第26話

文字数 5,680文字

 久しぶりの早起きのはずだった。だが迂闊にも寝坊してしまった。寝酒はセーブしたつもりだったが、起きる予定だった時間は三十分もすぎていた。大急ぎで着替え、朝食も取らずに家を出た。夜明け前の冷気は、弛緩した筋肉を緊張させ、頭のなかの霧を吹っ飛ばしてくれた。
 浜松町駅でJRからモノレールに乗り換えた。驚くほど混雑していた。土曜日ということもあって、ラフな格好の乗客が八割といった感じだった。サラリーマンスタイルとも違い、かといって旅行者にしては小さなバッグひとつの自分が、ひどく場違いな感じがした。
 羽田に着くと、押し出されるようにモノレールを降り、出発ロビーへ向かった。
 チェックインのあと、サンドウィッチとコーヒーで慌ただしく朝食をすませた。そのあと新聞を読む時間もなく、七時発の飛行機に乗り込んだ。機内はほぼ満席だった。
 離陸するとすぐに眠りに落ちた。目覚めたときは北海道上空だった。雪景色が広がっていた。まもなく着陸態勢に入ると、機長のアナウンスがあった。
 定刻どおり八時半に新千歳空港に着いた。小さなバッグだけの私は、最初に出口を出て、そのままエスカレーターで地下まで下り、快速エアポートに乗った。まもなく動き出して地上に出ると、雪一面の景色で吹雪いていた。快速エアポート内は、人いきれと暖房で息苦しいほどだった。
 札幌駅には三十七分で着いた。駅構内は人でごった返していた。駅構内を急ぎ足で抜け、タクシー乗り場をめざした。幸い吹雪はやんでいた。
 白石区北郷四条には二十分で着いた。時計をみると十時二分前だった。あたりを見回すと、無落雪屋根と灯油の大きな貯蔵タンクが眼についた。長島亮太の家の玄関前は、きれいに雪かきがされていて、危なっかしい足取りの私でもすべることはなかった。
 色あせた門柱の呼び鈴を押して待った。しばらくして、なかから返事が聞こえた。今度は待つまでもなく、玄関ドアから胡麻塩頭の老人が顔を出した。
 名前を確認すると長島亮太本人だった。小太りの体形と顔立ちがなんとなく狸を連想させた。リタイアして変わったのかどうかわからないが、眼つきは穏やかだった。私は名前を名乗り、頭を下げた。
 玄関脇の部屋に通された。年季の入った小ぶりの応接セットと壁掛け時計と花のカレンダーだけの質素な部屋だった。部屋の隅にある石油ストーブがありがたかった。
 私はコートを横に置き、名刺と一緒に羽田で買った菓子折りの手みやげを渡した。
「東京からいらっしゃったんですか」
「そうです。今日はお忙しいところお会いいただきまして、ありがとうございます」
「尾崎さんの紹介だからお会いしないわけにはいきません」
「恐れ入ります」
 年配の女性が入ってきた。長島亮太が家内ですと紹介した。奥さんはお茶と煎餅が入った菓子鉢を置いて静かに部屋を出て行った。
「きのうの夕方に突然尾崎さんから電話があって驚きました。そこで古い事件の話が出たので二度吃驚です」
「急なお願いで申し訳ありません」
「いや、かまいませんよ。どうせ暇ですから。ただ、なんの目的があってあの事件のことを調べていらっしゃるのか、お聞きしたいですな。尾崎さんは本人に聞いてくださいとしかいいませんでした。ご返事によっては無駄足になるかも知れませんよ」
 刑事の眼に変わった。下手な嘘はつけない。そう思った。
「名刺にありますように、私は探偵をやっております。いま調査している案件ですが、平たくいうとある女性の縁談に関係したものです。実は、調査を進めていったところ、あの事件が浮かび上がってきました。その縁談に密接に関係しているようなんです」
「ほう」
 長島亮太が身を乗り出した。興味を示したようだ。
「ある男性が恋人である女性にプロポーズをしました。でも女性は男性を嫌いではないのに断りました。断った理由を話してくれません。確たる裏付けはないですが、私はあの事件が暗い影を落としているのではないかと、思っています。私はあの事件を知ることが、すなわち、女性が頑なに拒んでいる理由を知ることになるのでは、と思っています。その女性は苦しんでいるんです。男性と一緒になりたいと心から思っているはずです。だけどなれない。あの事件のせいなんです。そんな気がします。差し出がましいようですが、なんとかしてあげたい。そんな気持ちなんです」
 そこまで言い切っていいのだろうか。そう心の声が聞こえる。いっぽうでは自分の勘を信じろ、という声も聞こえる。やはり進むしかない。
「理由を知ることがその女性のためになると、そう本気で思っているんですか」
「知ることが先決です。知らなければさきに進めません」
「それでその女性は本当に幸せになるのでしょうか」
 わからない。でもそう思いたい。
「私は幸せになってもらいたいと心から思っています」
「知り得た情報で人を傷つけるようなことはありませんな」
「ありません。信じてください」
「良心に恥じるところはないですな」
「誓ってありません」
「わかりました。まあ、お茶でも飲んでください。煎餅はお口に合いますかどうか」
 チョーさんと呼ばれていたもと刑事はそういうと、自分でもお茶に手を伸ばした。私も倣った。
「なんでも聞いてください。私の話がお役に立つのであれば喜んでお話しします」
 私はバッグから手帳を出した。
「ありがとうございます。ではさっそくですが、長島さんはあの事件の担当捜査員として、最初からかかわっておられたのでしょうか」
「そうです。私は定年間近でした。この最後の事件が一番悲惨でむごたらしいものでした」
 もと刑事はここでいったん言葉を切った。少し間が空いて、小さな咳払いをしたあと、話を続けた。
「十五年前になります。石原辰夫は建設関係の仕事をしていました。やや粗暴なところもあったようですが、いたって普通の男でした。素面のときはね。だが、酒が入ると人が変わるんです。歯止めが効かなくなるんですな。その当時、やつには同棲している女性がいたんですが、酒が入ると暴力を振るっていたようなんです。いまでいうDVというやつですか……そんなある日、たまたま仕事が休みでやつは昼から酒を飲んでいましてね。それでつまらないことでキレて例によって暴力ですよ。その女性は暴力に耐えかねたんでしょうな。石原が眠り込んだのをみて実家に逃げたんです。そんなことがたびたびあったようです。眠りから覚めた石原は女性がいないことを知り、また実家に逃げたと思い、さらに酒を飲んでその勢いで実家に押しかけたんです。そしてその女性を出せといって騒いだんです。でも、実家の親も堪忍袋の緒が切れたのか、帰れといって拒否したんです。それで頭にきた石原は家のなかに上がり込んでその家の包丁で父親と母親とその女性の三人を刺し殺したんです。第一発見者は、たまたま外出していて難を逃れたその女性の妹でした。われわれが現場に着いたとき、妹は居間で茫然自失の状態でした。警察に電話をしたのも覚えていないような状態でした。現場はそれはもうひどいありさまでした。血の海でした」
 手が震えた。体がカッと熱くなった。私は落ち着くため、ゆっくりと大きく息を吐き出した。
「もう思い出したくないですな」
 もと刑事は大きくため息をつき、そうつけ加えた。
「石原辰夫の犯行だとすぐにわかったんでしょうか」
「わかりました。われわれが駆けつけたとき、父親にまだ息がありまして、そこで石原の犯行だとわかったんです。しかしその父親もまもなく病院で亡くなりました」
「石原はすぐに逮捕されたんでしょうか」
「すぐに逮捕できました。近所とやつのアパートを捜索したときに、現場近くの公園のベンチで寝ていたやつを発見して逮捕しました。石原は、凶器の包丁を握りしめたまま、返り血を浴びて血まみれの状態で寝ていました。それがね、いま思い出してもゾッとしますけど、やつを逮捕しようとしたときに、目覚めた石原はわれわれをみて、包丁を手に激しく抵抗したんです。それはもう暴れ馬ですよ。最後は観念したのか、自分の腹に包丁を突き立てようとしたんです。しかしかろうじて押さえ込みました」
「逮捕後の石原辰夫の様子はどうでした」
「おとなしく素直に供述しました。酒が入っていないとまるで借りてきた猫ですよ」
「死刑執行は七年前ですね」
「ちょっと待ってください」
 もと刑事はポケットから手帳を出して開いた。
「そうです。七年前ですね。最高裁まで死刑判決でして、判決が確定後、二年して執行されました」
「比較的執行は早いですね」
「そうですな。ときの法務大臣によりますからね」
「ところで、同棲していた女性は長女の板垣葉子さん、二十二歳ですね」
「そうです」
「素朴な疑問ですが、板垣葉子さんはなぜそんな男と同棲なんかしたんでしょうかね」
「あとで被害者の妹さんに聞いたんですが、石原辰夫は女に優しく、どこか頼りなげであったらしいですな。酒が入っていないときですよ。だから自分が見守ってやらなければいけない、とお姉さんが日頃話していたらしいです」
「その優しい気持ちは相手に通じなかったというわけですか」
「残念ながら……」
「その妹さんは板垣千賀さん、十八歳ですね」
「そうです。葬式のときの彼女は泣き崩れていましてね。かわいそうでみていられなかったですね」
 もと刑事はそのときのことを思い出したのか、ちょっとの間眼を閉じた。
「板垣千賀さんはひとり残されたと聞きましたが、親類縁者は?」
「葬式のときに東京から父方の祖父と祖母がきていました。縁続きはほかにいないと聞きました。あとで聞いた話ですが、彼女は事件後、その祖父と祖母のところに行き、そこから都内の看護専門学校に通ったようです。東京の祖父のところに行くことは事件前から決まっていたようです」
「祖父と祖母のお名前は?」
「祖父は板垣政夫さん。祖母は板垣久子さん。たしかおふたりともすでに亡くなっていると聞いています」
 もと刑事は手帳をみながら答えてくれた。
「事件後、石原辰夫のほうの家族も悲惨だったと聞きましたが」
「そうですな。これに限らず、事件があると被害者側のほうばかり眼がいきますが、残された加害者側のほうも悲惨ですな。それで石原ですが、そこは父親と母親と石原辰夫と妹の四人家族なんです。父親は市内で小さな食堂をやっていたんですが、事件後店を畳みまして、その年の八月に自殺しました。嫌がらせが相当あったらしいですな。母親は翌年の一月に病死しました。過労で倒れてそのままだったようです。妹も板垣千賀さんと同じくひとり残されたんです。ちなみに、妹と板垣千賀さんは同じ高校のクラスメイトで親友なんです。事件は三月の二日に起こっているんですが、その前の日は高校の卒業式でして、犯行当日は親友のふたりは一緒に外出していました。板垣千賀さんはそれで難を逃れたんです」
「石原の妹さんは石原優子さん、十八歳と聞いていますが」
「そうです」
「彼女の親類縁者は?」
「市内に母方の祖父と祖母がいます。親類縁者はそのおふたりだけだと聞いています。祖父は冨吉さん、祖母は野枝さん。ご高齢ですがおふたりともいまもご健在です。事件後、優子さんはおふたりのところに引き取られていますね」
「引き取られた?」
「ええ、養子になったんです」
 鉛筆を持つ手が止まった。もしかしたらという考えが脳裏をよぎった。
「もしや、祖父の姓は片山では?」
「ええ、そうですよ。よくご存知で」
 つながった。片山優子がここでつながった。少し震える手で残りのお茶を飲み干した。お茶はもう冷たくなっていた。
 自分の勘を信じた喜びよりも、安堵感が勝っていた。
「その後、彼女はどうなったんでしょうか」
「たしか東京の大学に行ったようですな。残された妹さんたちがそれぞれ東京に行ってからのことは詳しくは知りません」
 片山優子の祖父と祖母が健在と聞いた。会って話を聞きたい。
「長島さん、お願いがあります」
「はあ、なんでしょう」
「市内にお住まいの祖父と祖母のおふたかたを紹介していただけないでしょうか」
「会いたいんですか」
「ええ、どうしてもお話を聞きたいんです」
 長島亮太が私をキッとみた。眼を逸すわけにはいかなかった。
「ずいぶん熱心ですな」
「性格なんです」
「わかりました。うかがってみましょう。先方がいいといったらすぐに行きますか」
「はい」
「ではちょっと待っていてください。電話をかけてきます」
 長島亮太が部屋を出て行った。
 十分後、長島亮太が戻ってきた。手には一枚のメモ用紙を持っていた。
「会うそうです。いつでもいいといっています。すぐに行かれますよね」
「はい。すぐに行きます」
「これが住所です。それからタクシーを呼びました。おっつけ車がきます。それまで待っていてください」
 そういってメモ用紙をくれた。住所と電話番号が書いてあった。
「ありがとうございました。お話をうかがって大変参考になりました」
「お役に立てましたか」
「はい。きたかいがありました」
 外で車のクラクションが聞こえた。タクシーがきたようだ。
「最後に、私のほうからお願いがあります」
 立ち上がろうとする私を制して、長島亮太が険しい表情をみせた。
「残された彼女たちは過去を忘れて懸命に生きていると思います。今日はあなたの熱意で彼女たちのことを話してしまいましたが、私はあの事件のことを今後一切話すことはないでしょう。ですから、あなたも彼女たちが不幸になるようなことは絶対に慎んでいただきたい。私は守ります。あなたも守ってください。約束していただけますね」
 刑事の顔になっていた。長島亮太の気持ちが痛いほどわかった。
「約束します」
「ありがとう」
 長島亮太が頭を下げた。私も黙って頭を下げた。
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