023 前進か後退か

文字数 9,196文字

「剣崎も練習後に来るって?」
「うん、呼んだ。だから今、こんな時間に菖にあれ着てって言ったの」
 菖の家のリビングで千緒と歩乃香はくつろいでいた。
「きゃー、ドキドキしてまうね」
「うまくいくといいけど」


 弟の皐が修学旅行中、母の昭子は遠い実家へ旅行がてら帰省するというので、千緒と歩乃香を家に呼んだ。親がいない無礼講な夜、お泊まり会だ。平日なので明日は3人で一緒に登校する。
 菖はひとり、自分の部屋で格闘していた。
「そういえば菖、居酒屋のお客が買ってきたコスプレ衣装、着てみてほしいんだけど。今、生理じゃないよね?」
 急に歩乃香が、バッグの中から袋を出してきた。今まで暇だったのに? しかも生理? 話がまったくわからない。
「終わったけど……?」
「いや、あたしにはおっぱい足らなさすぎて、着る前から駄目だったんだよね。居酒屋のお客に学祭の猫カフェのこと話したら、早とちりしてバニーガールみたいなの買ってくれちゃってさ。もったいないし、着てみて! お願い、菖、このとーりっ!」
 歩乃香が手を合わせて懇願してきた。そもそも生理だと着られないものなのか、バニーガールって。
「そもそも、あたしには似合わんって」
「アンタ、コスプレとか憧れてんじゃん! 変わった服も好きなんだし、その一環と思って! お客にもさ、使ったよってお礼言いたいじゃない?」
 ソファーに座っている歩乃香が上目遣いで頼んでくる。
 そう言われるとなぁ……。家庭の事情が複雑な歩乃香は、居酒屋でのバイトで歳上の男性からちやほやされつつ、ご飯代などを出してもらい生活費を節約していた。
 パパ活なんて大反対と豪語した手前、それぐらいなら着てみるか。歩乃香が差し出した、衣装が入っている袋を受け取った。
 ロリータドレスにも憧れている菖は、コスプレもしてみたいと思っていた。
「やった! ニーハイソックス履いてね? あと、下着はナシ!」
「なし⁈」
 下着をつけないってどういうこと?
「どうせアンタ、紐のTバックとか持ってないでしょ? 着てみりゃわかるから! お着替えしてきて! アタシと千緒ピヨ、待ってるから、ね!」
 リビングから廊下に押し出され、しぶしぶと迷う菖を歩乃香は部屋に放り込んで扉を閉めたのだった。リビングから千緒の「楽しみにしとるよっ!」と呑気な掛け声が、うっすら聞こえた。
「これはさ、恥ずかしすぎるんやけど……」
 着るまでにかなりの時間がかかった気がする。姿見の前で格闘した結果、黒いバニーガールの衣装を着ることはできた。しかしこれは……なかなかきわどいような気がする。
 水着に似たような素材だが、それでも少し硬めの生地はとても着づらかった。なにより胸が溢れてしまいそうで困った。それに股のあたりの……生地が小さくて、食い込みがすごい。おしりも半分くらい見えてしまっている。
 コスプレするときって下着、着けないこともあるのか。菖は知らなかった。乳首に貼るシールみたいなものも、あれはなんの為にあるんだろうと思っていたが、ドレスや衣装によってはきっと必要なものなんだろう。服のデザイナーさんは、そういうことも考えて作るのだろうか?
「菖、どう? 着れたー?」
 廊下に千緒がいるらしく、微かに声が聞こえた。菖の家の部屋は防音が施されているため聞こえにくい。
 少しだけ扉を開き、菖は顔だけ覗かせた。思ったより遠くに千緒がいた。
「あとちょっと!」
「わかった!」
 扉を閉め、歩乃香に言われたニーハイソックスを履く。姿見に映る自分は、いやらしさというか、セクシーな感じが増したような気がした。
 袋の中には衣装のほかに、猫耳と尻尾が入っていた。短い尻尾にはワイヤーなどは入っておらず、腰のあたりでボタンを留めて垂れさせる仕組みだった。猫耳を頭に着けると、黒猫になれたような気がして悪くない。にゃあ、とポーズをとってみた。
 ……顔から下が、やっぱり恥ずかしすぎる‼︎
 急いでクローゼットから、黒のトレーナー生地の羽織を出した。これならおしりの下まですっぽり隠れる長さだ。ファスナーも首までしっかり閉めて、リビングに向かった。
「お! 猫耳つけとるー!」
「ちょっと、ちゃんと着たの?」
 待ちくたびれたふたりは菖に駆け寄った。
「着たよ、着とるよ! でも……」
 歩乃香は衣装がどれくらいのものなのかわかっているからだろう、嬉しそうに「いいから、いいから♡」とファスナーを下げた。
「わ!」
「おっぱい、すご♡」
 菖は恥ずかしくて声が出ない。歩乃香が羽織物を完全に脱がした。
「やーん、菖めちゃくちゃいい、最高!」
「やば、菖、えっちすぎる!」
 突然、歩乃香が菖のおしりをぷにぷにと触った。
「きゃああああ!」
 菖は胸とお尻を手で隠しながら、もじもじしてしまう。そんな菖を歩乃香がリビングの姿見の前に連れていった。
「ね、菖のこのおっぱいも最高の武器よ? すっごく可愛いんだから! 菖も着てみて、まんざらじゃないでしょ?」
「うう……」
 非日常的な衣装は素敵だ。でも人に見られるのは、いいのか悪いのかわからなくなってくる。
「ほんと可愛いよ、似合っとる! はい、こっち見て! ピース!」
 千緒はスマホのカメラで連写していた。歩乃香も菖を入れて自撮りを始める。恥ずかしい気持ちも、少しだけ薄らいできた。
 スマホが鳴った。剣崎だ。
「アイツ、そろそろ着いたかな?」
「え? 来るかどうか、わからんのやなかった?」
 剣崎には事前に誘っていたが、連絡がなかったので来ないと思っていた。スマホには『マンションの下にいるよ』とメッセージが入っている。
「そーお? 来るって言ってたよ」
「ほら、早く! 菖、下まで迎えに行きゃあ!」
 ふたりは意味深にニヤニヤと笑顔を浮かべていた。え、この姿で、剣崎と会うの? えっ⁈
「まさか、おい、歩乃香? 千緒? 仕組んだ⁈」
「はいはい仕組んだ仕組んだ」
 大笑いの歩乃香に、千緒は羽織物を渡してきた。
「早くそれ着て行きな? 待たせちゃダメやろ」
 やられた。んもおおおおお! ふたりに羽織を着させられ、菖は玄関を出た。猫耳を外すことも忘れていて、急いでフードをかぶる。
 エントランスに着くと、剣崎が全身黒のぴったりとした練習着に、ウィンドブレーカーのようなものを手に持って待っていた。菖の気配に気づいた剣崎が振り返る。
「菖! ……って、なんか、どうした?」
「お疲れ」
 フードをかぶっているからびっくりしているのだろう。菖は説明もよそに、剣崎の腕を引っ張ってエレベーターに乗った。
「え、ごめん。来ちゃ駄目だった?」
「違うんよ、そうやない」
「どのみちすぐ、おいとまするから……」
 ただならぬ菖のオーラに剣崎はおろおろとしている。7階に着くと、菖は剣崎の腕を掴んで足早に家に入った。
「おお! 剣崎来たぁ? おつかれー!」
「早くっ! 早くっ!」
 菖は無言で、剣崎に靴を脱げと念じた。剣崎は小声で「いったいなんなの、お酒でも飲んでるの?」なんて言って靴を脱いでいる。
 靴を脱ぎおわったことを確認すると、菖は剣崎を家の中へ押していった。
「剣崎、こっちこっち!」
 菖はキッチンへ入り、剣崎に出す飲み物をどうしようか考えた。コーラがいいのか、でも練習後だから……。
 剣崎を見ると、ふたりと一緒にリビングの床に座らされていた。グラスに氷を少なめに入れ、冷蔵庫をもう一度見た後に声を掛ける。
「剣崎、コーラじゃないほうがいいよね。レモン水みたいなの飲む?」
「レモン水? 飲んでみたい!」
「ふたりはまだあるん?」
「あるある、アイスティーまだあるよ」
 冷蔵庫からペットボトルの水と、蜂蜜漬けのスライスレモンが入ったタッパーを取り出した。スライスレモンと蜂蜜をグラスに入れ、水を注いで掻き混ぜる。そしてもう1枚、スライスレモンを浮かべた。久野家お手製のはちみつレモンだ。そのままかじっても美味しい。レモンはビタミンだとよく聞く。練習後の身体にも、きっと良さそうだ。
 リビングにレモン水を持っていくと、フードをかぶったままの菖を見て剣崎がまた不思議そうな顔を浮かべた。剣崎はテーブルに置かれたレモン水を反射的に飲むと、ぱあっと顔色が変わった。
「え! 菖、これ美味しいー!」
 頬に手を当てて嬉しそうに笑ってきた。「そうやろ」と言いながら、こちらに向かって立ち上がった歩乃香を見逃さなかった。しかし千緒が菖を取り押さえ、歩乃香が菖のファスナーをいっきに降ろした。
「やああああ!」
 いきなりの菖の悲鳴に剣崎は驚いた、が菖の姿を見てもっと驚いた。
「な、なななな何? 何、着てるの?」
 剣崎が口に手を当てて大きな声を出している。
 歩乃香が菖の身体から羽織物を奪い、自慢げに「じゃーん♡」と剣崎に言った。菖は剣崎の顔を見ることができなくて、手で顔を覆ってしまう。
「剣崎。菖、可愛いでしょ?」
 千緒が剣崎に同意を求めた。胸をつんつんと触るので、菖は手で胸を隠した。
「すっっごく‼︎」
 そして小声で「やばいかも」と言ったのを、菖は聞き逃さなかった。
「え、あたし、そんなやばい? 歩乃香に着せられたんよ!」
 座っている剣崎を見ると、手は口元のまま、大きく開いた口もそのままで菖を見上げていた。
「そういうヤバイじゃないから……」
 なんだか剣崎の声が掠れている。体操座りも崩れていた。どう見ても剣崎はぼーっとしているようで、様子がおかしい。「ねえ、剣崎!」と呼び掛けると、胸が揺れて慌てて胸元を手で押さえた。
「ほら菖、剣崎にもっと近くで見せてあげなって」
 歩乃香に背中を押され、よろけながら剣崎の目の前に座らされてしまう。恥ずかしくて、剣崎の顔なんて見れない! 千緒はさっきからずっとスマホで「菖、ほんとすごい」と写真を撮っていた。
 ううう……。剣崎はどう思ってるのだろう。見上げると、剣崎もこちらを見ていた。
 その瞬間、背後にいた歩乃香が菖の両脚を持ち上げて広げた。
「こっちもすっごくセクシーなんだから!」
「きゃああああああ‼︎」
 剣崎の目の前で、こんな恥ずかしいポーズ! 歩乃香のばかあああああ‼︎
 菖は頭が真っ白になった。全身が熱い。立ち上がって、自分の部屋へと駆け出してしまっていた。
 顔を赤らめていた剣崎も「あっ」と立ち上がっていた。


◇◇◇

 びっくりした。僕は立ち上がり、江藤さんを少し睨んだ。
「菖の部屋、左の奥ね。防音ついてるから、既成事実作っちゃいな?」
 手を振っている。わざとやったのだ。僕は無言で菖の部屋へと向かった。


「菖、大丈夫かなー」
「ああでもしないと。菖はエロいことにうとすぎるし、剣崎に至ってはほんっと、意気地ナシだし」
 歩乃香はアイスティーを飲む千緒に言った。
「しかし剣崎ってさ、わかんないよね」
「なにが?」
「反応してんのかどうか」
「明らかに菖見て反応しとったやん?」
「違う違う、そうじゃなくて。ここ」
 千緒の股のあたりを指した。
「男って見てるとわかるもんなのよ、大きくなってるの」
「ええっ?」
 驚いた千緒はゴホゴホと咽せてしまう。
「学校とかでもよく見るよ」
「嘘でしょ?」
「ほんとほんと。でもアイツはさ、菖といても反応してなさげ」
「えっちなことに剣崎も興味がない、とか?」
「それもあるかも」
 でもさっきの剣崎の態度は、完全に菖のことを性的欲求のある目で見ていた。
「もしくは……アイツのすっごい小さいか」
「私も経験ないから、それがどのくらいなんかわからん」
 歩乃香は「失礼しました」と舌を出して笑った。


 部屋の扉からほんの少しだけ灯りが漏れていた。僕は躊躇ったが、扉をコンコンとノックする。
「菖? 開けて?」
 扉がさらに少しだけ開いた。菖がしかめっつらで一瞬迷いの顔を見せたが、どうぞと部屋の中へ入れてくれた。黒い羽織を着ているものの、ファスナーは閉められていなかった。菖の大きめな胸の谷間にどうしても目がいってしまう。
 菖は扉をガチャリと完全に閉めた。江藤さんのさっきの言葉に、期待感を抱いてしまう。僕は心の中で舌打ちをし、消し去ろうとした。今ここでしたら、あのふたりに何を言われるかわからない。
 初めて菖の家に来たのも束の間、こんなことになろうとは。
 見渡した菖の部屋はモノトーンでシンプルな作りながら、CDや本などでごちゃごちゃとしていた。奥のベッドは薄い紫色と黒色でまとめられていて、僕のあげたシャチのぬいぐるみが横たわっている。枕元には第2ボタンを首に下げた黒猫のぬいぐるみも、ちょこんと座っていた。
 机の前に立つ菖の横には、絵を描くときに立て掛けて使うような、変わった台が置かれていた。椅子もある。斜面の部分にはマスキングテープで紙が貼られていて、人物のデッサンの途中であろう絵が描かれていた。
「それね、ほんとは建築で使う……図面とか書くときに使うやつ。ドラフターっていって、簡単にいうと製図台やね」
 菖はそっとデッサンの部分を触った。
「パパが建築の仕事しててさ、本当は建築科がある工業高校に行こうと思っとった」
「そうなの⁈」
 初耳だった。菖は胸に手を置きながら、ドラフターの前に座った。よく見るとドラフターには定規のようなものもついていた。
「でも色々あって行けんくって、南陽高校にしたんよ。今では絵も、ここで描いたりする」
 そしてくるっと椅子を回して僕のほうを向いた。
「あたしはさ、剣崎みたいに夢とかもないし、得意なもんも何もないんよ」
 ハレンチな服を着たまま何を言いだすのか。
 そんなことないよ、と言いたいのに簡単に返せない。菖はそのままでいいと前にも伝えていた。
 菖は立ち上がってベッドに向かい、シャチを抱き締めながら僕に背を向けた。
「剣崎にあたしは、ふさわしくない……気がしてる」
 聞いた瞬間、僕はすごく苛立った。ムカついた。何それ?
 つかつかと菖の元へ行く。菖は振り向き驚いた拍子で、ベッド脇にすとんと腰を下ろした。
「あのさぁ」
 すっごくすっごくムカついていた。僕の声は自分でも驚くぐらい低くなり、歯ぎしりまでしそうになる。菖の前に片膝をついた。
 あまりに近い距離だからか菖は身体をビクッと震わせ、僕から逃れるかのようにベッドの上で後ずさった。僕もベッドの上で四つん這いのようになり、菖ににじり寄る。後ずさる菖は、背中を壁につけた。体操座りのような菖の膝を掴んだ僕は、菖を逃がさないように右手を壁に置いて困っている目を見つめた。
「わかってなさすぎる」
「な、何が?」
 菖は追い詰められた獲物のようだった。
「僕が稀なだけ。夢があるとか夢がないとか、そんなん関係ない。夢に向かってる女の子が好きとか、僕、言ったことある?」
「……ないけど」
「ふさわしくない? ふざけんなよ」
 僕の言葉遣いに菖は目を丸くした。しまった。僕は下を向いた。菖の谷間と可愛い膝が見える。はぁ。こいつはほんと、わかってなさすぎる。深呼吸して僕は続けた。
「それはね、僕が決めることなの。嫌がらせに立ち向かう女の子ってそんなにいる? 僕は、菖しか見たことない」
「だからそれはたまたま……」
「それに僕が今どれだけ我慢してるか、どうして我慢してるか、わかってんの?」
 あきらかに動揺した菖は「ががが我慢?」と小声で呟いた。
 僕が菖をどれだけ好きなのか、今すぐわからせてやりたかった。今はまだ、伝えるべきじゃない。でももうわかってんだろ、わかれよ、菖!
 菖が困った顔で頬に手を当てた。その手はいわゆる萌え袖になっていて、大きめの羽織のせいだとわかっていながらもつい、可愛いなと見惚れてしまう。
 普段は饒舌でうるさい菖は、僕とふたりきりだとこんなに可愛い。僕だけの菖にしたい。こんなに近くにいるのに。
 ふさわしくないって言われた僕って、なんなの?
「菖」
「は、はい」
 怯えたような目の菖だが、決して嫌そうな目ではなかった。むしろ熱を帯びているように見えた。
「僕のこと、僕がすること、菖が嫌なら引っ叩いて阻止していいから」
「えっ?」
「顔に傷つけられんのは嫌だけど」
 僕はさらに菖ににじりよる。おでこがくっつきそうだった。菖はもう逃げられなくて、少しだけ身体をひねる。
「それとも、する前に訊いたほうがいい?」
「意味わかんない。訊くって、どういうこと?」
 不思議そうに僕を見つめてきた。我慢を解放して、ぶちまけたくなる。
「例えば。今ここで、菖の身体にくちづけていい?」
 菖の頬が赤くなる。目がさらに潤んで、僕の視線から逃げた。僕はその視線を追って睨んだ。
「いい?」
「わ、わかんない……」
 かろうじて振り絞ったような声を出した。たまらないんだけど。
 僕は菖の谷間から覗くちいさなほくろに、一瞬だけキスをした。
「‼︎」
 ビクッとのけぞった菖の顔は真っ赤で、抱き締めてあげたかった。でも僕は身体を起こし、ベッドから降りた。
「これからも嫌だったら、引っ叩くなりしてほしい。嫌だって、ちゃんと言ってほしい。僕のこと、叱ってほしい。こういうとき」
 黒猫とシャチのぬいぐるみが笑っているように見えた。キミたちはいいよね、菖と寝れるんだもの。
 菖は赤面して固まったままだった。背中を向けると、弱々しい声がした。
「あたし……嫌じゃないもん……ただ、なんか、わからんし、はずいし。する前に訊かれても、それはそれで、困るし……」
 押し倒してやろうか? 僕は嬉しいのにそんなことを考えてしまう。ベッドに座っていた菖はそこで立ち上がった。
「ねえ! ちょっとは可愛いって思ってくれた?」
 恥ずかしい雰囲気を変えようとしているのが手に取るようにわかった。
「当たり前でしょ? 可愛すぎて、僕のこと悩殺したいわけ?」
「のーさつ?」
 首を傾げる菖は本当に可愛かった。我慢できなくなりそうで、僕は菖が羽織っているファスナーを首元まで上げた。黒いワンピースを着ているようにも見える。
「いつかまた、この衣装、着てくれる?」
「う、うん?」
 今度は反対側に首を傾げてくる。
「そのときは覚えておいて。容赦しないから」
 きょとんとした顔をしている。僕の我慢についてはわかってなさそうだな。でも拒まれなかっただけ良かった。引っ叩かれる覚悟だった。
 菖の柔らかくて大きな谷間に、僕がキスをしたことは紛れもない事実だ。
 菖がトンッとベッドから飛び降りてドラフターの前に立った。
「これね、剣崎が滑ってるとこ描いてんの」
 ニコニコと笑って僕を見てくる。あのデッサンは僕だったのか。確かに似たようなポーズで、ステップするところがある。
 部屋の壁をよく見ると、友達との写真の近くに僕との写真が5枚、別枠で飾ってあった。


 菖は送ると言ってくれたけど、ひとりで帰ることにした。部屋を出る前に、菖の少し乱れた髪を指で梳き頭をポンポンと触った。
「ちゃんと着替えてね? あと、ほかの人には絶対に見せないこと」
「うん! わーってるって!」
 恥ずかしそうな顔でぴょんぴょんと跳ねた。僕が頭や髪をなでるとき、菖はいつも照れている。いつしかそんなことも少なくなっていくのだろうか。寂しくも思うし、そのときにはきっと、別の楽しみも生まれているのだろう。
 じゃあまたね、と扉を閉めて廊下を歩いた。菖の家は必ずリビングとキッチンを通る作りになっている。案の定、江藤さんが「来た来た」とリビングから手を振った。来た来た、じゃないよ、ほんと……。
「どうだった? やれた?」
「んなこと今するわけないでしょ」
 ふたりが座る床に、僕も座った。リュックやウィンドブレーカーを手元に寄せて、長居するわけではないことをアピールする。
「菖の猫ガール、最高やった?」
 篠宮さんがスマホを見せてきた。僕が来る前にも撮っていたらしい。
「最高すぎてやばかった。篠宮さん、それ全部送って」
 爆笑する篠宮さんの隣で、江藤さんが笑いながら肩を叩いてくる。
「菖もあんまり剣崎のこと悩んでなさそうだし、うちらがくっつけてあげようって思ってね。お色気作戦したんだ」
 余計なお世話です、と心の中で呟いておく。
「悩んでたら絶対に教えて」
 真剣な僕の顔を見てふたりはまた笑いだした。
「菖って剣崎のこと好きなんやろけど、言わんからわからんのやよね」
漢気(おとこぎ)溢れててかっこいいしね、菖」
「そう? 菖、僕の前では可愛いよ。よく照れるし、泣いちゃうし」
「ええっ?」
 ふたりが叫んだ。
「あ、菖って、泣くの……?」
「私も、泣いた菖って見たことあらへんかも」
 どうやら意外なようで、秘密にしておいたほうが良かったのかも。ごめん、菖。
「でもさっき部屋で、菖にふさわしくないとか言われたんだよね……はぁ」
 思い出してしまって、重い溜息が漏れてしまう。テーブルに残っていたレモン水をぐいっと一気に飲み干した。
「え、剣崎が?」
「菖自身が、僕にふさわしくないだろって」
 レモン水の爽やかさと、ほんの少しの甘さが僕を癒してくれる。これ、ほんと美味しいな。菖が作ってそうだった。
 ふたりは腕組みをして考えていた。
「やっぱりさ、菖は女としての自信がないんじゃないかな」
「うーん。おっぱいあるのに?」
「だからこのお色気作戦を、仕掛けたわけなんだけど」
 お色気作戦という言葉でクスクスと、またふたりは笑いだした。
「でもそんなさ、自分はふさわしくないかもって言うなんて、そんだけ菖にとって剣崎は特別なんやろね」
「で、なんで付き合ったりしないのかってなるわけよ」
 うるさいなぁ。僕は立ち上がった。ふたりは、あーでもないこーでもないと何やら話している。心の中で、ごちそうさまと挨拶をした。帰ろう。
「ねぇ、剣崎って性欲ないの?」
 背後から江藤さんの直球ストレートが飛んできた。振り返ると、篠宮さんが顔を赤くして「ほのちゃん!」と江藤さんの腕を揺さぶっている。
「……あるけど?」
 菖にだけしか起きないけどね。そこまで言ってやろうかとも思ったけど、菖に知られるのはまだ恥ずかしい気がしてやめた。
「あるんだ! 思ってたのよね、わかりにくいなーって。剣崎の、下半身」
 僕はまた薄目で江藤さんを睨んだ。この恋愛マスターは、そんなことまでチェックしてるんだ?
 スケートの先輩でもいるんだよなぁ、下半身事情を気にしてくる人。その人は自分の股間の大きさを自慢してくるタイプだけど。
 練習着や衣装は、身体に沿うラインのものを選ぶことが多い。男性の下半身の膨らみを揶揄されることが少なからずあった。ちなみに女性に対しては、もっと酷い。
「僕、中学のときからガードするようなやつ履いてるから」
「え? アレを?」
「ガード?」
「今は学校でも履いてるし、わかりにくいんだと思う」
 驚いたままのふたりに手を振って、菖の家を出た。双葉駅で電車に乗ると、また胸がドキドキしてきた。僕は目を瞑り、このわずか30分で起きた出来事を思い返していた。
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