017 泣き虫

文字数 8,385文字

 窓から見える夜空の一角が、花火のクライマックスで彩られた。大迫力の光景に菖は思わず「わあ…!」と拍手をしてしまう。胸元では剣崎がつられて、手を軽く叩いた。
 背後にいる剣崎が口をもぐもぐさせているような気がして、回された腕をトントンと叩きながら「ねえ、髪、食べてまっとるん?」と訊いてしまう。
「あっはは! さすがに食べるわけ……でもいつか、髪の毛までぜーんぶ食べちゃうかもね」
「!」
 今しがた食べられてしまうと覚悟していた菖は、剣崎に心を読まれた気がして驚いてしまった。
 優しく笑いながら、髪の毛を撫でてくれる。恥ずかしい気持ちもあるのに、こいつヨダレとかつけてねーよな、なんて冷静に考えてしまう自分にも菖は笑えてきてしまった。
 笑う理由を知らない剣崎が、頬を優しくつんつんと触ってくる。
「待っててくれてありがとう、菖」
 言い終わろうとしたとき、ふいに廊下から足音が聞こえてきた。剣崎はごく自然にスッと菖から離れ、窓にもたれながら廊下側に身体を向けた。きっと見回りの先生が来る。
「制作室Cに2名っと。花火見た? そろそろ学校、閉じるわよ」
 被服科のおばさんっぽい先生だった。
「はーい、帰りまーす」
 ふたりで返事をすると先生が剣崎に気づいた。
「あれ? 剣崎くんだよね、私服で来てたの?」
「すみません、帰国してそのまま学校に来たんです。夏休みの講習とか受けられなかった届け出、出そうかなと思って」
 本当かどうかわからないことをさらっと言ってのけた。菖は吹き出しそうになった顔を見られまいと、先生に対して背中を向けた。
「あらぁ、そういえば海外で練習してたんだったわねぇ」
「そうです、そうです」
 剣崎が先生と話しているあいだに菖は片付けをして、ふたりで学校を出た。
 花火よりも抱き締められていた密着の余韻が、菖の口数を減らしてしまう。
 右隣を歩く剣崎の顔をよく見ると、思っていた以上に痩せこけていた。小さな顔がさらに小さい。細い腕は変わらない印象だが、今まで以上に筋肉で引き締まっている。触った腕も、いつもより硬いような感じがしていた。
 私服のせいで細い腰まで見えていて、それほど過酷な練習だったんだろうかと心配になってしまう。
 そんな心配なんて気づいていない剣崎はルンルンと歩いていたのに、急に歩みが遅くなった。
「そうだ……このままどこか食べに行きたいところだけど、僕、荷物を母さんに預けて飛び出してきてしまって……」
「おい、お母さん迷惑やろ! さすがに帰るぞ」
 菖が睨むと、剣崎は駅の前でやだやだと駄々をこねた。実は電車の定期券も切れていて、簡易的に持っていた小さな財布の中身は交通費ギリギリだったらしい。
「足りる? もう1回、確認しよ。ほら」
 そう言って切符を買わせる。金額が足りたので、その切符を改札に通して中へと誘導した。
「なんか流れで入っちゃってるんだけど‼︎」
 大笑いしている菖を、今度は剣崎が睨んでくる。
「剣崎のほうのホームまで一緒に行ってやっから、ね?」
 必死でなだめながらホームにある椅子に座った。仕事終わりのサラリーマンがちらほらいるくらいで静かだ。剣崎は少しだけふにゃんとだらしなく座り、菖の肩にもたれかかる。
「カナダの練習はどうでしたか?」
 架空のマイクを剣崎に向けた。反射的に姿勢を正して応えてくれる。
「かなりいい手ごたえ! 毎日の練習は本当にきつかったけど、行ってよかった、です!」
 マイクを自分の口元に戻して菖はインタビューを続けた。
「痩せたようですけど、ご飯はちゃんと食べていましたか?」
 またマイクを向けられた剣崎は大笑いする。
「食べました! でも少なかったかもしれないです」
「それは心配ですねぇ、体重はどうですか? 筋肉はついているように見えます」
「ええー、なんなんこれ。あはっ! えーっと、体重はプラマイゼロです。英語がまだそこまで話せなくて苦労したし、精神的にもちょっと落ち込んだりして、痩せちゃったかもしれないですっ!」
「……精神的にもって……大丈夫なん?」
 マイクを剣崎に向けたまま、菖は訊いてしまう。
「うん、もう大丈夫。菖に会えたから」
 椅子に座ったまま剣崎は両手を広げて菖に抱きつこうとしたが、またも菖はそれを止めた。剣崎は残念そうな顔をして座り直す。
「菖に会いたくて会いたくて、自分で決めたことなのに、僕はなぜ外国に飛び立ったんだろうなんて考えたりもした」
 剣崎は菖を見てから、真剣な眼差しで前方の線路に視線を移した。綺麗な横顔はそのまま、菖を見ないまま言った。
「菖は本当に、僕に会いたかった? 会いたいと思ってくれてた?」
 制作室でも同じことを何度も訊いているのに。剣崎は、あたしに会えないさみしさと戦っていたのだろうか? 不安に思っていたのだろうか? 胸の中がきゅーっと切なくなる。
「会いたかったよ、本当に」
「ほんと?」
 なんとも言えない顔をこちらに見せてきて、今度は菖が抱き締めようかと思ってしまった。恥ずかしくてそんなことはできなくて、迷った末に剣崎の片腕に両手を添えた。
「そんなに、さみしかったん?」
 さっきまでの勝ち気な態度で、後ろから抱き締めてきた剣崎に見えない。心配で添えた指に力が入ってしまう。短い袖から覗く腕の皮膚から、剣崎の体温が伝わってきた。
「……うん」
「また学校始まったらさ、みんなにも会えるよ!」
 元気になってほしくて剣崎の腕を動かしてみるが、だらんとしたままだ。
「……菖はまだまだ僕のこと、わかってないね」
 添えた手の上に剣崎が手を重ねた。わかってないと言われて謝ろうとすると、剣崎が話し始めた。
「もちろんみんなには会いたいけど、僕は正直、菖以外は別に……カナダに行っても菖と連絡さえ取っていれば、問題ないと思ってた。でも思ってたより菖が近くにいないことが、すごく堪えた……自分の小ささを、思い知ったよ」
 こんな恥ずかしいこと、こいつよくすらすらと話せるな。なんて思ってしまって、また菖は小さく笑ってしまう。
 でも。剣崎は。遠くで。練習ばっかりで。ひとりで。
「笑うなんてひどい」
 重ねた手に力を込めながら、剣崎が頬を膨らませて怒ってきた。
 菖は笑いながら、その表情とは裏腹に涙がこぼれてしまっていた。驚いた剣崎の顔がぼやけて見える。
「どうしたの菖、泣いてるじゃん……」
「剣崎が……はずいこと真剣に話してて、笑ってまったんやけど」
 白くて細い指で涙を拭ってくれる。でもその指は、思った以上に骨張った指だった。また涙がこぼれてしまう。
 心配そうに見つめてくれる、目の前にいる、剣崎の孤独はどれほどのものだったんだろう?
 こいつはずっと、あたしが遊んでるあいだも戦ってきたんやろうな。そう思うと複雑だった。
 こんなあたしなんかのことで、負けたような顔なんてしなくていい。
 剣崎の腕に添えていた手に力が入ってしまう。
「おまえは小さくなんかねえから! 金メダル獲るんやろ? これから世界と戦うんやって、そう言っとったやん! 今からこんなことで弱気になんな!」
 目を大きくして剣崎は驚いている。
「な、泣きながら言われても……」
「あたしもおまえと同じくらい、多分さみしかった‼︎」
 涙を拭うために顔を寄せてくれていた剣崎の首元に、気づいたらしがみついていた。椅子の手すりが身体に当たって少し痛い。
「菖⁈」
 剣崎は慌てふためきながらも、頭と背中をぽんぽんと撫でてくれる。
「……こういうときはね、多分なんて言わずに隠すものなんだよ。泣き虫さん」
 泣いた本当のわけは、さみしかったからじゃない。
 涙をただひたすらにごまかしたくて別の会話を探す。海で抱き締められたときに見た剣崎の首筋が、すぐ目の前にある。瞼や頬にさらさらした髪が当たってくすぐったい。
「剣崎……髪、伸びたね」
「ん、撫でて」
 ばーか、と言おうとしてやめた。菖は腕を絡ませたまま、頭を撫でた。剣崎のやわらかな髪を初めてちゃんと触った。
 剣崎も笑いながら菖の髪を撫でていた。


 泣いてしがみついてしまったせいで、剣崎が乗るはずだった電車を逃してしまった。菖は泣いた顔をタオルで整えていた。
 恥ずかしい。自ら抱きついてしまった。心臓がまだどくどくしている。
 剣崎がなけなしのお金で、小さなペットボトルのお茶を買ってきてくれた。
「あっ! お金ないのに!」
「だから、あるって! カナダドルならもっとあるもん」
 心無しか剣崎は嬉しそうな顔で笑っている。さっき髪を撫でたから……? 菖は少しだけ、負けた気になってしまう。
「ん? かなだどる?」
「ドル。ドルのカナダ版みたいな感じ。硬貨はセント」
(さつ)と小銭で言い方ちゃうの、あかんくない?」
「ふふ、確かにねー」
 ご機嫌な剣崎にありがとうと言って、菖はよく冷えた緑茶を飲んだ。剣崎が見てくるからペットボトルを渡すと、喜んで飲んだ。
「飲むなら買ってこよか?」
「いい、もう帰らなきゃだし」
 まだ帰りたくなさそうな、ふてくされた顔をしてくる。
「あれ? そういえばさ、ここ来る前になんかビッグニュースとか言って通話切らんかった?」
「そうそうそうそう!」
 太ももをパンパンと叩く。情緒不安定の女子かて? 菖はつっこもうとしたが、泣き虫と言われた手前、なんだか今は言い出せない。
「菖、聞いて?」
「はい! 聞いちょります!」
「あのね、僕……菖の大! 大! 大ッ好きな、あのコーラのコマーシャルに、出ますっ‼︎」
「え、えええええええええっ? えええええ‼︎」
 ホームの端から端まで菖の叫び声が響いた。
 ビッグニュースすぎる! ふたりで喜びのハイタッチをするが菖の理解は追いついていない。
「なんで? なんでそんなことなったんよ⁈」
 剣崎が興奮しながら説明してくれた。まず、剣崎ひとりで出るわけではないこと。10代の若い著名人が選ばれて、それぞれが頑張っているシーンが使われること。そのため、コーラを飲んで撮影をしたわけではないこと。
「だからそんなに大したことではない、かも?」
「いやいや、すげぇよ……」
 こんな身内でコマーシャルに出る人が現れるとは。たとえ現れても、それはmissaだと思っていた。
「コーラさんの撮影チームが、カナダで練習する僕を撮りに来てくれて。どれくらい使われるんだろう、きっと一瞬だと思う」
 ほかには将棋で有名な人と、スケートボードで優勝した人が選ばれたそうだ。
「コーチ陣から話を聞いたときには驚いたよ、断るわけないよね! 菖も僕も大好きなコーラだもん! あのコーラだよ?」
 菖は思い出して笑ってしまう。剣崎の机にいたずらで注がれたコーラが引き金で、喧嘩まがいになったあの事件。ふたりが出会った、あの事件。
「すっげーな、早く見たいよ、ほんとすごい! すごいねっ! おめでとうっ‼︎」
 菖は立ち上がってバンザイをして飛び跳ねた。剣崎も一緒に菖の両手首をとって、ぴょんぴょんと跳ねる。
「ね! 一緒にCM鑑賞会して!」
「いいよ、しようぜ! 剣崎すげえええ!」
 ふたりで円になって飛び跳ね回っていたら、剣崎が乗る電車が来てしまった。今度は絶対に乗ってもらう。
「菖、会ってくれてありがとう」
「こっちこそありがとう、しっかり休んで。また学校でな」
「うん、式には行くから、またね。後でメッセする」
 扉が閉まってもお互いずっと、手を振っていた。


◇◇◇

 手を振る菖が小さくなって、見えなくなった。僕は車内を見渡して、空いている席に座る。
 菖のことを本当に食べられたら、どれだけいいか。カニバリズム気質でもあるのかな、僕。菖専門のカニバリズム。
 男、というより僕が、僕だけが、菖の身体に触れること。だいぶ慣れてきてくれて、とても嬉しい。まだまだ長期戦の覚悟でいるけど、これは僕自身の我慢との戦いでもある。
 さっきの花火のときもヤバかった。菖が身悶えたとき。あの綺麗な黒髪を掻き分けて、首筋を噛んでやろうかと思った。強気な眼に比べたら、だいぶ弱々しい白い首。噛んで、皮膚を吸い上げて、血でも出てくるのなら飲んであげたい。
 髪食べてまっとるん? って訊いて、きょとんとしてた菖。いつもよりも言い方がたどたどしくて、可愛すぎてもう全部食べてしまいたい。
 ねぇ、あの菖の甘いにおいは香水なの? なぜかこれは恥ずかしくて訊けなかった。
 我慢しきれず今日は色々としてしまったけど……僕の本当の我慢は、絶対に菖にバレてはいけない。必死に隠してる。
 あの大好きなコーラのコマーシャルが決まったこと、菖に一番に話せて良かった。まさかの依頼にびっくりしたけど菖のためにも引き受けたようなもんだよね。
 自分のことのように飛び跳ねて喜んでくれたこと。叫び声が予想よりも遥かに大きかった。菖のこと、みくびっていたのかもしれない。
 あとなぜか、菖はまた泣いた。意外と泣き虫だな、ほんと。
 でも菖から抱きついてくれた。びっくりした。僕の考えている慣れさせよう作戦、効いてるのかな?
 本当にさみしく思ってくれてたのなら、なお嬉しい。それにまた、宝物みたいな言葉もくれた。おまえは小さくなんかない、弱気になるな、って。
 スケートのことで弱気になったわけじゃないんだけどね。菖のこと。そこはわかってくれてんのかな? わかってなさそうだけど、まぁいっか。思い出し笑いをしてしまう。
 僕たちは好きかどうかよりも、想い合っているし、こんなに距離を縮めている。言葉では足りないくらいの気持ちがある。
 幸せだな、とふと思った。カナダではあんなにいっぱい不安になったのに。
 江藤さんの顔が急にちらついた。「アンタね、ちゃんと言いなさいよ?」……おお、こわ。でも百合シチュエーション、ありがとう。
 花火を見たとき、僕の腕に当たっていた菖の胸の感触。将来の楽しみに加わりました。江藤さんと篠宮さんが触った菖の胸は、最終的に僕だけのものです。


 シンちゃんと中学校近くの喫茶店で待ち合わせをした。久しぶりにここらあたりを歩く。日本の暑さは異常だな、僕はタオルで軽く顔の汗を拭いた。
 お店に入ると、先に着いていたシンちゃんが奥の席でアイスコーヒーを片手に参考書をめくっていた。
「ごめんね、待たせた」
 僕はシンちゃんの前の、赤みがかったベロアのソファに座る。
「いや、僕が本屋に行って早く着いたんだ。ひっさしぶりだな、望夢。痩せた?」
 メニューを広げてくれる。食べろって言われているようだ。
「見た目は痩せたかも? お昼食べてないし食べちゃおっかな」
「望夢が食べるなら僕も食べよう」
 シンちゃんはカツサンド、僕はアイスティーとピザトーストを頼む。
 僕と同じくらいの背で体格がいいシンちゃんは、スポーツもやってないのに元気いっぱいの笑顔だった。勉強漬けで疲れている感じはしない。
「シンちゃん、これカナダのお土産!」
「お、いいのか? どうだった?」
 袋の中の紅茶とメープルクッキーなどの詰め合わせを見て「夜食にしよう」と笑ってくれた。
「フィギュアの成果としては、ばっちり。ジャンプも上手くなってるから! でもお土産話なんてほとんどないよ、観光なんてしてないもん」
「え、まさかリンクしか行ってない?」
「ほとんどそんなとこ」
「ぐえー。よくやるわ、ほんと。どうせ練習も半日あるんだろ」
「ジムのトレーニングとか含めたら余裕で越える」
「それでおまえ頭いいって、許せれんわな」
 シンちゃんは両手で降参のポーズをとる。頼んだものがテーブルに運ばれ、しばらくお互いにパンに集中した。ボリュームがあって苦しくなる。シンちゃんはあっという間に完食し、おまえも食えよとポテトも追加した。
「ところで望夢。あれから例の欲、どうなった」
 その話になることは覚悟していたのに、パンが喉に詰まってアイスティーで必死に流し込んだ。
「帰ってきたばかりだけど、なんとか復活」
「やっぱり異国の生活が問題だったか」
「んー、それもあると思うけど」
「けど?」
 ポテトを食べながらシンちゃんが、まだトーストを食べている僕の顔を覗く。僕は残り少しのピザトーストにタバスコを少し振った。
「シンちゃんが言ってたSNSの女の子」
「ああ」
「あの子ね、学校の子なの」
「ほう。それで?」
「帰国してすぐ会ったら、身も心も元気になった!」
「ぷはっ‼︎」
 シンちゃんはアイスコーヒーを吹き出して大笑いした。こんなシンちゃん、初めて見るんですけど⁈ 僕はおしぼりで濡れた口元を拭いてあげる。菖みたいだよ、シンちゃん……。
「おまえのせいだよ、まったく」
 まだ笑いながら、シンちゃんが自分の服とテーブルを拭きつつ呼吸を整えた。
「望夢のせいだからな。ほら惚気話、聞かせてくんない?」
「えっ?」
「馴れ初めとかさ。知りたいじゃん。早く早く」
 急かされた僕は、菖と出会ったときのあの事件から今までのことを簡単に話した……つもりが、たくさん話してしまった。
「初恋にしてはできすぎててムカつくから、1回失恋してもいいんじゃないか?」
「はぁ? やなこと言わないでよ、シンちゃん!」
「ふーん、この子ねぇ。望夢が珍しく猥談してくるから、何かと思えば。この先、色々と教えてほしいね。僕の後学のためにも」
 そういって菖のSNSを眺め、顔を確認している。変な目で菖を見ないで‼︎ ムスッとした僕に気づいたシンちゃんはさらに挑発してきた。
「望夢はこの子とヤりたくないの?」
「……したいよ」
「そんだけ仲良しなのにヤッてない奴、いまどきいないよ」
「そうなの?」
 僕は思わず身を乗り出してしまう。
「ごめんごめん、個人差はある。でもさ、一生ヤらせてもらえなかったりしてな?」
「やだ、絶対するもん。菖も初めてだと思うし、絶対に僕がするもん」
 シンちゃんが顔色を少し変えた。
「思うっておまえ、その菖ちゃん、もしヤッてたらどうすんの?」
「え?」
 そんなこと考えたこともなかった。
「ヤッてなくてもキスぐらい、してるかもしれんだろ。わりと可愛いし、しかも巨乳なんだろ? 正直それだけで寄ってくる男、望夢が思ってる以上に多いからな」
 キスぐらい、してる……かも? 嘘でしょ? 言葉が出ない。
「それにな、って、おい望夢? しっかりしろよ」
 テーブルをトントンと叩く。「あ、うん」と暗くなっている僕を見て、シンちゃんは「あー、おかしい」とまた笑いだした。
「望夢、おまえ変わったな。菖ちゃんのおかげか? 中学んときは澄ました顔してクールな奴だったのに。女に言い寄られて流されても、最終的には見向きもしなかった冷酷な望夢が、恋愛初心者でこんな遅い初恋に一喜一憂しちゃって」
 そのとおりのことを言ってくるから、僕はふてくされつつも質問してみた。
「じゃあシンちゃんの初恋は? 付き合ったことあんの?」
「付き合ったことは残念ながら、ない。僕は望夢みたいにモテないし。恋を成就させるまで、相当の時間がかかると思う。でも好きな子はいたし、今は別の子を好きだよ」
「えっ! 誰? 僕も知ってる人?」
 初耳だった。今まで知らなかった、シンちゃんの恋心を初めて聞かせてもらった。今の好きな子は僕の知らない人だけど、好きだった子は中学のときの同じクラスの子で「なるほどね!」なんて答え合わせをするかのように、シンちゃんの恋愛話と昔話に花が咲いた。
「僕らも少しは大人に近づいてるってわけだな、あのとき話せなかったことも話せてさ」
「そうだね、なんか嬉しい。シンちゃんと恋愛の話までできて」
「もう高校生だもんな。さすがに高校生にもなって、いじめみたいなことするおまえのクラスの奴らも、どうかと思うけど」
「ま、気にしてないよ。ただ……」
「ただ?」
「菖にもし仕返しみたいなことしてきたら、嫌だなって」
「あー、それはそうだな」
「何か起きたら、相手が相手だからコーチたちも動くとは言ってくれたけど、それじゃ遅かったりもするし」
 シンちゃんは頬杖をついて、ポテトを食べながら空中を睨んでいた。
「望夢、前にも言ったことあるけど。おまえの持つ権力に驕ることなかれ、使えるもんは使え。その使える権力は、おまえの価値だ」
 中学のときから何度か、似たようなことを言われていた。僕はシンちゃんのそう言ってくれるところが好きだ。
「無茶なことはするな。あと何度も言うけど驕っちゃ駄目だし、媚びるなよ?」
「うん、ありがとう。わかってる。肝に銘じてる」
 はっきり言いながらも優しく笑うシンちゃんが本当に頼もしい。
「いつか菖ちゃんに会わせてよ」
「いいよ、菖も絶対喜ぶと思う」
「僕のこと知ってんの?」
「SNS見て名前だけね、僕の唯一の友達って教えたんだ」
「望夢……」
 僕の価値は、シンちゃんみたいな友達がいること。そして菖とフィギュアスケート。光り輝くありがたい価値に見合う男に、絶対になるんだ。
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