第12話

文字数 3,686文字

 いつものようにアラームで起き、いつものようにテレビをみて、いつものようにトーストを食べ、いつものように新聞にざっと眼を通し、いつものように時間になったので家を出ようとした。だが気が変わった。久しぶりに掃除機をかけた。ついでに洗濯もした。ほったらかしにしていた庭も気になった。猫の額ほどの庭に行き、雑草を抜いた。そのあと、遅れついでにコーヒーを飲んだ。そして一時間半遅れで家を出た。

 隣の法律事務所は相変わらず忙しそうだった。奈緒子は外出で、原田洋子と伊藤綾子は電話中だった。隣の喧騒が嘘のように静かなわがエリアにおさまった私は、バッグから携帯と手帳を出し、デスクの前のソファーに座った。
 手詰まりだった。倉持からは調査の続行を依頼されている。しかし次の一手が浮かばない。いっそのこと片山優子に問いただしてみようか、などと突飛な考えが頭をよぎる。
「おはようございます」
 電話を終えた原田洋子がお茶を持ってきた。行き場のない思考が停止した。
「おはよう」
「今日は遅いんですね」
「たまにはね。そうだ、ご亭主が入院なんだって?」
「胆石です。無事に手術も終わりました」
「それはよかった」
「おかげさまで。あと五日もすれば退院です」
「そんなに早く?」
「腹腔鏡手術でお腹に三か所穴を開けるだけですので、簡単なものです。本人は胆嚢を取って体が軽くなったのか、これで脂身の多いものが食べられるといって大喜びです。まったく呆れたものです」
「ははは、そいつはいいや」
「佐分利さんはどうなんです。お体のほうは?」
「私は大丈夫だよ」
「ひとりだとなにかと大変ですよ。そろそろどうなんです。お考えになったらいかがです」
 この前も所長から高齢者用の会員制集団見合いをすすめられた。冗談じゃないと断った。そのとき、いきなりドアが開けられ、その本人が入ってきた。
「おもしろい話でもしているのか」
 所長が大きな声を出した。相変わらず騒々しい男だった。しかし褒めてやりたいほどのタイミングだった。
「おや、所長さん。お元気そうですね」
「これは久しぶり。相変わらず美人だね。おっと、これはもしかするとセクハラになるのか」
「もちろんセクハラですよ。でも所長さんだから大目にみます」
「そいつはありがたい」
「所長さんはお茶でいいですか」
 原田洋子が笑いながら聞いた。
「ありがとう。でも、すぐに出るからいいや」
 原田洋子が自分のデスクに戻った。
「今日は奈緒子先生はいないのか」
「外出中だ。娘がいたら間違いなくセクハラで追い出されていたよ」
「くわばらくわばら」
 所長は大袈裟に首をすくめた。
「ところで今日はなんだ?」
「手は空いているか」
 調査の依頼にきたらしい。
「残念だが続行中だ」
「例の秘書の依頼だな」
「まあ、そうだ」
「わかった。手が空いたらいつでもいいから顔を出してくれ」
「ああ、そうする」
「ちょっと出られるか」
「わかった。コーヒーでいいか」
 所長がうなずいた。
 事務所近くのコーヒーショップに入った。ここのコーヒーショップは倉持と待ち合わせで使う店ではない。駅から離れているのでそれほど混雑はしていない。私たちはそれぞれ注文したコーヒーを受け取り、奥のテーブル席に座った。昼食前の時間帯のせいなのか混んではいなかった。
「実は、例の秘書の倉持雄治をちょっとばかり調べた」
「やはりそうか」
 仕事の依頼よりもこの話をするためにきたのが本筋のようだ。
 倉持はツテを頼って所長のことを調べている。それを知った所長は逆に倉持を調べる気になったらしい。所長から倉持雄治の名前を聞かれたときにそんな気がしていた。
「懇意にしている記者からいろいろと聞いた」
 コーヒーをひとくち飲んだあと、所長はいくぶん声を落とした。
「倉持雄治だが、記者仲間での評判は悪くない。非常に優秀で忠実な秘書らしい。彼は政策秘書で公認会計士の資格も持っているようだ。そんなこともあって、本郷一郎からは絶大な信任を得ているようだ」
「ほう、そうなのか」
 記者仲間から評判がいいとは意外だった。
「本郷一郎に物言える数少ないなかのひとりなんだってさ」
 あの倉持ならボスにズケズケと意見もいえるかも知れない。
「ただ……」
「ただなんだ?」
「少々厄介な人物なんだとさ。気むずかしくて、頑固で、融通が利かないらしい。彼は心許せる人物だとわかるまで一歩も引かない、との評判だ。ただ、裏表がないところが記者仲間から一目置かれているようだ」
 上から目線の高圧的な態度も、頑固で融通が利かないといいかえれば納得する。
「ついでにボスの本郷一郎のことも聞いた」
 所長ならおそらくそういう展開になる。予想どおりだ。
「知っていると思うが、前の幹事長で派閥の長だ。党の実力者だな。
年齢は六十八歳。家族は奥さんと子供がひとり。子供は本郷敦夫。三十五歳。いまをときめく青年実業家だ。たしか、本郷敦夫は奥さんが亡くなっていて小さい娘がいたと思う」
 そういうことは知っている。だが私は言葉に出さずに静かにうなずいた。
「本郷一郎だが、警察官僚出身で警察関係に顔が利く。だから俺のことを調べようとすれば簡単なわけだ。だがな、俺を調べたのはついでのような気がする」
「私が本筋だというんだろう」
「そうだ」
「多分そうだろう。いま調査している案件を依頼するうえで、私のことを知っておきたいと思ったんだろう」
「案件の内容は聞かないが、政治家がらみは気をつけるに越したことはない。ヤバイと思ったらすぐに手を引いたほうがいい」
「わかった。肝に銘ずるよ」
「……それで本郷一郎なんだが、実はオフレコ情報がある。記者がそっと教えてくれた。どうやら彼には健康不安説があるらしい。心臓に爆弾を抱えているんだとさ」
「本当か」
「本当らしい」
 それで敦夫を後継者にと急がせたわけか。
「まわりが本郷敦夫を担ぎ出すのではないかと、記者連中がかまびすしく噂しているようだ」
 いまの案件はそれに関係しているんだろう、といわんばかりに所長がニヤリと笑った。私もつられてニヤリと笑った。所長にはかなわない。さすがにもと警視庁の敏腕警部だ。
 話が途切れたところで私たちは同時にコーヒーに手を伸ばした。そこでようやくまわりをみる余裕ができた。店内は前よりもやや客は増えていた。
 いつのまにか所長が指でそっとサインを送っていた。私が気がつくと何気ない顔でささやいた。
「振り向かないでくれ。道路に面した隅の席にいる男なんだが、さっきから視線を感じる」
 所長からはみえているが、私からは背中なのでその男はみえない。
「喉が渇いた。水をもらってくる」
 私はカウンターに行き、店員に水を要求した。水が入ったふたつのコップをもらって戻るときに、男をそっと盗みみた。
 横顔がみえた。黒のスーツを着た二十代半ばの大柄な男だった。髪はスポーツ刈り。こけた頬と大きな鼻が特徴だった。男の視線は手に持ったスマートフォンに向いていた。
 席に戻り、水が入ったコップをテーブルに置いた。
「いつからいる?」
 私もささやいた。
「われわれが入った直後だ。間違いない。実をいうと、サブやんの事務所を出たときにも近くにいたような気がする」
「本当か」
 所長はうなずくと水をひとくち飲んだ。
「われわれが気がついたこと、やつはわかったかな」
「わからん。でもこちらに神経を集中しているのを感じる」
「所長がそういうんだから間違いないな」
「問題はターゲットだ。俺か、サブやんか」
「そうだな」
「どうも嫌なニオイがする。俺の勘だが、その筋のニオイだ。どうも真っ当な人生を歩んでいるようにはみえないニオイだ。どうだ、なにか心あたりはあるか」
「思いあたることはないが……そういえば……」
「どうした?」
「実をいうと、おととい、きのうと、事務所から家に帰るとき、つけられているような感じがした。はっきりとみたわけではない。そう感じただけだ」
「ふーん、そんなことがあったのか……ただ、サブやんがターゲットとは限らない。まあ、いずれにしても、用心するに越したことはない。充分に気をつけてくれ」
「わかった」
私たちは同時にコーヒーを飲み終わり、同時に立ち上がった。店内は客が増えてきたせいなのか、なんだかざわついていた。大柄な男をそっとみると、まだ手もとのスマートフォンに眼を落としていた。
 コーヒーショップを出たところで立ち止まり、私は所長に声をかけた。
「くれぐれも無理はしないでくれ」
 もしかしたら大柄な男をマークするのではと思い、私なりに注意した。
「大丈夫だよ。俺も歳だ。無理はしないよ」
 所長は私のいわんとするところを理解してそういった。
「じゃあ、ここで別れよう。俺は事務所に戻る。サブやんはどうする?」
「私も戻る」
「しつこいようだが気をつけてくれ」
 所長の言葉を背に私は事務所に戻ることにした。
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