序章

文字数 2,521文字

 このところ暖かい朝が続いていたが、今日は二月らしい寒い朝になった。天気予報では、最高気温が八度だという。今日も乾燥注意報がでるのだろう。雨は当分期待できそうもなかった。
 マンションに着いたのは八時だった。遅くなったのは、はじめての場所だったのと、家を出たのがちょっと遅れたためだった。だが焦ることはなかった。じっくりと腰を落ち着けて、いろいろな時間のパターンを試してみるつもりだった。それよりも問題は、板垣千賀がまだここに住んでいるのかどうか、だった。
 三階建の小さな古いマンションだった。五年前までは住んでいました。山中聡一はそういった。都内の総合病院にいまもいるかどうかはわかりません。山中聡一はそうもいった。こればかりは運しだい。駄目だったならまた考えればいい。そう思った。
 マンションの玄関のガラスドアを開けてなかに入った。誰もいない。右手に郵便受けがあった。九個あるので九世帯住んでいるようだ。さりげなく名前を確認した。左側の真ん中に〈板垣〉のネームプレートを発見した。思わず安堵のため息が出た。
 奥の階段付近から足音が聞こえた。誰かが下りてくるようだ。急いでガラスドアを開けて外に出た。少し移動して立ち止まり、携帯を出して耳にあてた。電話をしている通行人を装った。視線はマンションの入口だ。
 女がマンションから出てきた。山中聡一のスマートフォンに残っていた板垣千賀の写真をみたのはおとといだ。それはまだ鮮明な記憶として残っている。
 板垣千賀だ。確信した。みせられたのは五年以上前の写真だが、すぐにわかった。どことなく寂しげな表情の写真の主は、私の横をゆっくりと通りすぎた。
 中肉中背。ベージュのコートに同色のマフラー。バッグは茶色だ。どうもブランド品ではないようだ。髪の長さはうなじの辺りまで。眼鏡はかけていない。化粧は濃いようにはみえない。色白のようだ。全体の印象は地味で歳相応の感じ。実際の年齢は三十三歳のはず。  私は携帯をポケットに入れ、彼女の背中をみながら歩調を合わせた。
 小さな公園とコインパーキングをすぎると表通りに出た。曲がり角にコンビニがある。右折すると地下鉄の新高円寺駅があり、左折するとJRの高円寺駅がある。彼女は左折した。
 このまま駅に行くのだろうか。その可能性は高い。特に急いでいるわけではない。サラリーマンが彼女を追い越していく。前方に総武線の高架がみえる。彼女は床屋とラーメン屋をすぎたさきの横断歩道で立ち止まった。横断歩道を渡って反対側に行くようだ。歩行者用の信号が青になった。板垣千賀は横断歩道を渡って反対側に移り、そのまま前方の狭い通りに入った。そして最初の曲がり角で左折した。本当に駅に行くのだろうか。なんだか遠回りのような気がする。
 ビルの一階を占めているスーパーマーケットをすぎた。駅前ロータリーは眼の前だ。手前で右に曲がった。なぜ曲がったのかすぐにわかった。彼女は道路沿いにある建物の通用口に消えた。看板があった。九十九内科クリニックとあった。板垣千賀はここに勤めているようだ。正面玄関脇のガラス窓に、診療時間が書いてあった。午前九時から午後六時だった。診療時間が午後六時までとすると、そのあと片付けをするにしても、六時半か遅くとも六時四十分には、帰宅すると読んだ。私は出直すことにした。

 六時にクリニックの前に着いた。クリニック横の脇道を挟んだところにコンビニがある。ここからは、クリニックの玄関と通用口がよくみえる。私はひとまずコンビニに入り、玄関と通用口がみえる位置にある雑誌売り場に立った。
 眼についた週刊誌を手に取り、立ち読みを装いながら、視線はクリニックに向けた。
 六時二十分になった。患者が玄関から出てきた。最後の患者だろうか。スタッフの帰宅は、あと二十分あとになると予想した。
 さすがに足が疲れてきた。私以外にふたりの男が雑誌の立ち読みをしていたが、もういない。そろそろ場所を変えたほうがいいのか。そんなことを考えながら時計をみると、六時四十分だ。そのとき、スタッフのひとりが通用口から出てきた。板垣千賀ではない。そのあと、時間を空けずに次々とスタッフが出てきた。板垣千賀は五人目にいた。私は週刊誌をもとの棚に戻し、ゆっくりとコンビニを出た。
 板垣千賀はロータリー手前で同僚たちとは別れた。同僚たちは駅に向かうようだ。彼女はひとりで左に曲がった。
 冷たくて強い風が吹いた。彼女は首をすくめ、マフラーを直した。私はマフラーをしてこなかったことを後悔していた。
 朝に前を通ったスーパーマーケットに彼女が入った。私も続けて店に入った。彼女は買い物カゴを手にとって、パン売り場に向かい、食パンをかごに入れ、その横の売り場から牛乳パックとヨーグルトを選び、すぐにレジに並んだ。私はなにも買わずに出入り口に向かった。
 さきに出てきた私が、出入り口の脇にある自動販売機を眺めていると、板垣千賀が店から出てきた。手にはビニール袋を提げている。そこでいったん立ち止まり、空を見上げて寒そうな表情をみせた。そしてビニール袋を持ち替えて、ゆっくりと歩き出した。特にまわりを気にする素振りはない。私は少し間を空け、続いた。
 横断歩道手前で彼女が立ち止まった。歩行者用の信号は赤だ。私はそのうしろに並んだ。あたりを見回すと、十人ほどが立ち止っている。大きな買い物袋を提げている若い夫婦がいる。妻がなにやら小声で夫に話している。夫はただうなずいている。板垣千賀はその夫婦をぼんやりとみている。
 信号が青になった。人たちがいっせいに動いた。私たちも動いた。板垣千賀は私に気づいている様子はない。相変わらず淡々とした歩みだ。途中、ビニール袋を持ち替えたときに、ため息をついたような気がした。私の気のせいかも知れない。いつしかまわりは彼女と私だけになった。少し間隔を空けた。マンションはもう眼の前だ。
 私は腹を決めていた。明日は二月の二十八日。話すのなら明日だ。
 板垣千賀は、明かりのない二階の左側の窓にちょっと眼をやり、マンションの玄関のガラスドアを開けてなかに入った。私はそれをみてから踵を返した。
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