第30話

文字数 2,702文字

 寝不足の割には気持ちは充実していた。なんとか最終コーナーをまわって直線コースに入ったが、まだ鞭を入れるのは早い。いまはラストスパートに向けて体力を温存し、モチベーションを下げないようにするだけだ。あとは落馬だけを気をつければいい。
 朝の九時に自宅から倉持雄治に電話をした。電話に出た倉持からは開口一番嫌味を予想したが、彼はなにもいわず、詳しい話は会ってからという私の提案に従い、前と同じ虎ノ門にあるコーヒーショップを指定した。ただし、すぐにというおまけ付きだった。
 私は額の汗をふくこともせずに、コーヒーカップを持って二階に上がった。案の定、窓側の奥まった席に、すでに倉持は座っていた。私は自分のコーヒーカップをテーブルに置き、倉持に向かい合った。
「お待たせしました」
 私は軽く頭を下げた。
「私もいまきたところです」
 この会話は何回目だ、と思いつつ、日曜なのに黒のスーツで背筋を伸ばして座っている倉持のコーヒーカップをみると、たしかに減ってはいなかった。
「連絡はしばらくありませんでしたね」
 やはり嫌味からはじまった。しかし考えてみると、しばらくというほどではない。ほんの三日前に私は電話をしている。福永専務を紹介してくれたお礼の電話だ。もっとも、そのときは古谷信太郎のゴタゴタでろくに話ができなかったが。
「もう落ち着かれたのでしょうか」
「古谷のことをおっしゃっておられるのかな」
「そうです」
「すっかり片は付きました」
「お忙しいようなので連絡を控えていました」
 私の言い訳に倉持は無言だった。
「それでは前置きはこれぐらいで、本題に入ります」
「そうしていただけると嬉しいですな」
「敦夫氏と片山優子さんの間の問題がわかりました」
「ほう……」
 倉持が身を乗り出した。
「その調査できのう札幌に行ってきました」
「札幌に?」
 倉持が驚いた声を出した。
「そうです。事後報告になりましたが、ご了承ください」
「……それで?」
 コーヒーをひとくち飲んだ。倉持もつられてひとくち飲んだ。
「倉持さんは十五年前に札幌で起きた殺人事件をご存知でしょうか」
「なんですって?」
 倉持が大きな声を出した。そばにいたカップルが吃驚してこちらを向いた。
「失礼。もう一度お願いします」
「十五年前に札幌で一家三人が殺された事件です。犯人は石原辰夫。七年前に死刑が執行されています」
「ちょっと待ってください……なんとなく記憶があります。たしか犯人はまだ二十歳そこそこで同棲相手とその家族を惨殺した事件ではなかったですかな」
「そうです。石畑辰夫は当時二十二歳です。おっしゃるとおり同棲相手とその父親と母親を刺殺しています。その事件を調べるために札幌に行きました」
「片山優子さんがその事件に関係しているとでも?」
「最初は、福永専務と優子さんの会社の同僚である女性から得た情報が発端でした。そこで優子さんが札幌出身だということを知り、さらに十五年前という重要なキーワードを知りました。思いついたのはそのときに起きたなにかの事件です。そこで出てきたのが前述の事件です。それを知るために事件に詳しい新聞記者に会い、さらに札幌のもと刑事、優子さんの祖父母、高校時代の友達、そして担任だった先生に会いました。そうなんです。片山優子さんはその事件と無縁ではありません。彼女は石原辰夫の妹さんです」
「なんと……」
 倉持は言葉が続かなかった。鉄仮面の倉持の顔がみるみる赤くなった。
 私は知り得た情報の詳細を最初からわかりやすく順序立てて説明した。長い時間がかかったが、倉持は口を挟まずに聞いてくれた。
「……しかし、彼女が加害者側の人間だったとは……それは非常にまずい」
 私の話が終わったあとに、最初に倉持の口をついて出た言葉は冷静な彼にしては激しかった。
「彼女に罪はありません」 
「それはわかっている。わかっているが世間はそうはみてくれない」
 たしかにそうだ。この場合、世間の常識はバッシングだ。決して許してはくれない。
「彼女が敦夫さんの申し出を断る理由はわかった。いくら養子になって姓を変えても過去は消せない。もしそれが明るみに出れば当人たちに傷がつくだけではすまない。彼女は賢明な選択をした。もしもなにも知らずに結婚していれば大変なことになっていた」
 そのあからさまな言葉にいささかムッとした。しかし倉持の言葉もわからないでもない。倉持は正直なだけなんだろう。とはいっても私はへそ曲がりだ。嫌味な質問をぶつけた。
「もし彼女が被害者側だったとしたら、やはり賢明な選択をしたといえますか」
「仮定の質問には答えられませんな」
 木で鼻を括るような答えだった。私は冷静さを保つためにコーヒーに手を伸ばした。
「さて、敦夫さんへの対応だが、なんとするか……」
 倉持は相変わらず冷静だった。
「私が調べた内容を当然伝えるんでしょう」
「そうだな……」
「伝えるべきです。そうしないと敦夫氏はこれからも苦しむばかりです」
「わかった。伝えよう。それで敦夫さんにはなんて説明するか……」
「最近の敦夫氏の様子はどうです?」
「彼女と進展がないんでしょう。相変わらず元気がないですな」
「敦夫氏への説明は私にまかせてはいただけないでしょうか」
「あなたが?」
「ええ、私のほうが冷静に詳しく説明できます」
 倉持が腕を組み、眼を閉じた。
 長い沈黙だった。やっと眼を開けるとひとつうなずいた。
「わかりました。おまかせしましょう。ただし、余計な説明はしないでいただきたい」
 余計な説明とは、つまり本郷家にとって不利なことはいうなということだろう。私はうなずいた。
「ではさっそく敦夫さんに連絡をとります。これは私がやります。探偵に調査をお願いしたことから説明しないといけませんからね」
「わかりました」
「これから佐分利さんはどちらに?」
「いったん事務所に行きます」
「わかりました。私はここに残って敦夫さんに電話をします。長い電話になるかも知れません」
 倉持を残してコーヒーショップを出た。

 途中のコンビニでサンドウィッチとお茶のペットボトルを買った。事務所で食べながら倉持の電話を待つ予定だ。
 日曜の事務所は静かだ。私はデスクの前のソファーに座り、バッグから新聞を出して広げた。 
 意外に早く携帯が鳴った。昼食のサンドウィッチを食べ終わり、お茶のペットボトルに手を伸ばしたときだった。電話は倉持ではなく、敦夫からだった。
 敦夫は一時間後に事務所にくることになった。
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