第7話

文字数 2,579文字

 体がだるかった。きのうよりも熱が上がったようだ。測ると案の定七度三分あった。渋谷から帰ると、倉持に電話を入れ、そのあと風呂上がりにビールを飲み、微熱があるのも忘れ、不覚にもソファーでうたた寝したのが原因だった。
 食欲がなかったので牛乳だけ飲み、テレビをつけた。天気予報をやっていた。今日の最高気温は十三度で晴れ。風もなく、穏やかな日になるという。外回り中心の仕事がら、やはりこういう日は助かる。
 まだ時間はたっぷりあった。倉持が指定してきた時間は午後二時だった。倉持から携帯に電話があったのは、今日の午前零時を五分ほどすぎた時間だった。うたた寝が幸運にも邪魔されたのはそのせいだった。
 ダーツバーで敦夫の隣に座った男の人相と、耳に入った会話の断片を報告した件の返答だった。まさか折り返し電話があるとは思わなかった。倉持は、夜分に失礼、とひとこと断ったあと、詳しい話は明日話すといったあと、私の都合も聞かずに会う時間と場所を一方的に指定して切った。会う目的を聞く暇さえ与えてはくれなかった。電話を切ったあとの私の舌打ちは、せめてもの抵抗だった。
 昼近くになってさすがに腹が空いてきた。あるものですませようとキッチンに立ったとき、娘の奈緒子から電話がかかってきた。今日の夕飯の確認だった。体調のことは伏せて、行けると答えた。
 奈緒子からの電話を切ったあと、少し面倒だったが、蕎麦を茹でた。ネギをたっぷり入れて蕎麦を手繰った。そのあと、冷蔵庫に入れてあったヨーグルトを食べた。少し元気が出てきた。熱を測ってみると、六度七分まで下がっていた。これなら出かけても大丈夫そうだ。私は着替えをするために立ち上がった。

 倉持雄治の指定は虎ノ門にあるコーヒーショップだった。
 約束の午後二時に、コーヒーカップを持って二階に上がると、窓側の奥まった席に、すでに倉持は座っていた。私は自分のコーヒーカップをテーブルに置き、倉持に向かい合った。
「お待たせしました」
 私は軽く頭を下げた。
「私もいまきたところです」
 皺などない黒のスーツで背筋を伸ばして座っている倉持のコーヒーカップをみると、たしかに減ってはいなかった。
「なんだか空いていますね。やはりオフィス街の土曜日だからですかね」
 店内は若いカップルが一組と学生ふうの男が三人だけだった。
「倉持さんは土曜日も仕事ですか。もっとも私もですけどね。でも今日は暖かくて助かります」
 倉持は口を真一文字に結んだままだった。
「おっと、雑談は余計でした」
 どうしても雑談に付き合ってはくれないようだ。私は咳払いをひとつして本題に入った。
「それでご用件は?」
 むずかしい顔をしている倉持が、いくぶん声を落として口を開いた。
「あなたが話してくれたダーツバーの連れの男性は福永専務です。あなたの電話のあと、本人に確認しました。なんでも、敦夫さんが元気がないので、気晴らしにと誘ったようです」
「夜中に電話したんですか」
 倉持がうなずいた。
「こういうことは早いほうがいい」
 倉持の性格を垣間みた気がした。政治家の秘書とはこういうものか。
「それで、わざわざきていただいたのは、福永専務から新しい情報が入ったのでそれをお伝えするためです」
「ほう、なんでしょう」
 思わず身を乗り出していた。
「あなたが聞いた会話の断片を補完する情報です。実は、敦夫さんは明日、例の女性と最後のドライブをするそうです」
「はあ、ドライブですか……」
 なんだ、という表情が出てしまったようだ。倉持が軽く咳払いをした。
「あなたにはそのドライブをつけていただきたい。女性を知る絶好のチャンスでもあるわけです」
「はい。わかりました……ちょっと待ってください。その最後というのは」
「福永専務によれば、敦夫さんは、彼女とは最後のデートになるかも知れないと、ずいぶん弱気な言葉を漏らしたそうです」
 最後のデートとは、すなわち別れることを意味する。そして敦夫は約束どおり後継者になる。そこで私はお役御免。となるはずだ。ではなく、まだ調査を続行せよ、という。その意味するところは、倉持自身が敦夫の別れを信じていない証拠だ。
「言葉どおりに受け取れば、敦夫氏は女性と別れる決意をしたということになります。でも倉持さんは信じてはいないんでしょう」
 倉持がコーヒーカップを口に運んだ。ふたくちゆっくりと飲んで、コーヒーカップを下ろした。
「はっきりいうとそうです。本心ではないでしょう。揺れ動いていることは間違いないでしょう。やはりそんな簡単に別れられないと思いますね。福永専務も私と同じ意見です」
 そういったあと、倉持はスーツの内ポケットからメモ用紙を出した。
「これが車のナンバーです。ちなみに、車は黒のBMWです」
 私はメモ用紙を受け取り、手帳に挟んだ。
「それで、明日のドライブですが、どこに行くとか、なにをしに行くとか、そういう詳しい情報はわかりますか」
「福永専務が敦夫さんから聞き出したのは、十時にマンションを出る、それだけです」
「はあ、それだけですか……」
 しかたがない。あとは成り行きに任せるしかない。問題は私の車だ。しばらく乗っていない。ちゃんと動くかどうかだ。
「それについてだが、ドライブの件は私と福永専務しか知らない。それも含めて、当面は明日のドライブで得た情報は私と福永専務だけの胸の内にしまっておきたい。よろしいですな」
 どうにも親しみがわく顔つきや物言いではない。たぶん大挙して押し寄せる陳情者に対する態度がこれだろう。だが私は、静かに、承知しました、と大人の対応をみせた。
「しかし、ダーツバーで敦夫氏と会ったことをいきなり聞かれて、福永専務は驚かれたんじゃないですか」
 いま思いついた疑問を口にした。
「しかたがないので正直に話しましたよ。調査を依頼したことを。特に感想はなかったですな。もうよろしいですかな」
 倉持が時計をみている。このあと用事がある素振りだ。
「ダーツバーでは、福永専務がさかんに説得しているような雰囲気が伝わってきました。それについてはなにかおっしゃっていませんでしたか」
「内定を辞退した理由をしつこく尋ねたそうだが、だんまりだったとのことです。申し訳ないが、このあと用事があるので失礼します。では明日よろしく」
 倉持は自分のコーヒーカップを持って席を立った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み