第23話

文字数 4,475文字

 どうも最近は事務所にいる時間が長い。靴底を減らしたいのだが、どうすれば減るのかわからない。というわけで、朝から尻はデスクの椅子に固定されている。なんとか現状を打開する方法を考えているが、考えはあらぬ方向に行きっぱなしだ。
 朝一番で倉持に電話した。福永専務を紹介してくれたお礼だ。電話はすぐに終わった。会議中だったようだ。かえって好都合だった。
 そろそろ午前十一時になる。気分転換が必要かも知れない。そこで新聞をバッグから取り出した。そのとき、原田洋子がカーテンパーティションから顔だけこちらに出した。
「佐分利さん、電話なんですけど……」
「私に?」
「はい。こっちにかかってきているんです」
「だれから?」
「野崎里美さんとおっしゃる女性のかたです」
「野崎里美?……はて?」
「知らない人ですか? もしかしたらセールスですかね。切りますか」
 急に思い出した。福永事務機器の女子社員だ。片山優子の連れだ。「出るよ」
 原田洋子のデスクまで行き、そこの電話を受け取った。
 野崎里美は私の名前を確認してからさらに職業も確認したあと、福永事務機器の社員の野崎里美だと名乗った。
 会話は短かった。彼女は会って話をしたいといった。断る理由はなかった。詳しいことは会ってから話しますといったので、会う場所と日時を決めた。
 今日の午後六時。場所は東京駅八重洲口地下街の喫茶店になった。

 レトロな喫茶店だった。なかは常連らしい客で埋まっていた。入口近くのボックス席がひとつ空いていた。野崎里美はまだきていなかった。
 初老の店主にコーヒーを注文して時計をみた。約束の時間までまだ五分あった。私はバッグから携帯と手帳を出してテーブルの上に置き、バッグは横に置いた。
 六時ちょうどに野崎里美が入ってきた。すぐに眼が合った。彼女ははにかんだような笑顔を浮かべ、手に持っていたコートを横に置くと、私の前の席に座った。
「午前中にお電話をしました野崎里美です」
 野崎里美はそういうと頭を下げた。
「佐分利です」
 私も頭を下げた。そのとき店主が私のコーヒーを持ってきた。店主は彼女の前に水が入ったコップを置き、注文を聞いた。彼女は同じくコーヒーを注文した。
「今日はお忙しいところ、ご無理を聞いていただき、ありがとうございます」
 店主が離れたあと、野崎里美はそういうともう一度頭を下げた。緊張しているのか、顔の表情が少し硬い。
「かまいませんよ。どうせ暇ですから」
リラックスさせるために優しい声を出した。
「私を覚えていますか」
 野崎里美はちょっと上目づかいでそういった。
「もちろん覚えていますよ。きのう専務のところに案内してくれたかたですよね」
「はい。そうです」
「いまは仕事の帰りですか」
「はい……」
 野崎里美が水をひとくち飲んだ。私はコーヒーに口をつけた。
「私のことは専務にお聞きになったのかな?」
「いいえ、違います。実は、お茶をお出ししたときに、専務の前に佐分利さんの名刺があったのでつい眼がいきました。そのとき名前と職業がわかりました」
「なかなかの観察眼ですね」
「専務にはいわないでください。怒られますから」
「ははは、いいませんよ。安心してください」
 彼女の用件はなんだろう。電話をもらったときから考えていた。わからなかった。まさかジジイとの雑談が趣味だなんてことはないだろうな。いずれにしても急かせてはいけない。若い女のほうから、ほとんど初対面の男に、ジジイとはいえ、みずから会おうとすることは勇気がいることだ。
 野崎里美のコーヒーがきた。店主が離れると彼女はひとくち飲んだ。よくみると片山優子と感じが似ている。ショートヘアーのところが違う。
「法律事務所のほうに電話がきたけど、それはなぜ?」
「ちょうどお茶を持って行ったときに、専務が佐分利さんのお嬢さんのことを話していました。神山奈緒子弁護士のお名前は知っていましたので、弁護士事務所を調べて電話をしました。そこで佐分利さんの電話番号を教えてくれるかも知れないと思ったんです」
「あなたはなかなか行動力があるね。実をいうと、私は娘の法律事務所の一角に居候させてもらっているんだ。自分で事務所をかまえるほど儲かっていないからね」
 野崎里美がフフフと笑った。緊張がやや解けてきたか。いい傾向だ。
「ところで、野崎さんの所属部署はどこです?」
 時間はある。急かせてはいけない。まずは雑談だ。
「秘書課です」
「ああ、なるほど。専務付きの秘書なの?」
「いいえ、そういうわけではありません。役員全員を交代で担当しています」
「エリートなんだね」
「そんなことはありません」
 野崎里美が今度は水をひとくち飲んだ。口元が少し動いた。そして私をまっすぐみた。どうやら雑談は終わりらしい。
「佐分利さん、教えてください。佐分利さんは片山優子さんのなにを調べているんですか」
 声に力があった。不思議と驚きはなかった。片山優子の連れだと知らなければ驚いていたはずだ。
「会いたいといった目的はそれですか」
「はい。そうなんです。教えてください。お願いします」
 野崎里美は力強くそういうと頭を下げた。私は彼女の目的がわかってほっとしていた。迷惑ではなく、むしろ片山優子のことが聞けるかも知れないと思った。
「なぜ私が片山優子さんのことを調べていると思ったんだね?」
「片山優子さんは総務にいます。彼女の上司である総務課の課長が片山さんの日頃の仕事ぶりを専務から聞かれたと話してくれました。佐分利さんがいらっしゃる少し前です。課長は私と片山さんが仲がいいのを知っているので、彼女になにかあったのかと心配して私に声をかけたんです。専務がわざわざいち社員のことを聞くのは異例です。あ、総務課長が話したことは専務には内緒です……そして佐分利さんが専務とお会いしました。名刺には探偵とありました。そこで片山優子さんのことでいらっしゃったんだなと思いました」
「なかなか鋭いね。たしかに私は彼女のことを調べている。それは間違いない。ただし、いまいえるのはそれだけだ。依頼人と依頼内容はいえない。わかるね。でも、彼女を不幸にしようとしているわけではない。それはわかってほしい」
 野崎里美が唇を噛んだ。
「やはり教えていただけないんですね」
「申し訳ない。調査内容を話さないのが探偵の矜恃なんでね。これをなくしてしまうと探偵をやっていけない」
「ごめんなさい。私が余計なことを聞きました」
「謝ることはない。あなたが片山優子さんのことを心配しているのはわかった。そうそう、あなたと彼女の関係は?」
「友達です」
「親友といっていいのかな」
「はい」
「いつからの友達なの?」
「会社に入ってからの友達です」
「あなたは片山優子さんのことでなにか心配ごとがあるんだね。そうじゃなければ探偵に会おうとは思わない」
 急かせてはいけない。野崎里美が口を開くまでじっと待つ。私はゆっくりとコーヒーを口に運んだ。
「……彼女のことが心配なんです……彼女は最近元気がありません。
付き合っている男性のことで悩んでいるのはわかっています。話のはしばしでそうだろうと思います。でも詳しいことはなにも話してくれません」
「付き合っている男性の名前はわかっているの?」
「名前は知りません。聞いても答えてくれません。でも、男性からプロポーズされたことは教えてくれました。でも断ったと聞いて驚きました。理由は話してくれません。その男性のことは嫌いなのかと聞いたら、そうじゃないといったんです。彼女はその男性のことを好きだと思います。そのぐらいはわかります」
「でも断った」
「はい。そのことで彼女は悩んでいると思います」
「好きだけどプロポーズを断った。あなたはどんな理由があると思いますか」
「わかりません」
「どんな男性だと思いますか」
「どんな人って聞いても教えてくれないんです。会社の人なのって聞いたら違うというし……だから、もしかしたら奥さんのいる人かなと思いました。でもそれを聞いたら激しく否定したので違うとわかりました。いろいろと聞いたんですけど、ちっとも教えてくれないんです」
「では話を変えるよ。あなたからみた彼女の性格を教えてくれないかな」
「性格ですか?……そうですね……彼女は物静かな女性です。芯は強くて、ちょっと頑固なところもあります。でも偏屈ではありません」
「おとなしくて頑固なんだ」
「ちょっとだけ頑固です。おとなしいのは合っています。たとえば、合コンに誘っても絶対にきません。そういうのは苦手だといって」
「一緒に買い物とか食事とかに行くことはあるの?」
「ありますよ。彼女をそんな変人扱いにしないでください」
「ごめん、ごめん……そうだな、たとえば、彼女は普段から自分のことをあまり話さないタイプなのかな」
「そんなことはありません。身の上のこと以外はなんでも話し合える仲なんです」
「身の上というのは、自分が育った家庭環境とかのことかな」
「そうです。彼女は札幌出身です。高校まで札幌にいたらしいです。
彼女が話してくれたのは、身内は札幌にいる祖父と祖母だけだということと、ご両親はすでに亡くなっているということだけです。それ以外のことは話してくれません」
「聞いても?」
「はい。聞いてもすぐに話題を変えます。ふれられたくないみたいです」
「札幌時代になにかあったのかな?」
「わかりません」
 そこに秘密があるようだ。しかし、その秘密とギクシャクしている敦夫との関係がリンクしているのかどうかはわからない。
「ただ……」
「ただ、なに?」
「一度だけ、彼女、思いつめた表情で、私は十五年前ですべてが止まってしまった。といったんです。口をすべらせた感じで。そのあと、すぐになんでもない表情で話題を変えました」
「十五年前ですべてが止まってしまった……そういったんだね」
「はい」
 片山優子は現在三十三歳。十五年前というと十八歳。高校卒業の年か。するとまだ札幌にいたときと考えてよさそうだ。
「彼女は高校を卒業してこっちにきたんだろうか」
「卒業してから二年後にこっちの大学に入ったと聞きました。ちなみに、彼女と私は大学が一緒で同い年なんです。でも彼女は二年遅れで入学しているので卒業年度は違います」
 十五年前の札幌。それがキーワードだ。なにかがあったんだ。十五年前の札幌で。腹は決まった。手がかりはそこにある。探偵の勘だ。
「だけど、そこまで心配してくれる友はなかなかいないよ。彼女はいい友達を持ったね」
「ありがとうございます……もうあんな思いは嫌なんです」
「どういうことかな」
「中学のとき、親身になってあげられなくて友達をなくしたことがあるんです……」
「嫌なことを思い出させてしまったね」
「ごめんなさい。余計なことをいいました」
「そんなことはない。お役に立てなかったけど、あなたの気持ちは充分にわかりました。その気持ちは絶対に片山優子さんに通じると思う。どこまでできるかわからないけど、彼女のために頑張ってみるよ。今日はありがとう」 
 野崎里美は素晴らしい笑顔をみせた。
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