第21話

文字数 6,926文字

 どうしても倉持雄治を無視することはできなかった。福永専務に会うには倉持を通すしかなかった。だが踏ん切りがつかなかった。いま倉持は忙殺されているはずだ。電話をして仲介を頼むにはタイミングが悪すぎた。さらに馬場勝彦のほうも気になった。もう手出しができないだけにイライラが倍加した。そんなこんなで、朝からデスクとソファーを行ったり来たりしていた。
 昼飯を蕎麦屋ですませ、事務所に戻ってからも落ち着くことはできなかった。福永専務に直に電話をすることも何回か考えたが、それも踏ん切りがつかなかった。ようするにイライラを解消することはできなかった。
 なんとか落ち着くために、コーヒーのテイクアウトを思いつき、ソファーから立ち上がったとき、携帯が鳴った。
「いま話をしても大丈夫か」
 所長の声はいやに落ち着いていた。
「ああ、大丈夫だ。こっちはいま八方塞がりだ」
「なんでだ?」
「なんでもない。それで、どうした?」
「馬場勝彦が逮捕された」
「なに、本当か」
「古谷信太郎殺しを自供した。夕方のニュースで出るだろう」
「詳しく教えてくれ」
「とりあえず一報を本部の知り合いからもらった。動機などの詳しいことはまたあとで知らせが入る。聞いたところによると、簡単に口を割ったそうだ。自宅アパートからは凶器と思われるバタフライナイフがみつかった。なんとそれには血痕がべったりとついていたそうだ。やつは完全に狂犬だな」
「現場の指紋はふき取っているのに?」
「なんていうか、戦利品のつもりでそのままにしておいたのかも知れないな」
「狂気を感じるな」
「サブやんも危なかったな。それはさておき、やつはもうすでに逮捕されていたんだ」
「どういうことだ?」
「きのうの午後十時に違法バカラ賭博で池袋署が逮捕していたんだ」
 小糸刑事に勝彦の叔母のことを尋ねたときに、忙しそうにしていたのはそういうことだった。
「滝野川署にある捜査本部の連中が池袋署に出張って取り調べをした結果、自供したというわけだ。いまわかっているのはそんなところだ。追加の情報はわかりしだい電話する」
「わかった。ありがとう。ところで、秘書の倉持はこのことを知っているのかな?」
「馬場勝彦の逮捕か? たぶんまだだろう。自供したのもそれほど前ではないからな。で、どうするんだ。知らせるのか?」
「一応知らせるよ」
「そうだな。そのほうがいいだろう。じゃあまた」
 電話を終えてから気がついた。いつのまにかソファーから移動してデスクの角に腰をかけていた。
 コーヒーのテイクアウトはなしだ。テンションが上がったいまは、一気に攻めたい。手みやげはある。相当に喜ぶ手みやげだ。まだ手に持っていた携帯から倉持雄治の携帯にかけた。
 なかなか出ない。かけ直そうとしたとき、倉持がやっと出た。
「なにごとですかな。いま立て込んでいるんだがね」
 私だとわかったのか、不機嫌そうな声を出した。
「お忙しいところ申し訳ありません。実は、報告とお願いがあります」
「報告とお願い?……いまじゃなければ駄目ですか」
「ええ、申し訳ありませんが」
「わかりました。なるべく手短にお願いしますよ。では報告から」
「古谷信太郎さんを殺した犯人が逮捕されました。ニュースに出るのはまだだと思います」
 倉持から声が出ない。電話は切れてはいない。
「聞いていますか」
「聞いていますよ。それで犯人は?」
「馬場勝彦。池袋の花鳥組という暴力団の組員です」
「馬場勝彦……どこかで聞いた名前ですな……もしかして、この前あなたの口から出た名前じゃないですか? 私に心あたりはあるかと聞きましたよね」
「そうです」
「佐分利さん、あなたはこの事件にどうかかわっているんですか。詳しい事情を説明してほしいですな。それと、なぜあなたが逮捕のニュースをいち早くつかんだのかも」
「そのことについてはいずれご説明します。それよりも、事件の詳細については警察にお尋ねになったほうがよろしいかと思います」
「……わかりました。ではそうしましょう」
 頭の回転が速い倉持は、あやふやな探偵に聞くよりも、信用ができて顔が利く警察に聞くほうを選んだ。賢明な選択だった。
 おそらく、すぐさま警視総監かあるいは刑事部長の電話が鳴る。倉持は秘書とはいえバックには本郷一郎がいる。あだやおろそかにはできない。最優先だ。慌てふためいた警察は、倉持イコール本郷一郎のご下問をただちに上から下に伝達する。その結果、現況の詳しい捜査情報を知ることになるというわけだ。
「では、そういうことで」
「ちょっと待ってください。まだお願いを話してはいません」
「そうでしたな。では手短に」
「福永専務に仲介の労を取っていただけないでしょうか」
「会いたいということですか」
「そうです」
「会ってなにをお聞きになるのかな」
「もちろん片山優子さんの情報です。それも個人情報です」
「話していただけるかどうかはわかりませんよ」
「いままでのお話をうかがって、私への依頼も含めて、福永専務は内情をご存知です。ですので、きっと協力していただけると信じています」
「少し時間をください。では忙しいので」
 役目を終えた携帯をテーブルの上に置いて、ソファーに座った。あとは待つしかなかった。
 待つのは慣れている。これも仕事のうちだ。リラックスするためにコーヒーをテイクアウトしようと思った。私は携帯を手に外出した。
 すぐに戻った。コーヒーが眼の前にある。ゆっくり飲みながら手帳を開いてみる。目新しいメモはないが、なぜかみていると安心する。
 携帯はピクリともしない。時間だけがすぎていく。コーヒーはもうない。手帳は何回開いたか。目薬が減っていく。
 五時間が経った。携帯は相変わらずピクリともしない。奈緒子とスタッフは帰って私だけだ。会議室に行ってテレビをみる選択もあるが、なぜか腰が上がらない。
 さらに一時間が経った。さすがに疲れた。今日はもう連絡はないだろう。新聞をバッグに入れ、携帯も入れようとしたとき、鳴った。出ると、待ち人からの電話だった。
「福永専務はお会いになるそうです。明日の午後三時。会社にお越しいただきたいとのことです」
「ありがとうございます。必ずうかがいます」
「それと、事件のほうだが……」
「警察にお聞きになりましたか」
「ええ、まあ。取り急ぎいまわかっている事実を聞いたところです。馬場勝彦だが、犯人に間違いないようですな。自供もあって凶器もみつかっていますからね。あとはナイフに付着している血痕のDNA鑑定待ちといったところでしょうか。しかし古谷と犯人は異母兄弟だったとは驚きですな」
「動機はお聞きになりましたか」
「ええ、まあ……」
 歯切れが悪い。
「やはり敦夫氏がらみでしょうか」
「そうともいえる……」
「詳しく教えてください」
「馬場勝彦の自供によると、古谷は馬場に探偵、すなわちあなたの行動を見張るように指示したんだそうだ。いつどこでだれと会って、できればなにを話したのかを」
「なんのために?」
「古谷は、自分にも運が向いてきた。もしかしたら先生の地盤を引き継ぐことができるかも知れない。そのために探偵の行動を知る必要がある。理由は聞くな。そういったそうです」
「地盤を引き継ぐとは?」
「それについては、私にも責任の一端がある」
「どういうことです?」
「敦夫さんがあんなことを言い出したあと、先生とふたりで今後のことを話しているときに、私はほとんど冗談のつもりで、古谷を後継者にしてはどうか、という話をした。先生も冗談と受け取ってその話はそれだけで終わった。これは想像だが、そのとき、古谷は立ち聞きしていたのか、それを耳にしたんでしょう。そのあと私があなたに調査を依頼した。その直後ですよ。古谷が馬場に接触したのは。馬場の自供によると時期は符合する」
「古谷信太郎さんは、本当に自分が後継者になれるのかどうか、やはり半信半疑で心配だったんでしょうね。だから敦夫氏の心変わりが怖かったはずです。後継を拒否したままでいてほしい。だが探偵が登場した。もしかしたら探偵が余計なことをするかも知れない。だから探偵の行動が知りたかった。そんなところでしょうか」
「まあ、そうでしょうな」
「だがふたりに軋轢が生じて殺害に至った。いったいなにがあったんでしょうか」
「動機だが、やはりお金ですよ。古谷は馬場にもう手を引くようにいったらしい。これは警察から事情を聞いたあとで敦夫さんに確認したことなんだが、ちょうど一週間前、夜に敦夫さんのマンションに古谷が訪ねて行って、心変わりはないか再確認したというんだ。もちろん訪問の目的は健康を心配してのことなんだがね。そこで敦夫さんに心変わりがないことがわかった。馬場はもう用済みだ。しかし馬場はそこに金のにおいを嗅いだ。報酬は二十万だったらしいが、詳しいことはわからなくとも、これは大金になると考えたようだ。だから手を引け、引かない、で揉めた。そういうことのようですな。もっとも、動機はそれだけではないようだ。馬場は以前から古谷からたびたび小遣いをねだっていたようだ。そのたびに古谷から意見をされて頭にきていたという。その恨みもあったらしい。そう供述している」
 古谷の勘違いか、もしくは早とちりから悲劇が起こった。なんともやり切れない事件だ。しかし、よりによって狂犬を引き入れるとは。
「しかし、不幸中の幸いで、古谷は、佐分利さんの名前と事務所の住所だけを教えて、行動を見張るようにしか馬場に指示していない。つまり、敦夫さんも含めて、敦夫さんの一連の問題は話していない。馬場の供述によるとそうらしい。これは助かった。古谷に感謝しなければいけませんな。必要最低限の情報しか与えず人を動かす。リスクマネジメントのお手本ですな」
 こういうところが倉持雄治を好きになるか、嫌いになるかの分岐点だろう。私はなんとも思わない。歳月を経るということは鈍感になるということだ。
「ということなので、古谷が勝手に後継者を夢みて探偵を見張り、途中で仲間割れが起こり、殺害に至った。その情報しか警察は知らないし、これからも知ることはない。その探偵がだれで、だれに雇われたのか、なにを調査したのか、そういうことも警察は知ることはない。今後もです。いいですな。ではそういうことで」
 そもそも本郷敦夫の発言からはじまって、次に探偵が登場して、古谷信太郎とヤクザも登場することになった。しかしその構図は決して表に出ることはない。たんなる兄弟のいさかいによる殺人と発表されるだろう。本郷一郎の意を汲んで。官僚の得意の忖度だ。なんだか割り切れない。だが、それによって私も警察から事情聴取されることもない。痛し痒しだ。通話が終わった携帯をみながらそう思った。

 馬場勝彦の事件は私のなかでは終わった。私の出番はもうない。これで倉持の案件に専念できる。そう思ったが、まだもう少し付き合わされることになった。
 風呂から出たあと、リビングのソファーでビールを飲んでいるときに所長から電話がかかってきた。所長の声は弾んでいた。五歳は若返った声だった。
「いまどこだ?」
「家だ」
「いま大丈夫か?」
「ああ、大丈夫だ。そういう所長はどこなんだ?」
「家だ。女房の眼を盗んで電話をしている」
 所長の奥さんは、家で仕事の話をするのを嫌うらしい。警察にいたときからそうらしい。できた奥さんだ。
「事件の続報だが、秘書の倉持から詳細は聞いたか」
「だいたいのことは聞いた」
「やはりそうか。本部の知り合いから聞いたんだが、倉持は上のほうに、それもかなり上のほうに、現況の問い合わせをしてきたんだそうだ。そのあまりにも早い情報のキャッチに、上から下までうろたえたそうだ。その状況が眼にみえるようだ。それはさておき、大急ぎで刑事部長が現況を倉持に報告したんだとさ。そのあと、倉持はついでに圧力をかけてきたらしい」
「余計なことは考えるな、聞くな、喋るな、だろう?」
「そういうこと。知り合いは憤慨しているよ。あたり前だ。それはそうと、俺はまた聞きだが、古谷信太郎の思い込みが発端らしいな。自分が本郷一郎の地盤を引き継げるかも知れないとの思い込みだ。倉持は捜査本部に古谷の妄想だ、と断言したそうだ。実際のところはわからない。魑魅魍魎が跋扈する世界だからな。ともあれ、馬場勝彦は探偵の行動を見張るだけの指示しか古谷信太郎から受けていないと供述しているが、その供述で得た数少ないパズルから想像して残りのパズルを埋めることはできる。すでに捜査員は全体像をつかんでいると思う。馬場勝彦だって一緒だ。つまり、馬場勝彦もチンピラだがバカじゃないということだ。ようするにこうだ……古谷が地盤を引き継げるかも知れないと話したのを聞いて考えるのは、本郷一郎の健康不安説からくる後継者問題だ。そこに探偵が登場する。そうなると、本郷一郎にひとり息子がいるのを調べて、その息子の身辺調査のために探偵が雇われたと考えるのが普通だ。あるいはなにかスキャンダルがあってその調査だと考える。当然だな。そこに金のにおいを嗅ぐ。それもかなりの額になるにおいだ。二十万などというはした金じゃない。簡単にいうとそういう構図だ」
「そして古谷信太郎とヤクザの場外乱闘で事件は幕引きか」
「古谷がもう手を引けといっても、はいそうですか、というわけがない。これはやつがそういっているんだ。本部の捜査員に」
「やつはそこまで話しているのか」
「とんだお喋り野郎だ。お喋りといえばまだある。馬場勝彦はサブやんのことをいろいろと話しているようだ」
「私のことを?」
「家まであとをつけたこと。サブやんの事務所のまわりをうろついたこと。組がやっている池袋のクラブでみかけたこと。ただこのときはまだサブやんだとはっきり認識していなかったようだ。似ているやつがいるなという程度だな。そのあとのファミリーレストランではっきりとわかったらしい。ここで自分に歯向かう敵と認識したそうだ。それで次の日、車を借りてサブやんの家まで行って例の凶行だ。未遂だったけどな。本当は深夜に家に押し入ってでもして脅かすつもりだったそうだ。それが当の本人がのこのこと外に出てきたもんだから、咄嗟に車で襲って脅かしてやろうと思ったと供述している」
「やはりそうか」
「ということは、これで終わったと思う捜査員はいないということだ。上はともかく。現場の捜査員はサブやんから事情を聞きたがっている。事情を一番詳しく知っているはずだからな。だが前幹事長からの圧力があるから動けない。歯ぎしりしているはずだ。だがなサブやん、上の顔色をうかがうやつばかりとは限らない。フライングするやつが出てくるかも知れない。もし、そんなやつが現れたら大目にみてやってくれ」
「できるだけ協力はしたいさ。しかし、私が話をすることによって、もしかしたらある女性に迷惑がかかり、そのために不幸になるとしたら、それは別だ。そのためには貝になることもある。間違っても倉持や本郷一郎のためではない。ましてや後釜がだれになろうと知ったことではない。彼らの家庭の事情なんて興味はないんだ」
 そうはいったが、実は片山優子のことはなにもわかってはいない。なにか秘密を抱えていることだけはわかるが、それがなんなのかわからない。知りたいが、知らないほうがいいような気もする。ジレンマだ。
「サブやんの気持ちはわかっているって」
「つい熱くなった。知らせてくれてありがとう」
「とんだ長電話になってしまった。女房の眼があるからそろそろ切るぞ」
「その前に、所長の意見を聞きたい。古谷の行動でどうしてもわからないことがある。古谷はなぜ狂犬を引き入れるようなバカなことをしたんだ。まさか可愛い弟に小遣い稼ぎをさせるためか」
「そうだな……これは俺の想像だが、古谷は不安だったんじゃないのかな。妄想なんかではなく、おそらく口約束か感触かわからないが、古谷がその気になるようななにかがあったんだろう。そこに探偵が登場した。一気に不安が増す。探偵の動きが気になる。焦る。どうにかしなければいけない。だが古谷は動けない。探偵に面が割れているからな。そこで危険だができの悪い弟に頼んだ。弟は金のためならなんでもやる。ところが途中でとんでもないやつを引き入れたことに気がつき後悔する。あるいは、確実に自分が後継者になれる担保を手に入れた。そこで慌てて弟に手を引けといった。そんなところかな」
 所長の想像は的を射ている。ただ知らないこともある。本郷一郎と倉持の密談を古谷が聞いたらしいこと。敦夫のマンションに古谷が訪ねて後継者断念の再確認をしたことなどだ。それらの事実はいずれ落ち着けば私から話すかも知れない。
「そうだ、大事なことを忘れていた。馬場勝彦は最後の手段として、探偵を拉致したあと拷問してでも手に入れた情報を吐かせるつもりだったらしい。最後にそううそぶいたそうだ。車で轢き殺されなかったのは、そういうわけだ。危ないところだったな。もう少しで狂犬に噛まれるところだったんだぞ」
 すっかり体が冷えていた。湯冷めだけではなかった。
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