第3話

文字数 5,273文字

 渋谷区松涛の閑静な高級住宅地は異空間だった。ここには喧騒もなければ悪臭もなかった。部外者を拒絶する高い塀と清潔な道路、飼われている犬は上品で野良猫も逃げ出すここは、いかがわしい探偵の居心地を悪くさせ、つい足を速めさせるには充分だった。どうすればこんなところに住めるようになれるのか、歩きながら考えてみたが、当然わかるわけがなかった。わからないまでも、ここの住人は、自分とはまるっきり違う道を歩んできた事実だけは、疑いようもなかった。そんな埒もないことを考えていると、いつしか目的の家の前にきていた。
 本郷一郎の自宅は高い塀に囲まれた和風家屋だった。このあたりでは特に目立ってはいなかったが、間違いなく豪邸と呼べるものだった。インターフォンのカメラの映りを気にしつつ、呼び鈴を押すと、しばらく待たされてから、年配の女性の声で反応があった。名前を名乗ると、前もって倉持雄治から連絡が入っていたらしく、門前払いを食わされることもなく、また、勝手口にまわされることもなく、玄関からの訪問が許された。
「お待ちしておりました」
 ワンルームマンションよりも広い玄関に出てきた品のいい年配の女性はそういうと、深々とお辞儀をした。一瞬本郷一郎の妻かと思ったが、どうやら使用人のようだった。
 天然石を使用した三和土は塵ひとつ落ちていなかった。乱暴に脱ぎ捨てられた靴などもなかった。大きな沓脱石で靴を脱ぎ、廊下に上がって用意されたスリッパを履いた。廊下はスケートができそうなほど磨き上げられていた。
 家のなかは気味が悪いほど静かだった。私はわずかだが、居心地の悪さを感じていた。それは、品のいい使用人のあとに続いて長い廊下を渡っているときにも感じていた。特に際立ったものではなかったが、たとえていうなら、獣が息を殺してひっそりとこちらをうかがっているのを皮膚で感じているような、そんな居心地の悪さだった。それはもしかすると、大袈裟だが、いままで数え切れないほどの裏切りや密談や駆け引きが行われてきたこの家に、いままで溜まってきた呪詛や怨念が、そんな気にさせるのでは、と思った。
 案内されたのは来客用の部屋だった。探偵にはいささか場違いな部屋だった。
 十人以上は座れそうな大型の革張りソファー。マホガニーかチークかわからないが大きなリビングボード。その上に乗る大きな九谷焼の壺。眼を少し上に転じると、壁にかかっている山と湖の風景画。そしてペルシャ絨毯とシャンデリア。いやでも眼につく大型テレビ。まるで高級家具のカタログをみているようだった。来客者に、あらためて政治家の権勢を再認識させるために用意した部屋だと、そう思った。
 品のいい使用人にいわれるがままにソファーに座った。ソファーは適度な硬さで尻が沈み、スプリングが尻を突き上げる事務所のものとは雲泥の差だった。このソファーなら何時間座っていても尻が痛くなることはないと思われた。
 品のいい使用人が深々とお辞儀をして部屋を出て行った。私はあらためて部屋を見回した。
 高級家具調度品は、値段に見合った輝きを放っていたし、シャンデリアも、窓から差し込む光に眩しいぐらいに反射していた。ただ、リビングボードに並べられた高級ウイスキーやブランデーは許されるにしても、なんの記念かわからないが、大小とりどりのトロフィーや賞状のたぐいは興ざめだったし、さらにいえば、風景画がかかっている反対側の壁に、でかでかと張ってある所属する党の宣伝ポスターは、悲しいかな、豪華で落ち着いた部屋の雰囲気を見事にぶち壊していた。
 品のいい使用人が再び現れてお茶を置いて部屋を出て行ってから十分がすぎた。だれも部屋に入ってくる気配はなかった。忘れられたのでは、と不安になった。大声で呼んでみようか、とも思った。かすかに聞こえているのはエアコンの音と遠くの犬の鳴き声だけだった。少し風が吹いてきたようだ。窓からみえる庭の木々の葉が風で揺れていた。
 それから五分してやっとドアが開いた。私は反射的に立ち上がっていた。入ってきたのは倉持と四十代前半の男だった。倉持と連れの男は私の前に立った。
「お待たせしました。こちらが古谷です」
 倉持が口を開いた。連れの男が一歩私に近づいた。
「はじめまして。古谷信太郎といいます」
 そう名乗った。私たちは同時に頭を下げ、名刺の交換をおこなった。小太りで太くて濃い眉毛が特徴の古谷は、額にうっすらと汗をかいていた。
「古谷は敦夫さんと親しくしているようです」
 倉持がそういいながらソファーに座った。
「飲み友達です」
 そういいながら古谷が倉持の横に座った。私は倉持にうながされるままふたりの前に座った。
「佐分利さん、申し訳ないが、このあと急に打ち合わせが入ったのであまり時間が取れません。さっそく本題に入らせてもらいます。では、古谷君、佐分利さんに直接説明してください」
 倉持にそういわれた古谷がひとつうなずいて口を開いた。
「わかりました。ではご説明します。僕が敦夫さんから、付き合っている女性とうまくいっていないと打ち明けられたのは、敦夫さんが内定を辞退すると突然言い出すちょうど一週間前でした。聞いたのは、たまたま用事があって夜に敦夫さんのマンションを訪問したときなんです。敦夫さんは酒を飲んでいました。それもかなり飲んでいました。暗い酒でした。深刻な顔でなにやらブツブツとひとりごとをいっていました。その暗さに驚きました。いままで何回も一緒に酒を飲みましたが、あんな状態の敦夫さんははじめてでした。当然理由を聞きました。だがだんまりです。それでもしつこく聞くと、やっと口を開いて、いま付き合っている女性とうまくいっていない、というようなことだけは話してくれました。ただ、詳しい内容はどうしても話してくれませんでした。その三日後、どうしても気になったので、会社帰りに待ち合わせて飲んだんです。敦夫さんは憔悴していました。三日でこんなに変わるのかと思えるような変化でした。でも、やはり詳しい内容は話してくれませんでした。その帰り際です。敦夫さんがぽつりと、重大な決意をするかも知れない、と漏らしたんです。それから数日して、その重大な決意を聞くことになったんです。僕からお話しできるのは以上です」
「ありがとうございます。ではいくつか質問してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「敦夫氏がお付き合いしている女性のことで、なにか知っていることはありませんか。どんな情報でもいいんです」
「それがまったくわからないんですよ。いや、本当です。名前すら知りません」
「ちなみに、木村専務も福永専務も敦夫さんからなにも聞かされていないとのことです」
 倉持が補足した。
「それは、敦夫氏が特に注意してまわりに知られないようにしていたということですか」
「どうですかね……倉持さん、どうです」
 古谷は倉持に話を振った。倉持は小首を傾げた。
「さあ、特に注意していたと感じたことはありませんね。それに敦夫さんの私生活のことはいままで気にしたことはありません」
「そうです。私生活については、敦夫さんは特に話さないし、こちらからも聞かないし……それが普通でした」
 古谷が話を引き取った。
「そうですか……では、古谷さん、敦夫氏が抱えている悩みの理由ですが、あなたはどう思われました? 想像で結構です」
「そうですね……これはあくまでも僕の感じです。そのつもりで聞いてください……僕の感じでは、相手の女性が一方的になにか問題を起こしたとか、厄介ごとを持ち込んできたとか、そういった感じは受けませんでしたね。どちらかというと、女性のほうから突然別れ話を切り出し、敦夫さんが困惑している。そんな感じです。当然女性からは、その理由を聞かされていないんでしょうね」
「たとえば……敦夫氏にはお子さんがいらっしゃいますよね。相手の女性はそれがネックになっているとか……」
「敦夫さんにお子さんがいるのは最初からわかっているはずだからそれはないでしょう。嫌ならさっさと別れたらいい話だ」
 倉持が力強くいった。それはそうだ。
「では、政治家の妻になるのは嫌だからつれなくしているとか」
「そもそも、敦夫さんがその女性に内定したことを話しているのかどうかもわからない。だからその質問には答えられない。ようするに、われわれにはなにも情報がないんです。つまり、打つ手がないわけだ。そこで佐分利さんには、女性に関してすべてを調査してほしいんですよ」
「わかりました……では、最後に、敦夫氏が内定を辞退するといった日にちがわかりましたら教えてください」
「それだったら一月二十八日です。忘れもしません」
 倉持が即座に答えた。
「敦夫さんから重要な話があるといわれ呼び出されたんです。この部屋にです。先生、奥様、私、そして古谷です。聞いたあとは全員茫然自失ですよ。特に先生の落胆は大きかった」
「当然理由はおっしゃらなかった?」
「理由を聞かないでくれ。わがままを許してくれ。それだけでした」
 倉持の声は少し怒りを含んでいた。
「敦夫さんは以前よりも憔悴していましたね」
 古谷が取り成すようにそういった。
「まだお聞きすることがありました。敦夫氏の内定辞退を知っておられるのはほかにどなたがいらっしゃるのでしょう」
「木村専務と福永専務ですね」
「つまり、内定も辞退も知っているのは同じ人というわけですね」
「そうです。佐分利さん、申し訳ない。時間がきてしまいました」
 倉持が時計を確認したあとそういうと、メモ用紙と写真をスーツの内ポケットから取り出した。
「これに敦夫さんの会社と自宅マンションが書いてあります。それと最近の写真です」
 メモ用紙をみた。それによると、会社名は、ITモバイルソリューション株式会社。場所は、新宿Aタワー二十三階となっている。自宅マンションは、プラテリア高輪。品川だ。
 私はメモ用紙のほうを手帳に挟み、今度は写真を手に取った。
「中央が先生で両脇に奥様と敦夫さんです」
 倉持が説明してくれた。
 まず敦夫に眼がいった。一見して草食系でいかにもいまふうの青年だ。細めの体で髪はやや長め。色白で唇がうすい。口元のホクロが印象的だ。父親のようにいかつい顔ではない。母親似だ。
 次に全体をみた。場所はこの部屋だ。三人はソファーに座っている。うしろに立っているのは倉持だ。すると写したのは古谷だろう。日付は今年の一月五日。
「その日が内定した日です」
 倉持が補足した。全員笑い顔だ。それから三週間後の悲劇はだれも予想していない。あたり前だが。
 私は礼をいって写真も手帳に挟んだ。
「敦夫さんですが、午前八時ごろ自宅マンションを出ます。会社を出るのは遅くとも午後八時ごろと聞いています。それから、いつも電車通勤だそうです」
 古谷が説明した。
「それは貴重な情報です。ありがとうございます。会社を出るのがだいたい午後八時なんですな」
「むかしはもっと遅かったようなんですが、お子さんがいますので、遅くとも午後八時には帰ると聞いています」
「なるほど」
「尾行するつもりですかな」
 倉持が言わずもがなの質問をしてきた。
「当然そうなります」
「その場合はくれぐれも気づかれないようにお願いしますよ」
 倉持の言葉に横の古谷もそうだとばかりにうなずいた。
「その点に抜かりはありません。お任せください。それから、最後にもう一点だけお聞きしたい。福永専務以外で敦夫氏が親しくされているご友人をご存知ないでしょうか」
「ああ、それなら、坂上富雄さんです。敦夫さんが勤めていた前の会社の同僚です。三人で一緒に飲んだことがあります」
 古谷が即座に答えてくれた。
「前はどういった内容の会社でしょう?」
「IT企業ですよ。詳しい業務内容まではわかりません」
「そうですか」
「その人になにをお聞きになるのかな」
 倉持が疑問を口にした。
「付き合っている女性のことでなにか知っているかも知れません」
「お聞きになるのはいいが、敦夫さんに知られないようにお願いしますよ」
「わかっています」
 そのあと、私は坂上富雄の会社名と住所を古谷から聞き、素早くメモをして立ち上がった。
「今日はどうもありがとうございます。大変参考になりました」
 倉持と古谷も立ち上がった。
 部屋にふたりを残し、私は廊下に出た。このあと部屋で打ち合わせがあるようだ。おそらく敦夫の問題だろう。どう決着をつけるのだろう。長い打ち合わせになりそうだ。そんなことを考えながら廊下の角を曲がったとき、危うく品のいい使用人とぶつかりそうになった。使用人は小さく声を上げた。私は慌てて詫びた。使用人は、失礼しました、といって頭を下げた。使用人のうしろには男がいた。すれ違いざま目礼を交わした。
 男は五十代前半かあるいは半ばを少しすぎているぐらいか。スポーツでもしているのか、引き締まった体をしている。私は立ち止り、ふたりを眼で追った。使用人は私が出てきた部屋をノックした。そこまでみて私は玄関に向かった。
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