第1話

文字数 6,278文字

 二月に入って最初の水曜日。いまにも雪が降り出しそうな寒い朝だった。
 その時間しか都合がつかないとのことで、朝の九時ぴったりに訪問した倉持雄治は、鷲鼻と切れ長の眼が印象的な五十代半ばの人物だった。きちんと整えられた白髪まじりのオールバックは乱れがなく、贅肉のない細身の体には、仕立てのいい黒のスーツが似合っていた。おそらくネクタイを替えるだけで、いつでも冠婚葬祭に出られる態勢なのだろう。そんな想像が働く。そして有力政治家の秘書の固く結ばれた口元からは、強い意志と少しの頑固さがうかがえた。政治家の秘書に会うのははじめてだが、いかにもといった人物だった。脂ぎった土建屋のオヤジのような保守党前幹事長、本郷一郎よりも、よほど政治家然としていた。
 いま、倉持雄治は眼の前のソファーに背筋を伸ばして座り、むずかしい顔をして私の名刺を眺めていた。そして、隣の空いているソファーには、黒のコートと黒のブリーフケースが行儀よく置かれていた。私はといえば、彼の名刺を眺め終わったので、きのうの電話の内容を反芻していた。
 最初にかかってきたのは桑原弁護士からだった。彼は保守党の顧問弁護士であると同時に、娘の奈緒子が独立する前に世話になった師匠筋の弁護士だった。ひとしきり雑談したあと、政治家と秘書の名前を出し、信用のおける探偵をさがしていると聞いて躊躇なく私の名前を出した、といって笑った。私もつられて笑った。次に桑原弁護士から名前が出たその当人から電話がかかってきた。倉持雄治だった。
 倉持は自分の名前と身分を話し、訪問する日時を一方的に話したあと、詳しい内容はそのとき話すといった。その上から目線のいいかたに、少しむっとしたが、政治家の秘書とはそんなものだと、ひとり納得した私は、不快な気持ちなどおくびにも出さずに、承知しました、と紳士的に答えた。最後に倉持は、桑原弁護士からの紹介だと、つけ加えるのを忘れなかった。
 話の糸口を考えていたのかどうか知らないが、ようやく眺めていた名刺から私の顔に視線を移した倉持雄治は、ちょっと眼を細め、少しばかり憂鬱な表情をみせた。早くもきたことを後悔しているように思えた。思ったよりも私がジジイだとわかって、逡巡しているのかと一瞬思ったが、すぐに打ち消した。桑原弁護士がそういう情報を話さないはずがない。なぜなら、隣の法律事務所の洒落たガラスドアからではなく勝手口ともいえる古びたスチール製のドアから入ってきたこと。入ったきたとき迷うことなく左に体を向けたこと。法律事務所の一角に居候している探偵事務所の狭さに驚かなかったこと。そしてジジイをみても躊躇することがなかったことだ。
「お茶はいかがです」
 前のテーブルには、法律事務所のスタッフである原田洋子が置いて行ったお茶が手付かずにあった。会話の糸口としてはまずはこんなものだろう。
「お嬢さんは弁護士なんですな」
 耳にタコができるほど繰り返された言葉をまた聞くことになった。トンビがタカを生むというやつです、とこれもまた耳にタコができるほど繰り返した答えを口にした。だいたいはこれで笑い顔になるのだが、眼の前の倉持はニコリともしなかった。
 ソファーに背筋を伸ばして座っていること。隣の空いているソファーに黒のコートと黒のブリーフケースを行儀よく置いてあること。訪問の時間を正確に守ったこと。そしてユーモアを解さないこと。これらを総合的に判断すると、なかなか気むずかしい人物のように思える。だがまあいい。そうであっても自分のスタイルを変えるつもりはない。いままでもそうであったし、これからもそうだ。
「それではご用件を承りましょうか」
 雑談は抜きにした。話したところでおそらく乗ってはこないだろう。
「桑原弁護士とずいぶん親しいようですな」
 まだ本題に入ってくれないようだ。
「懇意にしていただいています」
「それは結構。桑原弁護士は信頼できる先生です。その先生の顔をつぶすことはありませんな」
「もちろんです」
 私だってできればしたくない。
「ところで、本郷一郎のことはご存知でしょうね」
「ええ、前の幹事長ですな。派閥の長で党の実力者でもありますな。そうそう、警察官僚出身でしたね。なんでも、警察関係に相当顔が利くとか……」
 倉持がちょっと眉をひそめた。喋りすぎだとその顔がいっていた。
つい調子に乗りすぎた。
「では、ご子息の本郷敦夫さんのことは?」
 予期せぬ名前が出てきた。私はちょっと慌てた。
「……詳しくはないですが、たしかイケメンの青年実業家で、以前に時代の寵児だとかいって週刊誌を賑わせたと思いますが」
「そこまで知っているのなら結構」
「ということは、ご依頼はその敦夫氏のことですな」
「そうです。ご子息の敦夫さんのことであなたのお力をお借りしたいのです。ただし、これから話すことは非常にデリケートな話です。当然ながら他言無用です。よろしいですな」
「わかりました」
「しつこいようだが、野党の政治家に限らず、与党の政治家にも知られてはならない。特にマスコミは絶対に駄目です」
「わかりました。信用していただきたい」
「結構。それで、今日うかがったのは、敦夫さんがいま付き合っている女性について調べてほしいのです」
 そういう調査なら探偵業の本道だ。どうやらクセのある依頼ではないようだ。私は自分のお茶をひとくち飲み、手帳を広げた。
「実は、その女性の身元などは一切わからんのです。そこで、敦夫さんが付き合っている女性の身元も含めて調べていただきたい。つまり、一切合切です」
「一切合切?」
「そうです」
「ということは、ご子息は付き合っている女性についてまわりになにも話していない、ということですね」
「そういうことです」
「はあ、なるほど」
「特に、ふたりの間になにか問題があるのか。それともないのか。あるとしたらどんな問題なのか」
「でもあなたは問題を抱えていると、考えていらっしゃるわけですな」
「ええ、まあ」
 苦虫を噛み潰したような顔になった。反対に私は、申し訳ないが、好奇心の虫が動き出していた。
「それでは、ご子息のことを詳しくお聞かせください」
「年齢は三十五歳。現在は独身。三年前に奥さんを亡くされ、八歳の娘さんがひとりおられます。仕事は都内でIT企業を経営しています。いまはまだ政治とは無縁の生活ですが、先生のお子さんは敦夫さんひとりですので、いずれは先生のあとを継ぎます。あなたがさきほど、週刊誌を賑わせたとおっしゃったが、それは四年ほど前です。成功している青年実業家の特集でした。そのとき、敦夫さんが先生の地盤を引き継いで政界入り、などという記事も一緒に載ったのをご存知ですかな」
 その話ならぼんやりと覚えている。たしか娘の奈緒子がなにかの折に話題にしたはずだ。
「おぼろげながら覚えています」
「そのときはまだ世襲の話などは出ていなかった。敦夫さんも若かったし、先生だって若かった。たんなる憶測記事です」
「会社を急成長させた青年実業家。時代の寵児。などと一部で騒がれたので、その延長だったのでしょう」
 私が感想をいった。
「そうでしょうな。でも、いまはあの記事は半分あたっています」
「ほう」
「ようやく敦夫さんが決心してくれました。今年の年明け早々に後継者として内定しました。もちろん内輪だけの話ですよ」
「すると先生は引退なさるんですか」
「いやいや、いますぐではない。あくまでも将来を見据えての話です。敦夫さんは今年いっぱいは会社を続けて、来年には経営から手を引き、先生の秘書になります。そこでしばらく将来に向けていろいろと学んでいただきます」
「だけど敦夫氏はよく決心されましたね」
「まあ、なんとかね」
「これで先生も安心というわけですな」
 女の問題が解決すれば、と私はあとの言葉を心のなかで呟いた。おそらく敦夫が付き合っている女に悪い噂があるのだろう。つまりこうだ。将来のある敦夫の身辺はクリーンでなければならない。特に女関係は。悪い芽ならば早いところ摘んでおかなければならない。おおかたそんなところだろう。
「ところがね、そうではなくなったんです……」
 ここで、はじめて倉持がお茶をひとくち飲んだ。口を開いたときは心持ち声が沈んでいた
「先生もまわりも、これで安心、そう思った。ところが急にそうではなくなったんです……」
「というと?」
「つい先日、敦夫さんが、内定を辞退すると突然言い出したんです」
「つまり……」
「秘書にもならない、政治家にもならない、と言い出したんです」
「なんでです?」
「理由がわからない。いくら問いただしてもだんまりです」
「やはりどうしても会社を諦めきれないと思ったのでは」
「それは違う」
 即座に否定した。
「では、会社の役員から引き止めにあったとか」
「それも違う。敦夫さんは、充分に根回しはすんでいるとおっしゃっていた。私も会って話したことがあるが、敦夫さんのよき理解者で後見の立場でもある会社の専務は大いに賛成してくれたんです。むしろ背中を押してくれた」
「その専務のお名前は?」
「木村喜一」
「木村専務にはお話しされたんですね」
「敦夫さんがしました。専務と敦夫さんは六年前に前の会社から一緒に独立した仲で、敦夫さんが信頼するよきパートナーなんです。ですから、敦夫さんが経営から手を引く件は、やはり大番頭の専務に話を通す必要があったんです」
「差し支えなければお話しください。敦夫氏が後継者になるという話は、だれとだれがご存知なんですか」
「先生と奥様、一部の秘書、木村専務、そして福永専務です。福永専務というのは、福永事務機器株式会社の専務で、敦夫さんとは大学のご学友です」
「……では、こういうのはどうでしょう。たとえば、その人たちのなかで、それほど賛成ではない人がいて、それを察した敦夫氏は嫌気が差したとか、もしくは、最初はその気であったが、決まってしまうと急に重荷に感じてとか、そういった気持ちの問題が原因ということはありませんかね」
「私も当事者だから断言できるが、敦夫さんが後継者になるについては、みんなもろ手を挙げて賛成しました。それと、重荷に感じたということは考えられないですな。そもそも後継者になるという話は、二年も前に出てきた話で、敦夫さんの決断も熟慮した結果ですからね。決断したあとの敦夫さんは非常に張り切っておられた。まわりからみてもね」
 ほかにないかと考えたが思いつかない。やはり女関係か。
「いろいろ考えて最終的に残ったのが女性関係ではないかと、そう思ったわけですな」
「そういうことです。そう思うには理由があるんです。実は、うちの秘書で古谷という者がいるんだが、敦夫さんがその古谷に、付き合っている女性のことで悩んでいる、と打ち明けたらしい」
「どういう悩みです」
「具体的な内容までは話してくれなかったということです」
「古谷秘書に打ち明けたのはいつです」
「敦夫さんが内定を辞退すると言い出す少し前らしい」
「つまり、消去法で女性関係が残ったというわけですな」
「それしか考えられないといったほうが正確です」
 二年も熟慮して決断した人生設計を簡単に変えてしまうほどの女関係の問題とはいったいなんだろう。表沙汰になれば週刊誌を賑わしかねないほどの醜聞なんだろうか。
「たとえば、付き合っている女性が本当は人妻だったとか」
「理由としては希薄ですな。少なくとも私の知っている敦夫さんらしくない」
「その女性が犯罪に手を染めているとか」
「バカバカしい。別れてしまえばすむ話でしょう」
「なるほど。それでは、その女性のうしろにタチの悪い男がいて、脅迫されているとか」
「それも考えて聞きましたよ。だが違いますね。私はむかしから敦夫さんを知っているからわかる。そういう理由なら相談してくるはずです。こういってはなんだが、そういう理由なら、いくらでも解決できる。敦夫さんだって政治家の家に育っているんだから、そのぐらいはわかりますよ」
 倉持は私の問いを明快に否定したが、男女の仲はそんなに簡単に割り切れるものではないと思う。しかし私は反論しなかった。いずれにしても、調査をしていけばおのずとわかることだ。
「よくわかりました。大変失礼なことをお聞きしました。そこで最初のお話のとおりに、敦夫氏の恋人の身元、特にふたりの間に問題があるのかないのか、それらを調査すればよろしいわけですね」
「そういうことです。先入観なしでお願いしますよ。そこでさっそく動いていただくことになるが、その前に、一度秘書の古谷のほうから詳しい状況を聞いてからのほうがいいでしょう」
「ええ、ぜひお聞きしたいです」
「そう思って手はずは整えてあります。ついては明日の午後三時に先生のご自宅においでいただきたい。古谷を引き合わせます」
「承知しました」
 倉持雄治は、満足そうにうなずき、残りのお茶を飲み干した。もう話は終わりということらしい。
「最後にお聞きしたい。倉持さん、この調査のことですが、知っておられるのは倉持さん以外ではどなたでしょう」
「私以外では、先生と秘書の古谷だけです。あとは知りません」
「なるほど。わかりました。ありがとうございます」
「そうそう、私のほうからも最後にお聞きしたいことがある。あなたには親しいご友人がおられますね。たしか、もと警視庁の警部が」
「ええ、たしかに」
 スワン探偵事務所の所長のことだ。
 スワン探偵事務所とは、オーナーがスワンという言葉の響きがいいだけで、探偵の仕事とはなんの関係もない名前を気まぐれにつけた大手の探偵事務所だ。いいかげんな名前とは裏腹に仕事ぶりは堅実なので、業界ではそれなりに名前が知れ渡っている。私はそこから定期的に仕事をまわしてもらっている。その結果、私は口を糊することができている。
「その情報はどこから?」
「まあ、いろいろと」
 私と所長の関係は桑原弁護士がよく知っている。おそらく情報源はあの先生だろう。人柄は尊敬できるのだが、口が軽いのが玉に瑕だ。
「おわかりと思うが、そのかたも含めて、もちろん、あなたのお嬢さんも含めて、くれぐれも他言は無用に願いますよ。敦夫さんが後継者に内定したことは、まだ知られては困るんです。もちろん調査をお願いした女性のこともです。よろしいですね」
 眼に力があった。最後にじわりと釘を刺された。政治に身を置く人種特有の威圧感があった。警察関係に顔が利くとの噂があるぐらいだから、もしかしたら私のこともすべて調べつくしているのかも知れない。
「これが最後です。この調査のことは敦夫さんに知られては困ります。念のため」
「わかっています」
 いつのまにか倉持雄治は立ち上がっていた。私も慌てて立ち上がった。
「それから、連絡はこまめにお願いしますよ」
「承知しました。それで連絡方法は?」
「名刺に携帯番号があるでしょう。必要なときはいつでも結構です。それではよろしく」
 倉持雄治は、コートとブリーフケースを素早く手に取ると、歳の割には軽快にドアまで歩き、振り返らずに出て行った。
 私は倉持雄治の名刺と手帳を持ってデスクに戻り、耐久年数をとっくにすぎたデスクの椅子に座った。案の定、椅子はけたたましい金属音を立てた。
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