第9話

文字数 9,352文字

 久しぶりに動かすマーチが、機嫌よく走ってくれるかどうか、それだけが心配だった。だがいまのところ機嫌はいいようだ。これが最後まで持ってくれるかどうかだが、駄目だったときは私の運がなかったと諦めるしかないだろう。ただ、ガス欠でギブアップは洒落にならないので、忘れずに途中のスタンドで満タンにした。ついでに、自分もガス欠でギブアップはこれまた洒落にならないので、途中のコンビニでおにぎりとお茶のペットボトルをまとめ買いして用意した。
 倉持の話だと、敦夫は十時にマンションを出るらしい。私はそれを見越して三十分前にはマンション前の道路で待機していた。
 まだ動きはない。なんとなく落ち着かない。私が恐れていることは、もう出発しているか、反対に気が変わってドライブが中止になっているか、そのどちらかだ。ここで永遠に待ちぼうけだけはごめんだ。だがその恐れはたぶんないだろう。いまは車を走らせているイメージだけを思い描いている。プラス思考というやつだ。今日は長丁場になりそうな予感がする。私はシートの背を少し倒して肩の力を抜いた。
 携帯が鳴った。シートをもとに戻し、通話ボタンを押した。倉持からだった。電話はすぐに終わった。少し前に敦夫に電話をかけて様子をさぐったという。倉持がどういう理由を捻り出して敦夫に電話をかけたのかは知らない。敦夫は、いま出かけるので夜にまた、といって切ったらしい。これで敦夫が予定どおりに出かけるのがわかって安心した。ただ、夜というのがちょっと引っかかる。まあいい。ドライブが夜になってもかまわない。とことんついて行くまでだ。
 黒のBMWがマンションの駐車場から道路に出てきた。反射的に時計をみた。ちょうど十時だった。事前に教えてもらったナンバーに間違いなかった。私は少し待ってマーチを発進した。
 BMWは第一京浜に入り、大井町方面に向かった。間に一台挟んで追った。今日は曇りで肌寒い。快適なドライブ日和とは言いがたいが、雨よりはいい。スモークフィルムのせいで、こちらからはBMWのなかはみえない。敦夫は余裕を持って運転しているような感じがする。BMWは特に急ぐ様子もなく流れに乗っている。
 すぐに陸橋を渡った。左下に複数の線路がみえる。やがて右に鳥居と石碑がみえた。品川神社だ。左には高架を赤い電車が走っている。京浜急行だ。まもなく山手通りと交差する交差点に入った。そのまま直進した。一瞬だが左に目黒川がみえた。だがあっという間に視界から消えた。どこに行こうとしているのか、まだわからない。真後ろにつかないように神経を使っている。だが間に挟むのも二台までだ。それ以上だと危険だ。見失う恐れがある。気がつくと喉がカラカラに渇いていた。思わず苦笑いが出た。さきが思いやられる。お茶のペットボトルに手を伸ばしひとくち飲んだ。
 青物横丁駅前の交差点を通過した。直進だ。京浜急行の高架が左にみえている。道路はそこそこ混んでいるが渋滞というほどではない。まあまあ順調だ。しかしどこへ行こうとしているのか。こんなときカーナビがないのが悔やまれる。ポンコツ車には似合わないからと勝手に思っていた。しかたがないので、頭のなかで地図を思い描いてみる。頭のなかのカーナビが、このさきは大森方面だと教えてくれた。そこへ行くのか。
 うっかりすると見逃してしまいそうな小さな看板が道路脇にあった。鮫洲駅を示す看板だ。看板がなければ駅とはわからない。私の記憶では、右側には大井公園があるはずだ。でも建物で遮られていてよくわからない。
 大井消防署前の交差点も通過した。まだ直進だ。またもうっかりすると見逃してしまいそうな小さな看板が道路脇にあった。立会川駅を示す看板だ。看板がなければどこが駅かわからない。小さな川がみえた。どうやらこれが立会川というらしい。
 大森方面を示す案内標識をすぎてすぐにBMWは右車線に寄り、右のウインカーを点滅させた。私もそうする。南大井一丁目の交差点を右折した。道が急に狭くなった。
 BMWが徐行しながら左折した。路肩に止まっているトラックが邪魔だ。BMWはゆっくり進んでいる。さらに行くと道はもっと狭くなった。一方通行の道だ。
 BMWはやっと停止した。私は少し離れて停止した。
 三分経ったが動きはない。本郷敦夫は車から出てこない。なにをしているのか。気になったが待つしかない。もしかすると相手が出てくるのを待っているのか。どうもそのようだ。助手席に置いてあるカメラを手に取り身構えた。
 左にある町工場の路地から女が出てきた。望遠で確認する。女の年齢は三十歳前後。ベージュのチェック柄コートに黒のスカート。眼鏡はかけていない。髪は背中までのポニーテール。そして落ち着いた感じの美人。坂上富雄の話と一致する。女は片山優子とみて間違いないだろう。私は続けざまにシャッターを切った。女はBMWのうしろのドアを開け、乗り込んだ。助手席ではない。ということは敦夫の子供と並んで座っているのか。本当の親子のようだ。坂上富雄の言葉を思い出した。
 BMWが動いた。私もゆっくりとあとに続く。
 敦夫が政治家を断念するほどの悩みとはなんだ。いったいなにがあるというんだ……つい考えごとをしていて、少しの間注意力が散漫になった。しばらく直進したあと、右折を繰り返したのはなんとなく覚えている。いまは直進している。BMWは減速して私の前を走っている。いったいどこに向かっているのか。もう方向がわからなくなっている。
 BMWが右折した。右に公園がみえる。公園の名前はわからない。左は学校のようだ。小学校だろうか。
 すぐに大きな通りと交差している交差点の手前で止まった。南大井一丁目の交差点だ。さきほどの道に戻ったことになる。現在位置がようやくわかった。信号が青になった。曲がらずに直進した。前方に京浜急行の高架下がみえる。その下を通った。
 右にしながわ区民公園がある。そのさきは首都高速羽田線の高架だ。たしか、このまま行けば、大井競馬場があるはずだ。まさか競馬か。そんなことはないと思うが。
 歩道橋のある交差点を左折した。競馬はパスだ。しかし行き先が読めない。行きあたりばったりの目的のないドライブ。それとも私の追跡を知っていて、からかっている。ちらっとそんな考えが浮かぶ。そんなバカな。すぐに苦笑いが出た。気を取り直して、気分転換にと持ってきた飴を口に放り込んだ。
 両側に倉庫が建ち並ぶ道路をさらに進む。コンビニをすぎていきなり左に曲がった。ちょっと油断していた。慌ててあとを追う。BMWは余裕で勝島入口から首都高速羽田線に入った。あとに続く私のマーチのエンジンが唸りを上げた。
 大井競馬場をすぎて、平和島パーキングエリアもすぎた。首都高速は相変わらず混んでいる。私にとって幸いだった。BMWにすっ飛ばされたら、追いかけるのは苦しい。マーチのエンジンはさきほどから悲鳴を上げていた。
 昭和島ジャンクションをすぎた。いつしかモノレールが併走している。どこに行くんだ。思わず大声が出た。お茶を飲んで気を静めた。興奮している場合ではない。まだドライブは続くはずだ。
 羽田トンネルに入った。嫌な考えが頭をよぎった。羽田で降りてそのまま飛行機に乗るという考えだ。どこまでもついて行くつもりだがそれだけは勘弁してほしい。
 羽田トンネルを抜けた。そのさきの羽田を通過した。飛行機は杞憂だった。よし、と声が出た。ここから首都高速横羽線になった。
 多摩川をすぎてすぐに大師パーキングエリアを知らせる案内標識があった。そこでトイレタイムではないのか。期待したがあっけなく裏切られた。大師パーキングエリアもすぎた。途中休憩もしないらしい。あてが外れた。いつまで車に乗っているのかわからないが、お茶は控えておいたほうがよさそうだ。
 片側二車線の道を淡々と進んでいる。車内の三人はドライブを満喫しているのだろうか。音楽を聴きながら、冗談などをいいあっているのだろうか。こちらは、そろそろドライブに飽きたジジイがひとり、小便を我慢しながら尻の痛みに耐えている。足を思い切り伸ばしたい。だがもう少しの辛抱だ。そろそろ昼飯の時間だ。必ずどこかに停車するはずだ。それまでの我慢だ。
 生麦ジャンクションをすぎた。ここまできたら目的地は横浜だろう。みなとみらいなのか、山下公園なのか、それとも元町で買い物か。好きにしろ。早く決めてくれ。
 そごうデパートがみえてきた。このさきに横浜東口出口がある。横浜駅周辺に行くのならここで降りるはずだが、どうするのか。なんとなくだが、降りる気配は感じられない。
 やはり通過した。ランドマークタワーがみえてきた。このさきにみなとみらい出口がある。ここで降りたら、観覧車もあるし、帆船日本丸もある。美術館だってある。観光には申し分ない。
 通過した。観光には興味がないらしい。さきはトンネルだ。トンネルを抜けると横浜公園出口がある。降りるのか。降りないのか。もうそろそろ決めてくれてもいいだろう。
 横浜公園出口で降りるのなら、右車線に行くのだが、はたしてどうするのか。じりじりしてきたこちらの気持ちを汲んでくれたのか、右車線に寄った。やっと降りる気になったらしい。
 横浜公園出口で降りた。横浜スタジアムを左手にみながら直進する。中区役所前の交差点をすぎて、次の日本大通入口の交差点を右折した。そのまま進む。次の加賀町警察署北交差点も直進した。このさきにはなにがあるのだろう。山下公園か。それとも中華街か。
 BMWの左のウインカーが点滅した。すぐさきに中華街パーキングがある。減速してそこに入った。私も続く。昼飯にするらしい。やっと足が伸ばせる。座り続けていたため、尻はほとんど痺れている。
 三階まで行き、BMWは空いているスペースに駐車した。私は二台間に挟んで空いているスペースに止めた。すぐさまカメラをかまえた。
 最初に降りたのは本郷敦夫だ。彼の姿をやっとみることができた。敦夫は青のシャツにジーンズ。黒のハーフコートを小脇に抱えていたが、車を降りてから着た。次にうしろのドアを開けて子供が降りた。やはり子供はうしろに乗っていた。
 子供は八歳と聞いている。孫のゆかりと同じぐらい。こちらは黒のダウンジャケットに赤のスカート。髪は短い。少し痩せ気味か。眼鏡はかけていない。父親の敦夫に似ている。続けて反対側のドアを開けて女が降りた。コートを胸で抱えていたが、車を降りてから着た。 
 三人はエレベーターに向かっている。すかさずシャッターを切った。エレベーターのドアが閉まったのを確認して、急いで車から降り、階段を使って一階まで下りた。彼らはパーキングを出て、さきの道を歩いていた。息を整える間もなく、カメラを首からぶら下げてあとに続いた。
 細い道に入った。結構人通りは多い。彼らは特に急いではいない。ゆっくりと歩いている。女のほうを向いた敦夫の横顔は笑顔だ。女が子供と手をつないでいる。ふたりの関係も良好のようだ。休みの日にちょっと遠出の家族サービス。そんな感じだ。観光客のふりをして歩く彼らの背中を写した。
 やがて細い道は中華街大通りと交わった。歩行者天国の中華街大通りは車道も歩道も人で溢れていた。彼らは右に曲がった。慌てずについて行く。少し歩いて、彼らは聘珍樓に入った。ここで昼飯を食べるつもりだろう。私は入らない。なにも危険を冒すこともない。
 用心のため、店の前で十分待った。彼らは出てこない。これでほかの場所に移動することはないと判断した。私はパーキングに戻ることにした。
 パーキング入口の自動販売機で缶コーヒーを買い、三階に戻る途中でトイレを使い、車に戻った。シートに座り、やっとひと息ついた。彼らは高級中国料理店で豪華な昼食だが、私は車のなかで冷えたおにぎりとペットボトルのお茶だ。ところで、彼らはなにを食べているのだろう。フカヒレか。北京ダックか。それともみたこともない料理か。考えてもしようがない。私は観念しておにぎりを食べ、お茶を飲んだ。食後に缶コーヒーのプルトップを開けた。コーヒーの香りが気持ちを落ち着かせてくれた。缶コーヒーを飲み終わると、シートを倒して眼をつぶった。あと三十分は帰ってこないだろう。
 ハッとして起きた。いつのまにか眠ってしまっていた。慌ててシートをもとに戻した。前方をみると、ちょうど彼らがエレベーターから出てきたところだった。危ないところだった。眼を覚ましたら本郷敦夫の車がなかった、なんてことになったら、泣くに泣けないところだった。腹がくちくなって気が緩んだのかも知れない。気持ちを入れ替えてBMWのあとに続いた。
 このまま女のアパートに戻るのなら、いまきた道を逆に辿るはずだから、パーキングを出て右だ。もし左なら別な目的地だ。私は注意してBMWのウインカーをみていた。パーキングの出口を出てすぐに左側が点滅した。別な目的地が選択された。今度はどこだ。私は呟いた。
 道なりに行ったさきにある朝陽門をくぐった。くぐってすぐの中華街東門の交差点を右折した。さきには谷戸橋の交差点がある。まっすぐ行くと、港の見える丘公園や元町がある。さてどうするのか。
 左折した。右手にみえる首都高速と併走する。観光でないとなると、どこへ行くのか。左にマリンタワーがみえる。まだ山下公園という手もある。しかし、山下橋の交差点を左折せずに直進する。山下公園には興味がないらしい。やがてBMWは道なりに緩やかな右カーブを曲がった。
 予想はついた。高速道路に乗るつもりだ。ほぼ間違いない。BMWが右の車線に寄った。そのまま進み、思ったとおりに新山下の入口から首都高速湾岸線に入った。帰りは景色のいい湾岸線にすると決めたらしい。
 右側に本牧ふ頭がみえる。左側に小さくランドマークタワーがみえる。車は順調に流れている。景色はもちろん悪いわけがない。そろそろベイブリッジだ。女と子供は景色にみとれているだろうか。
 ベイブリッジをすぎた。大黒ジャンクションがある。左に寄ると首都高速横羽線につながる。そちらに行くはずがない。思ったとおりに直進した。BMWが少しスピードを上げた。マーチの機嫌を取りつつ、ついて行く。
 つかず離れずついて行くのに慣れてきた。BMWのうしろ姿にも愛着がわいてきた。景色はいい。曇り空も陽が差すようになってきた。マーチもいまのところ走ってくれている。文句はないのだが、唯一気分転換ができないのがつらい。せいぜい飴をしゃぶるぐらいだ。せめて横にだれかがいれば違っていたのに、と思う。まあ、贅沢はいっていられない。いまはこのまま深夜まで走り続けることはないだろうとの読みを信じるだけだ。もし走り続けたとしたら、間違いなくエコノミークラス症候群になってしまう。
 鶴見つばさ橋を渡った。直進道路が続く。やや単調だ。左右に京浜地区の工場がある。左手に風力発電機がみえた。直進道路がまだ続いている。物流センターの倉庫が建ち並んでいる。
 二キロメートル近くあるトンネルに入った。結構長く感じる。トンネル出口に川崎浮島ジャンクションがある。左に寄るとアクアラインだ。まさかと思うが用心する。そのまま直進だ。ほっとした。
 またトンネルがあった。多摩川トンネルだ。今度は二キロメートル以上ある。トンネル恐怖症というのがあると、なにかで読んだ記憶がある。トンネルに入ると、恐怖感や不安感で手足が震えたりするらしい。そこまではいかないが、トンネルに入るとやはり不安感がつのる。そのため、一刻も早く出てしまいたいと思い、どうしてもスピードを上げてしまう。そんな気持ちと戦いながら、BMWのあとをやっとの思いでついて行く。
 トンネルを抜けると空港の出口がある。また嫌な考えが頭をよぎった。まず空港第一ターミナルへ行く出口がある。そこは幸い通過した。だがまだ安心はできない。さきには空港第二ターミナルへ行く出口が控えている。
 空港南トンネルにきた。ここは短い。すぐに抜けた。空港第二ターミナルへ通じる空港中央出口の案内がみえた。だがBMWの車線は出口側ではない。本線側だ。大丈夫だ。
 BMWはひたすら進んでいる。空港から飛行機という恐怖はなくなったが、いったいどこへ行くのだろう。いい加減ドライブにも飽きてきた。そろそろ途中休憩をしてもいいのではないだろうか。だがBMWはそんな素振りはみせなかった。
 その後、ふたつのトンネルを抜け、ふたつのジャンクションを通過して、フジテレビがある台場にきた。右側には観覧車もある。ここにきて、このあとの敦夫が選ぶルートがなんとなく読めてきた。それは、このさきの有明ジャンクションで分かれて、首都高速台場線に入り、そこのレインボーブリッジの景色を充分に堪能したあと、そのさきの浜崎橋ジャンクションで首都高速都心環状線に入るルートだ。そこからさきは、芝公園出口で高速を降り、第一京浜に入って品川までくれば、朝のルートを辿ることになるし、ちょっと足を伸ばして銀座という手もある。洒落たフレンチレストランで夕飯を食べて、あとは女のアパートに直行だ。アパートまで見届けたら私はお役御免だ。
 あえなく予想が裏切られた。有明ジャンクションを通過した。そのさきの辰巳ジャンクションも通過した。左には清掃工場の高い煙突があり、右には京葉線の線路がある。BMWは人の気も知らないで呑気に走っている。
 荒川だ。葛西ジャンクションでは首都高速中央環状線への分岐がある。最悪なのは、そこから東北自動車道や常磐道に行くケースだ。そうなると、泊まりの可能性も出てくる。冗談じゃないよ。つい大きな声が出た。
 そのケースはなくなった。ありがたい。葛西ジャンクションを通過した。右に葛西臨海公園の観覧車がみえる。そういえば孫のゆかりを連れて水族館にきたことがあったな、などと考えていたら、BMWは急に左のウインカーを点滅させて、葛西出口の車線に寄った。遅れまいと私も左に寄った。首都高速湾岸線を降りて湾岸道路に入った。
 もしかしたら水族館で寄り道かも知れない。それはいずれわかる。交差点で分岐を案内する標識がみえた。左に行くと環七だ。右は葛西臨海公園だ。直進は浦安方面だ。直進した。水族館は見送られた。
 旧江戸川に架かっている舞浜大橋を渡った。油断はしていなかったが、渡ったさきにある左側の細い道にBMWがするりと入ったときはちょっと慌てた。細い道は左にゆるくカーブしている。ちょうどUターンする格好になった。途中であれっと思った。まわりに見覚えがあった。もしやと思った。と同時に嫌な胸騒ぎがした。たしかこのさきの交差点を左折すると、東京ディズニーランドがあったはずだ。坂上富雄がみたという写真を思い出す。勘弁してよ。泣きたくなってきた。夢と魔法の王国だが、いまは夢をみる気分ではない。どこへ行こうと勝手だが、できれば別の機会にしてほしい。だがまあいい。ジジイがひとりで入園するには、かなり抵抗はあるが、こうなったらとことん追いかけてやる。
 やはりBMWは情け容赦もなく交差点を左折した。このまま進むとディズニーランドの駐車場入口がある。もう行くものと決めつけた。と思ったら左折した。拍子抜けがした。
 右側の東京ディズニーランドホテルをみながら直進した。京葉線の舞浜駅も通過した。やがてアンバサダーホテル入口も通過した。まるで読めなかった。行きあたりばったりの行動としか思えなかった。突然減速した。左のウインカーが点滅している。BMWが入ったところは、イクスピアリの駐車場だった。
 駐車場は混んでいたが、運よくBMWのはす向かいに止めることができた。三人はすぐに車から降りてきた。女が子供に笑顔で話しかけた。本郷敦夫も一緒に笑顔だ。私はすかさずシャッターを切った。三人は仲よく連れ立って、イクスピアリの方向へ歩き出した。
 大勢の人たちが歩いている。駐車場からイクスピアリに向かう人たちと、駐車場に戻る人たちが平行した線になっている。三人の歩みは遅い。私はすれ違う人波にぶつからないように注意しながら三人の背中をひたすらみて歩いた。
 イクスピアリの店内に入った。やはり大勢の人たちでごった返していた。女が子供と手をつないだ。敦夫が女の背に優しく手を置いた。
 スロープで二階に上がる。三人は近くの婦人服の店先で立ち止った。敦夫と女がなにやら話している。私は気づかれないように少し近づいた。どうやら敦夫が店に入るように促している素振りだ。だが女のほうが渋っている様子だ。結局その店には入らなかった。三人はまたゆっくりと歩き出した。そこは女の気に入らない店だったのかも知れない。少し歩き、今度は子供服の店にすんなり入った。私は入口がみえる場所で待機した。十分で出てきた。買い物袋をひとつ、敦夫が手に提げている。わからないようにシャッターを切った。
 続けて違う子供服の店に入った。はしごだ。ここは長かった。出てきたのは二十分後だった。出てきたときには、敦夫が提げている買い物袋は確実に増えていた。今度もわからないようにシャッターを切った。
 疲れた様子をみせずに三人は歩いている。私は確実に疲れている。三人が急に立ち止まった。一軒の婦人服の店を敦夫が指差している。子供が女の手を引いて入ろうと促している。女は笑いながら首を横に振り、歩き出した。遠慮しているのか。敦夫が苦笑しながら女について行く。
 今度は子供を先頭にしてディズニーストアーに入った。長くなりそうな予感がした。足の疲れがひどくなった。座りたいが近くに椅子がない。しかたがないので立って待つ。さきほどから音楽が聞こえている。どこかでジャズバンドが生演奏をしているようだ。ついそちらに気がいってしまう。思いついて時計をみた。ディズニーストアーに入って三十分がすぎていた。思ったとおりなかなか出てこない。ハッとした。違う出口から出て行ったのではと思った。慌てて店内に入ろうとしたとき、彼らが出てきた。敦夫の両手は買い物袋で塞がっていた。なんだか嬉しそうだ。三人が揃ったところで、わからないようにシャッターを切った。
 一階に戻り、三人はフードコートに入った。私も続いた。昼飯の時間はとっくにすぎているが、なかは混んでいた。女と子供が空いている席に座り、敦夫がスウィーツの店でチーズケーキとオレンジジュースとコーヒーふたつを買って女たちの席に戻った。私は少し時間を空けてから同じ店でコーヒーを買い、少し離れて三人を均等にみえる席に座った。
 夫と妻、いや、父と母とその娘。間違いなくそうみえる。なにを話しているのかわからないが、敦夫は饒舌だ。女が笑顔で答えている。子供も違和感がない。やはり笑顔だ。
 これが本当に最後のドライブなんだろうか。仲のいい家族のような三人。
 敦夫が政治家を断念するほどの悩みとはいったいなんだ。いったいなにが問題だというんだ。私は思わず呟いていた。
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