第20話

文字数 4,005文字

 錦糸町駅の南口を出て京葉道路を渡った。前方に首都高速の高架がみえる。少し行って右の道に入った。しばらく歩き、細い道に入ると馬場勝彦の叔母がやっているスナックがあった。小糸刑事がルートを教えてくれたのですぐにわかった。
 店はかなり年季が入っていた。二階建ての住宅の一階部分を店にしていた。二階部分は住まいだろう。スナックの看板に明かりがついているのをみてほっとした。これで無駄足にならずにすんだ。
 カウンターだけの小さな店だった。小糸刑事からは、馬場勝彦の叔母である岡本文子の年齢を五十八歳と聞いている。だがカウンターのなかにいる女性は、実際の年齢よりも老けてみえた。生活苦が顔の皺に刻まれていた。厚化粧が痛々しかった。
「いらっしゃいませ」
 営業笑顔で迎えられた。私はコの字型のカウンターの入口に近い角に座った。客は私だけだった。座るとすぐにおしぼりを手渡された。手をふきながらビールを注文した。よくみると、スナックのママは馬場勝彦の目鼻立ちと重なってみえた。
「お客さんははじめてかしら」
 ビールを注ぎながらスナックのママはそういった。
 出された枝豆をひとつ食べた。
「なかなかいい店だね」
「ありがとうございます。これからもよろしくね」
 ママがシナを作った。若いときはうまく化ければそれなりにみられる美人だったかも知れない。
 店内に歌謡曲が流れている。少しうるさい気がするが会話はなんとかできる。まだ半分ほどビールが残っているが、ママがビールを注いだ。
「景気はどうなの?」
「まあまあかしら」
 まあまあといったが、見栄がかなり入っていそうだ。
「いつもは何時ごろから混み出すの?」
「そうね。九時ごろかしらね。お客さんはいいときにきたわ。九時ぐらいはもういっぱいだから」
 また見栄が入っているようだ。
 長居をするつもりはない。酔わないうちに話を切り出すことにした。
「ママさんは岡本文子さんでしょう」
「はい。そうですけど……」
 岡本文子は不思議そうな顔をした。
「どこかでお会いしました?」
「いや、今日がはじめてだよ」
 表情がちょっと強張った。
「怪しい者じゃないよ。ところでママさんの甥っ子は馬場勝彦君でしょう」
 岡本文子の態度が豹変した。顔がさらに強張り、横を向いた。
「少し話を聞かせてくれるかな」
 穏やかな声を出した。
「あの子、またなにかやったんですか」
「そうじゃないよ」
「もしかして刑事さんですか」
 岡本文子は固い声でそういうと煙草に火をつけた。本当なら塩をまいてやりたいという顔をしている。
「私は違うよ」
「じゃあマスコミの人?」
「ちょっと違う。探偵だよ」
「探偵?……浮気調査なんかする探偵のこと」
 少し興味を示したのか、こちらを向いた。
「ちょっと違う。実は、いろいろな事件の調査をして、その情報を統計としてまとめ、それを生かして事件の傾向と対策に役立てようという、いわばお国の仕事だよ。だから、興味本位で話を聞かせてほしいといっているわけではない」
 大いに違うが、このぐらいはいいだろう。なんとしても聞きたい情報を引き出したかった。
「そのなんとかという調査と、勝彦が関係しているんですか」
「大いにね。将来加害者の更正の手助けとなる貴重なマニュアルとなるんだよ」
 大いに違うが、まあいいだろう。
「私のことはだれに聞いたんです?」
「池袋署の小糸刑事さ」
「ああ、あの刑事さん。一度ここにもきたわ」
「ママさんには迷惑をかけないからさ。協力してよ」
 ふん、というような表情を浮かべたが、特に拒否する言葉はなかった。代わりに鼻から煙草の煙を勢いよく出した。
「ママさんも一杯どう?」
 私はビールを注いでやった。岡本文子は一気に空けた。すかさずビールを追加して枝豆も注文した。胸くそ悪い客でも、金を落としてくれる客ならば、少しは我慢してくれるのでは、と思った。
「さっそくだけど、勝彦君はどんな子だった?」
「どんな子って……お客さんのほうが詳しいんじゃないですか」
 まだ声は固いが、なんとか付き合ってくれそうだ。国の仕事といったひとことが効いているのかも知れない。
「他人と身内では感じかたが違うじゃない。身内の意見を聞きたいと思ってさ」
「いまの勝彦のこと、お客さんはご存知なの?」
「池袋の組のこと?」
「そこまで知っているんだったら話すけど、あの子はね、小さいときから手のつけられない不良だったわ。甥っ子の悪口はいいたくはないんだけどね。ふた親はずいぶん泣かされたみたいよ。特に母親よ。私の実の姉なんだけどね。その姉が亡くなってからはひどくなったわ。そのあとよ。入ったのは」
「組に入ったんだね」
「ええ、入るべくして入ったという感じね」
「ママさんも泣かされた口かい」
「むかしはずいぶん小遣いをせびられたわ。でも組に入ってからは会っていないわ」
 岡本文子はガラスの灰皿に煙草を乱暴に押しあてた。
「彼の父親、つまりママさんの義理のお兄さんの名前は?」
「義秀よ」
「義秀さんは亡くなっているんだよね」
「そうよ」
「義秀さんが亡くなったのはいつ?」
「八年前よ。心臓病でね」
「母親の名前は?」
「光代よ」
「光代さんが亡くなったのはいつ?」
「五年前ね。癌よ……姉は亡くなる前、勝彦のことをずいぶん心配していたわ。たしかに勝彦はどうしようもないバカ息子だけど、やっぱりねえ、母親としてはお腹を痛めた子ですからね」
 空いているコップにビールを注いでやった。泣き上戸でなければいいが。
「義秀さんも勝彦にはずいぶんと手を焼いていたわね……問題を起こしては謝りに行ったり、警察に行ったり……」
「やはり彼のまわりで近しい人はママさんだけなんだね」
「そうね。そうなるわね……勝彦はひとりっ子だし……それもあの刑事さんに聞いたの?」
「そうだよ」
 岡本文子の手もとのコップをみると空だった。ビールを持ち上げると素直にコップを差し出した。注いでやり、もう一本追加した。この客なら飲んでもいいと思っているようだ。岡本文子はビールをぐいと飲み、煙草に火をつけた。
「ちょっと待って。いるわよ。兄が」
「なに、本当?」
 思わずコップを持つ手に力が入った。
「歳の離れたお兄さんが。勝彦とは異母兄弟になるけどね」
「というと、義秀さんは再婚なの?」
「そうよ。姉とは再婚なのよ。子供は前の奥さんが引き取ったと聞いたわ」
「お兄さんの名前は?」
「なんだったかな……」
 岡本文子はさかんに首を傾げた。
「やっぱり思い出せないわ」
「ママさんはその人と会ったことはあるの?」
「あるわ。一度だけね。義秀さんのお葬式で」
「実の父親になるわけだから、きたんだね」
「ええ、礼儀正しい人だったわ。勝彦とえらい違いよ」
「すると、そのお兄さんと勝彦君は会っているんだね」
「お葬式で会ったわね。そのときにふたりで話をしていたのをみたわ」
「その後、ふたりは会っているのかな」
「それは知らないわ」
 もどかしい。なんとか名前を知りたい。これは私の勘だが、兄の存在は、いい方向に導いてくれる手掛かりになるかも知れない。
「なんとか名前はわからないかな……そうだ、写真はないかな。葬儀のときの」
「ああ、写真ね。そういえば撮ったわね」
 岡本文子が呑気な声を出した。
「ぜひみたいんだけど、なんとかやらないかな」
 思わず声が震えた。
「たぶん上に行けばあると思うんだけど」
 岡本文子が上を指差した。やはり上は住まいになっているようだ。
「なんとかならない。頼むよ。ボトルをキープするからさ」
 そのひとことが効いたのかどうかは知らないが、しょうがないな、といいながら、岡本文子はカウンターを出て階段を上がった。
 十五分は長く感じた。戻ってきた岡本文子は一枚の写真を手に持っていた。
「右端がそのお兄さんよ。隣が勝彦。その隣が姉と私」 
 岡本文子が新しい煙草に火をつけながそういった。
 あっと声が出た。知っている顔が写っていた。小太りで太くて濃い眉毛が特徴の古谷信太郎が写っていた。殺された古谷信太郎だ。
「お兄さんは古谷信太郎というんじゃないかい」
「あ、そうよ。そんな名前だった。お客さんは知り合いなの?」
 岡本文子は古谷信太郎が殺されたことを知らない。もちろん知らないほうがいい。
「まんざら知らないわけではない」
「あらそうなの」
「この写真をしばらく借りてもいいかな。必ず返すからさ」
「いいわよ」
「どうもありがとう。おもしろい話が聞けて助かったよ。いい資料ができそうだ」
 私は約束どおりに、標準的なウイスキーのボトルをキープした。情報の見返りとしては安いものだった。
「このボトルは、しがない探偵からの贈り物だといって、贔屓の客に振るまってもらってかまわないからね」
 岡本文子が呆気に取られた顔をした。

 スナックを出てすぐに所長に電話した。一刻も早く知らせたかった。
「どうした?」
 電話に出た所長は小声だった。
「いまスナックを出たところだ」
「馬場勝彦の叔母がやっている錦糸町のスナックだな」
「そうだ。おもしろい話が聞けた」
 岡本文子から得た情報を伝えた。話が前後して聞きづらかったと思うが、所長は終わりまで黙って聞いてくれた。
「サブやん、金鉱を掘りあてたかも知れないぞ」
 私の話が終わると所長はいつもの声の調子に戻っていた。
「そう思うか」
「ああ、捜査本部が飛びつく情報だ。さっそく捜査本部にいる知り合いに伝える」
「ひとつ頼みがある。私の名前を出さないでくれ。いろいろと聞かれるのは面倒だし、いまの案件との関係もあるからな」
「わかった。そこはうまくやる」
「頼む」
「こっちからも頼みがある。この件からはもう手を引いてくれ。あとは警察にまかせたほうがいい」
「ああ、そうするよ。命あっての物種だからな。これからは倉持雄治マターに専念するよ」
 電話を終えて、私は錦糸町の駅に向かって歩いた。歩きながら、福永専務に会うという次の一手を実行に移す手段を考えていた。
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