第6話

文字数 4,031文字

 事務所に戻ると原田洋子は電話中だった。奈緒子と伊藤綾子は外出しているようだ。私は相変わらず切ない悲鳴を上げるデスクの椅子に座り、ゆっくりと新聞を広げた。
 今日も、強盗殺人やひき逃げや虐待やらのろくでもない事件で紙面は賑わっていた。うんざりしながらそれらを読み、スポーツ面を読んだ。
「佐分利さん、戻っていたんですか」
 奈緒子の法律事務所とわが探偵事務所を仕切るように立っているカーテンパーティションから、顔だけこちらに出した原田洋子が、そう声をかけてきた。
「少し前にね」
「お茶を飲みますか」
「コーヒーを飲んできたからいいよ。なんだかそっちは静かだね」
「先生と伊藤さんは外出です。今日は戻らないそうですよ」
「もしかしてテレビ?」
「ええ、先生は最近忙しくて」
「いいことなのかねえ」
「先生は本業もきっちりこなしてますから大丈夫ですよ」
「そうかい」
「佐分利さんは今日の仕事は終わりですか」
「このあとまた出かけるんだよ」
「大変ですね。私は外出してそのまま帰りますけど」
「わかった。電話番と戸締りはやっておくよ」
「すみません。じゃあよろしくお願いします」
 原田洋子が外出した。時計をみた。古谷によると、敦夫が会社を出るのは午後八時ごろらしい。まだ時間はある。
 雨が降り出してきたようだ。風の音も聞こえる。私は携帯をズボンのポケットに入れ、法律事務所側にある会議室に行き、唯一そこだけにあるテレビをつけた。
 ちょうどニュースの時間だった。アナウンサーが興奮した声で、北朝鮮が弾道ミサイルを飛ばしたと話していた。弾道ミサイルの画面にかぶさるようにアナウンサーは、外務省は北京の大使館ルートを通じて抗議をおこなったと話し、次のニュースに移った。
 少し前からなんとなく胸騒ぎがして、嫌な感じがしていた。口のなかが乾き、心拍数も上がっているようだ。いましがたのニュースのせいではない。私は悪戯にリモコンのチャンネルボタンを押しては画面を切り替えていた。胸騒ぎは、消えるどころかますます大きくなっていった。私は立ち上がってテレビを消した。出かける時間までまだ二時間あるが、急いで戸締りをして事務所を出た。

 新宿Aタワーの二階に着いたところで時計をみた。まもなく六時だ。もし予感が外れたら、ここであと二時間は待たないといけなくなる。そうなると不審者としてマークされ、警備員も黙ってはいないだろう。今後のここでの張り込みも当然支障をきたすだろう。これは危険な賭けだった。
 訪問者用のソファーに座ってエレベーターを睨んでいた。ひっきりなしにエレベーターの扉が開き、どっと人が降りてくる。半端な数ではなかった。見落とさないように必死で顔を追う動作を繰り返した。
 心臓が早鐘を打った。目当ての顔がエレベーターから現れた。予感はあたった。着いてから十五分も経ってはいなかった。
 本郷敦夫には連れがいた。昼飯のときにみた男だった。やはりこの人物は木村専務のようだ。私はふたりに気づかれないようにカメラのシャッターを切り、ふたりのあとを追った。
 木村専務らしき男はときおり敦夫の顔をみては話しかけている。敦夫もそれに返事をしているようだ。なにを話しているのだろう。ふたりに笑顔はない。
 新宿駅の改札まできた。ふたりは改札を入るとすぐに言葉を交わして左右に別れた。敦夫は山手線で、木村専務らしき男は中央線に向かった。私はもちろん敦夫のあとを追った。
 ちょうど山手線がホームにすべり込んできたところだった。乗車位置をずらして乗った。敦夫はドア横のつり革につかまった。私は反対側のドアに寄りかかり、横目で背中をみる体勢を取った。車内は結構混んでいた。
 渋谷で大勢が降りた。ちょっと油断をしていた。敦夫が降りて行く。慌てて最後尾で降りた。
 新宿寄りの階段を下り、改札を出た。ハチ公口だった。まだときおり強い風が吹くが、幸い雨は上がっていた。相変わらずこの街は人で溢れていた。
 人で溢れかえるスクランブル交差点を渡った。人たちはぶつからないように巧みに歩いていた。私は早足で前を歩く敦夫に遅れないようについて行かなければならなかった。
 公園通りに入った。西武渋谷店がある。敦夫の背中をみて歩いて行く。どこまで行くのか。
 交差点を左に入った。井の頭通りだ。西武A館とB館をつなぐ連絡通路の下を通った。いったいどこに向かっているのか。敦夫が早足なので結構きつい。ひと休みしてくれないか、と思ったそのとき、通りにある大きな雑居ビルのなかに突然消えた。慌ててあとを追う。
 あとを追ってビルに入ると、エレベーターの扉が閉まる寸前だった。エレベーターの前にきたときには扉は閉まっていた。すぐに階数表示を確認した。明かりは三階で止まった。それを確認してから上りのボタンを押した。
 三階で降りた。ダーツバーの看板があった。三階はその店だけだった。迷うことなく入った。
 広い店内だった。なかは全体的に暗く、不規則に設置されたスポットライトが照らす場所だけが、浮かび上がってみえていた。まず眼についたのが、コの字型の二十人は座れる大きなカウンター席だった。それを囲むように立ち飲みができる丸テーブルが随所に点々とあった。長いソファー席もある。店の名前のとおり、ダーツマシンが左右の壁際に十台ほど置いてある。店内には三十人ほどの客がいた。まだ混みあう時間帯ではないようだ。
 敦夫はすぐにみつかった。彼はカウンターの真ん中あたりに座って、背中をみせていた。隣に男が座っていた。残念ながら恋人ではなかった。
 カウンター席はそこそこ埋まっていた。ふたりを横目でみえる位置の、一番端の席が空いていた。迷わずそこに座った。バーテンダーがすかさずコースターを眼の前に置いたので、ウイスキーの水割りを注文した。そのあと、なにげなく店内を見回すふりをしながらふたりを横目でみた。
 隣の男は敦夫と同年代だった。なんとなく敦夫と感じが似ていた。高級そうな茶のスーツが似合う細面のイケメンは、あきらかに育ちのよさが雰囲気として体中から滲み出ていた。
 私は店に入ってすぐに、張り込み用に用意してある度がないセルの眼鏡をかけていた。これでも少しは気休めにはなる。このさき、みたことがあるジジイだ、と思われないことを願った。
 隣の男がウイスキーの水割りを半分ほど空けた。敦夫はどうやらウイスキーのオンザロックだ。敦夫も半分ほどを一気に空けた。みているこちらの喉が焼けそうだ。
 ふたりは肩を寄せ合って話し込んでいる。なにを話しているのか。仕事の話か。女の話か。きのうみた映画の話や野球の話でないことだけは間違いないだろう。敦夫が残りのウイスキーを飲み干し、また注文した。なんだかやけ酒のようにもみえる。
 二杯目のウイスキーを敦夫が半分空けたところで、隣の男が敦夫の肩を軽く叩き、すっと立ち上がった。どうするのかと思ってそのままみていると、ダーツマシンのほうに向かった。敦夫は少し遅れて立ち上がった。どうやら気分転換のつもりらしい。
 隣の男がダーツを投げはじめた。敦夫はその横でみている。無言ではない。ふたりはずっと話している。気になった。せめて会話の断片でも聞きたいと思った。思い切って近くの空いている丸テーブルに移動した。
 店内に流れている音楽が邪魔して残念ながら会話は聞こえない。本当はあまり目立った行動は厳禁なのだが、好奇心が勝った。私は隣の空いているダーツマシンに移動した。
「どうしても駄目なのか」
 隣の男の声が聞こえた。怒りとも違う。諦めとも違う。強いていえば投げやりな感じか。
「え?……彼女とドライブ?……よかったじゃないか……え?……そんなんじゃない?……」
 しばらくして、断片的だが、隣の男の声がそう聞こえた。そのあとすぐに敦夫は無表情のままカウンター席に戻った。隣の男もすぐに戻った。当然私も戻った。
 三十分がすぎた。敦夫は四杯目を飲んでいる。隣の男は二杯目だ。会話はあまり弾んでいるようにはみえない。
 ふたりはまだ帰らないと見当をつけてトイレに立った。尿意が限界だった。急いだつもりだった。トイレから戻ってみるとふたりはいなかった。慌てて見回すと、ふたりは出口に向かっていた。大急ぎでバッグを掴み、私も続いた。勘定を払い、店を出ると、まさにエレベーターの扉が閉まるところだった。
 階段を駆け下りた。一階までくると、ふたりはちょうどビルを出たところだった。息が切れて汗が吹き出た。息を整える間もなく、もつれる足であとを追った。
 ふたりは渋谷駅に向かっていた。駅が近くなるにつれ、人通りが確実に多くなっている。見失うことはないが、あまり近づくことができない。ふたりはもう話すことがないのか、淡々と歩いている。
 人波にもまれながらスクランブル交差点を渡った。そのあと、少し歩いてふたりは立ち止った。私はバッグからカメラを取り出してかまえた。
 会話は短いものだった。二言三言言葉を交わしたかと思うと、敦夫は軽く右手を上げて駅構内に向かって歩き出した。連れの男のほうは、敦夫の背中をしばらくみていたあと、駅構内には入らずに右へ向かった。どうやらタクシーを利用するようだ。私は敦夫に追いつくため急いだ。
 敦夫は山手線に乗った。私は隣のドアから乗った。敦夫は座席には座らず、ドア横に立って外に眼を向けている。その表情からは、残念ながら、一日の仕事を終えた充実感はない。あるのは気だるさだけだ。ときおりつく大きなため息が気になる。
 品川で降りた。多くの乗客と一緒に私も降りて、彼の背中をみながら歩いた。
 改札を抜け、高輪口に向かった。どうやらまっすぐに帰るらしい。
 マンションのエントランスに入るところを望遠で写して私の一日目は終わった。
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