、僕は練習から帰宅して嫌がらせのことを聞かれると、それよりも彼女のことをたくさん話してしまっていた。
 柔道男と睨み合っていたのは女の子だったこと、殴り合いそうになってたこと、こんなことして許さないって叫んでくれてたこと、おまえが謝ることねーよだなんて言ってくれたこと。
 こんな子いるんだって、嬉しかった。
 さっきもスマホにメッセージが届いていて、すごくすごく嬉しかった。自分から誰かに連絡先を教えようという気持ち自体、初めてのことだった。
 髪を乾かして部屋に戻り、下着姿のまま鏡台で全身をチェックする。常に身体と筋肉は見ておきたい。それから、簡単な筋トレをする。腕立ての次に腹筋をしながら、過酷な春休みのトレーニングを思い出してしまった。
 スケジュールも過密だった。カナダへの視察も行ったし、頼みたいコーチがジャンプを見てくれるということで急遽、滞在期間を延長し入学式も出られなかった。その甲斐あって、これからはカナダのコーチに指導してもらえることになった。
 夏から大人と同じ、シニアクラスで試合をする。そこで優勝するためには今までの優勝経験なんかより、どれだけ点数を伸ばせるか、どれだけ魅せられるか、今の自分を成長させることが大切だ。
 もう僕のジャンプの伸びしろは、日本での指導に限界がきていた。いっそのこと海外に住もうかと考えたこともある。未成年だし見送ったけど、賭けになる気もしていた。
 あまりに忙しい僕を見て、学校に行く時間がないのなら退学して身体を休めてほしい。これが母さんの意見だった。
 だいぶ良くなったが幼少期の喘息はかなり酷く、今も僕の身体を蝕む。母さんは僕の身体のために栄養士のアドバイスをもらって、料理を作ったりサプリを用意したりと支えてくれている。
 父さんは一人息子の僕に厳しくしてるつもりだろうけど、とやかく言わない優しさがあった。僕のやりたいように任せてくれている。勉強が得意なことも、父譲りだと思う。
 頑張って高校に行こう。やっと登校できたと思ったら、嫌がらせは始まった。
 なんとなく嫌がらせの構図もわかり、担任の加山先生に相談していた矢先の、あの騒動。
 加山先生の肩越しに見た僕の席は汚されていた。
 扉を開ける前から、廊下に異様な声が響いていた。僕は失礼ながら、「やめろ」と喚き散らかす声は男子かと思っていた。声が低めだったし、あの話し方だったから。
 しかし艶やかな黒髪の、どちらかといえば小柄な女子が後ろから羽交締めにされている姿に気づいたとき、心底驚いた。
 下着が見えるくらい脚を蹴り上げ、長く綺麗な髪が揺れ動くほど喚いていた。
 はしたない‼︎ 思わず叫びそうになったのに、僕は彼女に釘付けだった。

 言葉遣いが悪くたって、彼女はこんなにも優しいじゃないか。
 そう思っているけど、もしかしたらこれは、僕の一目惚れなのかもしれない。それにほぼ皆無だった僕の性癖が、彼女によって一気に歪んだ、気がする。……目下の悩みはそれだった。
 大きな大会に出るにつれて、性についての勉強がある。男子と女子の身体の違いや、成長。妊娠と避妊。スポーツマンシップを掲げて大会に出る以上、リスクも考え行動せよ。
 女性のセクシーな写真などを見て興奮することあれど、僕の場合、頻度が少ないといえばそれでいいのだが正直あまり興味がなかった。
 何よりもフィギュアスケートに時間を懸けている。
 中学生になれば男子のほとんどがいろいろなことを話し、隠し、いろいろなことをする。ひとりでも、誰かとでも。僕にはその欲求が、性欲が、ほぼなかったのだった。
 もちろん、今まで女の子の友達もいた。モテるときもあった。好きだよと言われて、好きだよと返すと、とたんに噂になった。
 成長の遅そうな僕を見ていた母さんは、子供の言うことだからと気にも留めていなかったけど、そのうち「女の子に勘違いさせてはいけない」と教えてくれた。
 スケートしかない僕にとって、誰かと付き合うことなんて考えていなかった。煩わしいのはごめんだ。
 3歳から始めたスケートが今や、自由を捨ててまで優先した生活になっている。4回転ジャンプの性能を上げなければ、これからは勝てない。それにもっともっと体力をつけて、フリーを完璧に滑り切らないと駄目だ。
 スケート人生のピークはほぼ十代といわれている。今しかないのだ。
 そんな僕なのに、これは正常なのか異常なのか? 良くも悪くもあの日以来、彼女が脳裏を掠める。身体が反応してしまう。
 コーラで乾杯しながら楽しく話ができたこと。学校生活でこんな楽しかったこと、初めてかもしれない。
 ……僕の今までの人生、スケート以外は何もないのではないだろうか? そこに気付けないくらい生き急いできた自分が、少し恥ずかしい気もする。
 あの豪快な笑い声と弾けた笑顔、強気な目。時折見せる、恥ずかしそうな姿もたまらない。彼女はスケートと同等の何かを持っている。
 しかし僕の(よこしま)な感情と罪悪感が、黒いインクが滲むかのようにじわじわと押し寄せてくる。
 夜中は本当に大変で、自分の身体が乗っ取られたような感覚に陥り、胸が締め付けられる。
 お転婆な女の子はあまり好きじゃなかったはずなんだけどなぁ……僕はなんとか、彼女に対する気持ちを否定しようとしていた。
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