第32話

文字数 2,808文字

 きのうは砂を噛むような夕食を食べ、落ち込んだ気分をビールで紛らすつもりが酔いもせず、早々に寝た。
 今日もその気分を引きずっていた。肉体も精神も疲労はピークだった。
 なにも終わってはいないし解決もしていなかった。振り出しに戻っただけだった。片山優子のすべてを調査するつもりが、なにもわからないままあえなく頓挫してしまった。
「お父さん」
 奈緒子がデスクでぐったりしている私のところに顔を出した。
「北海道に行ってきたの?」
 朝のお茶を持ってきた原田洋子に、みんなで食べるようにと新千歳空港で買った菓子のみやげを手渡したが、そのひとつを手に電話を終えた奈緒子がやってきた。
「札幌に行ってきた」
「いつ?」
「土曜だ」
「仕事なの?」
「そうだ」
「ふーん、大変ね」
「そうだ。お前に聞きたいことがある」
 戻ろうとしている奈緒子を引き止めた。
「なに?」
「ある男性が恋人である女性にプロポーズをした。だが女性は男性のことを好きなんだがうんといわない。なんでだと思う?」
「なによ。藪から棒に」
「お前に意見を聞きたいと思ってな」
「弁護士としてではなく?」
「そうだ。私の頭をやわらかくしてくれ」
「同性としての意見よね?」
「そうだ」
「わかったわ。そうね……その女性は本当にその男性のことを好きなのかしら」
「好きだ」
 きっぱりと言い切れないが、そういうことにしておく。
「支障があるんじゃない。男性側かもしくは女性側に。たとえば大反対をしている家族がいるとか。あるいはどっちかにものすごい借金があるとか」
「どっちの側も支障はない」
 そういうことにしておく。
「では、男性に甲斐性がなくて結婚してもこのさきまともな生活が送れないとわかっているとか」
「それもない」
 その反対だ。いわゆる玉の輿だ。
「男性に二股疑惑があるとか」
「ない」
 むしろ敦夫は片山優子に一直線だ。
「どっちかに過去に犯罪歴があるとか」
「ないな」
「家にものすごい格差があるとか。つまりいっぽうが大金持ちで、もういっぽうが極貧の場合ね」
「大昔ならいざ知らず、きょうびそんな理由で結婚を諦めるか。むしろ喜んで結婚するんじゃないのか」
「そうね。ではその男性からのDVは考えられない?」
「それはないな。あり得ない」
 敦夫に限ってそれはないだろう。
「男性恐怖症というのは?」
「それも考えづらいな」
「そうね。もしそれがあれば最初から付き合わないものね」
「つまり、その男性がいくら考えても相手の女性が承諾しない理由がみつからないんだ。もちろん理由を聞いても女性はだんまりだ」
「それなら、その女性は人にいえない秘密があるんじゃない。そのため踏ん切りがつかないのでは。その秘密はなに、と聞かれても困るけど」
「それはある」
「え、あるの」
「あるけど、男性はすべて承知でプロポーズをしている」
「だけど、女性はうんといわない」
「そうなんだ」
「ふーん……そうなったらもうそれは呪いしかないわね」
「呪い?」
「結婚してはいけないという呪いがかかっているのよ」
「おい、おい」
「ごめんなさい。茶化しているつもりはないのよ。それなら呪いを呪縛と言い換えてもいいわ」
「なにからの呪縛だ」
「肉体的な衝撃か精神的な衝撃。つまり虐待ね。肉体的な暴力もあれば言葉の暴力もあるわ。それが強いストレスになっているのよ。過去になにかがあったんじゃない。それで心に傷を負ったのね。心になにか大きな闇を抱えているような気がするわ。それを解き放さない限り一歩を踏み出せないかも知れない……」
 呪縛。マインドコントロール。トラウマ。そんな言葉が頭のなかを駆け巡る。そのとき、ある言葉を思い出した。
 幸せになったらある人に申し訳がない。
 片山優子が川口真理にいった言葉だ。
 被害者側となった親友への償いの気持ち。
「いまの案件に関係しているんでしょう。なんだか複雑そうね」
 違う。複雑なんかじゃない。複雑に考えていただけだ。単純だったんだ。答えはすぐそこにあった。すべてはこの言葉だった。
「お父さん。大丈夫?」
「ああ、ありがとう。参考になったよ」
「その女性は男性のことを本当に好きなんだと思うわ。だって大きな問題を抱えてもお付き合いをしているんでしょう。でも最後の一歩が踏み出せない。大事なときに彼女をとらえて離さない大きな闇が表に出てきて邪魔をしているのよ。おそらく切なくてずっと苦しんでいると思うわ……私にできることがあればいってね。力になるわ」
「ありがとう」
 奈緒子が自分のデスクに戻って行った。
 手帳を開いた。川口真理から聞いて控えた浦上晴子の電話番号をさがした。
 しばらく待たされて浦上晴子が出た。
「土曜にお邪魔をしました佐分利です。その節はありがとうございました」
「ああ、あのときの。遠いところご苦労さまでした」
「いまかまいませんか」
「ええ、大丈夫です。それでご用はなんでしょう」
「板垣千賀さんのもとの旦那さんはたしか山中聡一さんですよね」
「はい。そうです」
「年賀状がきていたとか」
「結婚しているときはきていましたよ」
「その年賀状に電話番号は書いてありましたか」
「電話番号ですか……そうですね。あったような気がします」
「申し訳ないですが、もしあれば教えていただけないでしょうか」
「それは重要なことなんですの」
「はい。とても」
「わかりました。ちょっとお待ちください」
 バッハの〈メヌエット〉が流れている。耳慣れたその曲は、私に落ち着けていっているような気がした。
 五分ほどその保留音を聞いた。もう十分に落ち着いていた。
「もしもし。お待たせしました。六年前の年賀状ですけど、ありましたわ。いいですか。読み上げますよ」
「はい。よろしくお願いします」
 二度復唱して手帳に控えた。それは都内を示す固定電話の番号だった。電話を切ったあと、私の頭のなかで保留音はいつまでも鳴っていた。

 午後七時。自宅から山中聡一に電話をした。出なかった。彼が会社員だった場合はまだ帰っていない可能性がある。
 午後八時。まだ出ない。彼が会社員だった場合は残業をしている可能性がある。もしくは帰りに飲み屋に寄っている可能性がある。
 午後九時。出た。本人だった。訝しがりながらも電話を切られなかったことに感謝をしつつ、簡単な自己紹介のあと、板垣千賀さんのことで会って話をしたいと伝えた。私の真摯な態度に好感を持ったのか、それとも面倒だったから早く切りたかったのか、それはわからないが、なんとか会ってもらえることになった。日時は明日の午後六時。場所は東京駅八重洲口地下街のレトロな喫茶店を指定した。〈アエラ〉を目印にジジイをさがしてほしいと伝えた。
 この夜、私は久しぶりに泥のように眠った。
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