002 口も手も出る人

文字数 5,129文字

 剣崎というフィギュアスケート選手が登校したであろうあの日は、授業が始まれば落ちつきを取り戻し、遠く離れた美術科には何ひとつ影響はなかった。
 千緒の話だと、あの日以来たまに学校に来ているらしい。
 単位制の学校とはいえ、欠席数が多ければ単位は貰えないし、最低限の授業は必ず受けなければいけない。
 次の授業も大事な必修科目の数学なのに、菖は教科書を忘れてしまったことに気づく。
 誰かに教科書を見せてもらえば事足りるかと思いきや、厳しくて小言がうるさい初老の先生を思い出した。
 ああ! 数学なんて嫌いや! どうしよう! 神様、千緒様、仏様‼︎
 すぐさまスマホのメッセージで千緒に連絡を取ると、ひよこが呆れているスタンプの下に「貸しますよ」の文字が画面に表れた。千緒ピヨ様、ありがとうございますっ!
 菖は一目散に教室を出た。8組から1組は一番遠い。
「ちーおー! 教科書お願いしまーす!」
 1組特進科の扉を勢いよくスライドさせ、右手を挙げながら教室を覗く。すると異様な光景が目に入ってきた。菖は目を凝らす。
 一番後ろの誰もいない席の机に、剥き出しのお菓子やパンがぼろぼろと崩れながら散乱している。周りの男子たちが大声で騒ぎながら、汚い物を触るかのように机や椅子を蹴り、なんとアイスクリームまで投げつけた。
「……は? あかんやろが……」
 どう見てもおかしい雰囲気の中で大笑いしている男子たちを、自然と睨んでしまう。集団は5人、いや6人? 騒いでいて、どこまでかよくわからない。
「馬鹿なことしとるよね、たまにやってんのよ」
 いつの間にか隣にいた千緒は、数学の教科書を片手に重い溜息をつく。
 そうこうしているうちに今度は、ペットボトルのコーラを机にドバドバとかけ始めた。まるでそこにコップがあるかのように。
 コーラは炭酸のしゅわしゅわした音とともに飛び散りながら、机から床へと流れ、溶けていくアイスクリームと一緒に淡い灰色の絨毯をじわじわと濃い色に変えてしまう。
 さすがに周りの生徒も、キャーッと避け始めた。
「あんの野郎! コーラを!」
 とっさに菖は、後ろの席までズカズカと歩いていく。苛立ちが、怒りが、眉間に皺を寄せさせる。
「ちょっと、菖!」
 千緒の声も無視して、男子たちの前に立った。
「おい、おまえら! なにしとんや! 食べ物を粗末にすんじゃねえ!!
「は? なんだよおめぇ、誰や?」
 机の上に座る男が振り向いて菖を見る。
「何科だよ?」
「女のくせに生意気やのう」
「おっ、可愛い顔してるじゃん? オレ、好みかも!」
 集団のひとりがひょこひょこと菖の横に来て、品定めするかのように全身を眺めた。
「おっぱいも、でけえ気がするぅ!」
 その言葉に男子たちの声は、さらに大きくなる。
「うるせぇな、そんなことよりやめろって! 机、汚れてんだろ!」
 注意する菖の声を遮るように、今度はコーラを持った体格の良い男が立ちはだかった。
「ちっ、ただの言葉遣い悪い女やんけ」
 その言葉に思わず菖は、コーラ男の胸ぐらを掴んだ。
「言葉遣いが悪かろうが、女だろうが、こんなことしてる奴らに言われたかねえっつーの‼︎」
 コーラ男は思わぬ体勢に一瞬怯んだ。しかしすぐに、菖を見下ろして睨み返す。
「なぁなぁ、かわいこちゃん、そのへんでやめとき? こいつ、柔道も寝技も、プロ級だよ?」
 ニヤニヤしながらさっきの男が、コーラ男を睨んだままの菖の肩を撫でるように触る。
「触んな! おめーらがやめろ!」
 瞬時に左腕で振り払う。だが、コーラ男への力は緩めない。
 胸ぐらを掴まれたままのコーラ男がペットボトルを床に投げ、菖の両肩を掴んだ。
 スポーツ推薦の男子だろう、力が強い。菖はより一層、コーラ男を睨み返す。ふざけたことしやがって! 舐められてたまるかよ!!
 菖を生意気な女だと思ったのだろう、コーラ男が更に大声を張り上げた。
「調子乗んなよ! この、雑魚女!」
 怒りに震えた菖も、全身に力を込めた。
「てめぇがな‼︎」
 机の音がガタガタガタ、と大きな音を立てて、列が歪んでいく。キャーッ! やめて! コラァ! 止めろ止めろ! 一触即発、怒号と悲鳴が混ざる。
 男子たちに囲まれたコーラ男は、肩や身体を抑えつけられたまま悪態をついていた。今にも暴れそうなくらい、身体を激しく揺さぶり抵抗している。
「女ぁ! てめぇ、俺を殴ろうとしたやろ! やってみろや! 犯したろか⁈ ああ⁈」
 菖は背の高い男に引き離されて、宙に浮いている。
「離せ! おまえら恥ずかしくないんか! こんなことして! 絶対に、絶対に許さない!!
 触るなと言わんばかりに足をばたつかせ、喚いていたそのとき――
「何やっとるんか‼︎」
 1組特進科の担任が勢いよく扉を開けた。
 フィギュアスケート選手の剣崎も、一緒だった。


「……久野は、剣崎のファンでも何でもないんだな?」
「全然」
 1組特進科の担任、加山(かやま)の問いに菖は両手を上にして、意味がわかりませんとジェスチャーをする。
 さっきまで教室で喚いていた菖は、特進科の教師室に隔離されていた。騒動の男子たちは全員、スポーツ推薦だったことも関係して、ひとまず体育教師たちに別室で叱られているらしい。
「先生、あの席がその、剣崎って奴の席なの?」
 菖は赤茶色の革張りのソファに深く座りながら、対面に座る加山に訊いた。
「そうだ」
 白髪混じりの髪の毛をしっかりと固め、薄水色のワイシャツ姿に銀縁丸眼鏡の加山は、いかにも理数系教師といった出立(いでた)ちだ。
「あいつらさ、あんなことしておかしすぎやん。ひどいよ、マジで」
「……そうだな」
「退学にしてよ、全員さぁ!」
 加山のつれない応えもあって、菖はソファをバンバンと叩く。
「久野、まずは先生たちに任せてくれんか?」
 納得のいかない菖に、加山は少し困った顔をした。
「なかなか言えないことを言ってくれて、感謝している。違うクラスなのにね。少々、いや、かなり危ないやり方ではあったが」
 危なくなんてない! あたしは喧嘩できる! 勝てるかは、もうわかんないけど……でもさ、コーラやお菓子、食べ物をあんなふうに、ましてや誰かが座る席で、粗末に遊んでいいわけがない。まず、もったいないやろが!!
 思い返して苛立っていたそのとき、教師室の奥にある準備室のカーテンがゆっくりと少しだけ開いた。
「先生」
 呼ばれた加山が振り返り、手招きをする。
「おお、剣崎。もうこっち来ていいぞ」
「うわっ、そこにおったんかい!」
 カーテンからするりと飛び出た剣崎は、驚く菖の元に駆け寄り跪く。そして、菖の両手を取った。
「ねぇ、怪我してない?」
 剣崎の目は、まっすぐに菖の目を見ている。
 いきなりのことに面食らった菖は、手を引っこめようとしたが遅かった。剣崎の両手は離してくれない。
 両膝を地面につけているとはいえ、そして菖が座っているとはいえ、その姿はまるでシンデレラにガラスの靴を捧げる王子様のようだ。または、プロポーズの指輪を差し出す男性。
「本当に、ありがとう」
 剣崎はさらに強く、菖の手を握る。
「あたし、何もしてないし!」
 思わず目を逸らした。剣崎の手の温もりが、伝わってくる。
 このままではいられない、もう一度手を離してみる。
 やっとのことで手は離れたが、すぐに剣崎は菖の隣に座った。加山のほうは見ず、菖の顔を見てニコニコしている。
 何がなんだかわからない! 食べ物を粗末にしてたから言ってやっただけなのに、剣崎を助けたことになってる……?
 右隣に座る剣崎はかなり細かった。顔も白くて、弱そうな、本当にこの人スポーツやってる? そう訊きたくなるくらい、貧弱そうな男子に見えた。
 なによりこの人の顔、あたしより小さくない? 思わず顔をしかめる。それでも目を細めて笑みを浮かべる剣崎に、一連の流れを説明しようとした。
 トントン。今度は教師室の扉が叩かれ、廊下から息を切らしたような声が響く。
「加山先生! すみません、美術科の曽部(そべ)です!」
「曽部ちゃんだ!」
 反射的に菖は駆け寄り、笑顔で扉を開けてしまう。
 大柄でクマさんのような担任の曽部は、フレンドリーな性格もあって美術科のみんなから慕われていた。
「おー、おまえ大丈夫かよ、てかなんで勝手に開けてんだよ。あ、加山先生! このたびはほんと、うちの久野が」
 曽部は、奥に行けと言わんばかりに菖の肩をぽんぽんと叩きながら、加山にぺこぺこと頭を下げる。きっと騒動を聞いて、急いで来てくれたのだろう。
「いいからいいから、まず座ってよ」
 加山が立ち上がり笑いながら、ソファを指す。曽部の視線はもうひとりの生徒を捉えた。
「お、剣崎くんかな? 初めまして、美術科の曽部です」
 ハンカチで汗を拭いつつ、曽部は会釈する。
「先生、このたびは申し訳ありませんでした」
 剣崎はスッと姿勢良く立ち上がり、曽部に一礼した。
「おまえが謝ることなんて、なーんもねえんだよ」
 ふたりの間を遮り、菖が剣崎の横に勢いよく座る。
 あれ? そもそも加山先生の横に剣崎が座ったほうがいいんじゃ? 曽部ちゃんも何も言わずに加山先生の横に座ったけど、なにこれ? なんの会が始まるん?
 座る配置を考えていたら、加山が剣崎の机を汚していた7人の生徒について曽部に説明していた。
 そういえば剣崎って、学校休んでた奴やよな?
 こういうことが嫌でなかなか来れんかったんかな?
 菖はあれこれ考えてみたが、情報量が少なすぎてすぐにやめた。まぁ、いいか。
 それにしてもさっきは、びっくりした。剣崎の指が細くて長くて、白くて綺麗で、あたたかい手がとても、心地良かったような……思い出しながら右隣を見ると、剣崎も「ん?」と、こちらを見ている。
 どうしよう、カモの赤ちゃん? あたしのこと、まさか親鳥やと思っとるん?!
 思わず笑いが込み上げてきそうになり、口に手を当てて我慢する。
「久野、なーに笑っとるか」
 曽部に注意される。菖は声を振り絞った。
「笑ってない笑ってない、まだ」
 顔の前でひらひらと手を振る。
「……改めて加山先生、色々と本当に、申し訳ない」
 菖を無視して、曽部は加山に謝った。座ったまま頭を下げる。
「もう謝らないでよ、曽部先生。久野に怒られますから」
「怒ってへんし! まだ!」
 ふくれっ面の菖を見て笑っている剣崎に、加山が優しい声で話しかける。
「さて。剣崎、これから先のことだが」
「はい」
 剣崎は真面目な顔で背筋を伸ばす。
「先生たちも、なんとかしたいと思っている。だがすべてを監視することは、非常に難しい」
「わかっています。母やコーチたちからも、注意を受けています」
 丁寧に話す剣崎の手は、膝の上でぎゅっと握られていた。
「これは極論だが……またこんなことが起きても、剣崎は決して手を挙げられないんだ。わかるか? 久野」
 自分に矛先が来ると思ってなかった。うん、うーん? わからん、でもこういうことやろ!
「あたしが代わりに殴ってオッケー! ってこと?」
 とりあえずピースしておく。
「違う」
 加山が首を横に振って即答する。隣の曽部はもっと首を振っている。
「剣崎にはそれでも、我慢してもらわんといかん」
「ええー? そんでまたこいつ、学校来れなくなるん?」
「ん?」
 剣崎がどういうことか訊きたそうな顔を菖に向けた。
「あ、ごめん。学校、あんなことされるの嫌で、来んかったんやないん?」
 菖は触れてはいけないことを口走ってしまった気がして、おそるおそる剣崎の顔を見る。
「ああ、僕が入学式からずっと休んでたのは、練習とか色々あったからだよ。海外行ってたり」
「えええー!! マジかよ、すごいね! 本当にすごい! わああ!」
 ぱちぱちぱち。目を丸くしながら拍手する菖を、剣崎が笑いながら制した。
「わかったわかった、ありがとう。あのね、聞いて。キミは知らないんだろうけど、僕は世界で戦えるスケーターなんだよ。もうすぐ大人の試合にも出る。スポンサーもついてるし、たくさん試合に出て優勝して世界一になって、金メダルを獲りにいくの。だからね、こんなところで喧嘩なんてもっての(ほか)なんだよ」
 お、おう……勢いよく話す剣崎に、菖は少し圧倒されていた。
「もしこの顔に傷をつけられたら、僕のスケート人生にも傷がつく。もし僕が、彼らを殴ってしまったら……僕のスケート人生が終わる。だから殴りたくても、我慢しなきゃいけない。でも……」
 剣崎は菖の両肩をぐいっと自分のほうに向かせ、怖いくらいの眼差しを向けた。
「キミがもしまた酷い目に遭ったなら、僕は我慢できないかもしれない」
 肩に置かれた手の力強さに、菖は何も言えなかった。ただただ、剣崎の鋭い目を見つめ返すしかなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み