第8話

文字数 4,691文字

 私のコーヒーはまだ残っていた。もう少しここにいることにした。 私はぬるくなった残りのコーヒーを飲み終わるまでの間、手帳を再確認することにした。
 最初からページを括っていたら、ある名前のところで眼が止まった。その人物の名は坂上富雄。敦夫が前にいた会社の友人だという。秘書の古谷信太郎が教えてくれた。土曜日だから会社にはだれもいないかも知れない。ダメもとで連絡することにした。私は携帯を手に取り、手帳に書いてある会社の番号を押した。
 幸運だった。坂上富雄が休日出勤していたことも幸運だったし、面会を承諾してくれたことも幸運だった。
 電話口で不審がる坂上富雄に、本郷一郎氏の秘書の古谷信太郎さんから紹介を受けたと話し、少しの間、本郷敦夫さんのことでお話をお聞きできないかと申し入れをした。本郷一郎の名前が効いたのか、私の丁寧な口調に好感を持ってくれたのか、それはわからないが、坂上富雄は承諾してくれた。会う場所は会社で、時間は午後四時と決まった。ただし、時間は三十分以内と条件をつけられた。私に異存はなかった。
 虎ノ門からは歩いていける距離だった。まだ時間はあった。追加のコーヒーで時間をつぶした。
 時間になったので、コーヒーショップを出て西新橋一丁目の交差点に向かった。
 交差点を右折した。二分ほど歩いて蕎麦屋のある交差点を左折した。三分ほど歩くと、目印の小さな公園があった。電話で教えられたとおり、その近くに坂上富雄が勤める会社が入っているビルがあった。
 エレベーターに乗り五階で降りた。正面に会社名が印刷されているガラスドアがあった。着いたら電話するようにいわれていたので電話した。
 手持ち無沙汰でドアの前に立っていると、三分後にドアが開いて男が現れた。男は坂上富雄と名乗った。
 本郷敦夫と真逆だった。背は低く太っていた。顔もなんとなく脂ぎってみえた。休日だからなのか、チェック柄シャツとジーンズの組み合わせだった。健康診断で間違いなく引っかかる腹まわりのせいで、ジーンズのベルトがはち切れそうになっていた。
 坂上富雄に案内されるがまま、四人掛けの小さなテーブルがある会議室に入った。入口から一番近い椅子に座り、ざっと見回した。 眼の前の壁には不釣合いなほど大きな風景画のカレンダーがかかっていた。うしろの壁には消し忘れた文字がところどころ残っているホワイトボードが置いてあった。右側には小さな窓があった。ブラインドが閉まっているため、残念ながら外をみることはできなかった。
 私たちはいつものように名刺交換をした。坂上富雄の肩書は開発部の部長だった。
「それで、本郷のなにをお聞きになりたいのですか」
 坂上富雄はゆったりとした声を出した。私は手帳を広げ、鉛筆を握った。
「実は、ある調査をしております。その過程で本郷敦夫氏を知りました。そこで、敦夫氏のご友人であるあなたならなにかご存知ではないかと思いまして、こうしてお邪魔をしたしだいです。いや、誤解なさらないでいただきたい。本件のポイントは別のところにありまして、あくまでも参考で本郷敦夫氏の人となりを知る必要が出てきたというわけです。なお、本件は守秘義務があって、詳しい調査内容はお話しできませんがね」
 そんなものはありはしなかった。
「なんだ。そうですか。本郷の恋人からの依頼ではないんですか」
 ドキッとした。いきなり敦夫の恋人が出てきた。鉛筆を持つ手に力が入った。
「といいますと?」
「いや、ですから、自分以外に女がいるのかどうか、それを本郷の恋人が依頼したのかと思ったわけです」
 願ってもないことに恋人の話題になった。私はさりげなくその話題に移った。
「ということは、本郷敦夫氏の恋人をご存知なんですか」
「ええ、知っていますよ」
 緊張で顔が強張った。
「お会いになったことは?」
「いや、ないです。知っているといっても会ったわけではありませんよ。本郷から写真をみせられただけです」
 緊張がやや解けた。
「それはいつです?」
「去年の十二月ですね。はじめごろだったかな。めずらしく彼から連絡があったんですよ。飲もうと。それで会いました。そのときに写真をみせられました。あれは彼女をみせたくて誘ったんでしょうね」
「敦夫氏は恋人についてどんな話をしました?」
「どんなって、そうだな……最初近況の話になったときに、実はといって写真を出してきたんです。付き合っている彼女がいるんだといって。そのときに、ゆくゆくは結婚も考えているんだと話してくれました」
「……それで?」
「それだけですよ」
「え、それだけ?」
「ええ、そうですよ。すぐに仕事の話に移りましたからね。ご存知かどうか知りませんが、彼は仕事人間なんですよ。だから、彼女のことを話し出したときは吃驚しました。彼は一生独身を通すのではないかと思っていたぐらいですからね」
 かなり気落ちした。
「では彼女の名前もご存知ない?」
「いや、聞いていますよ。たしか、片山優子さんといったかな」
 鉛筆を持つ手にまた力が入った。
「年齢は?」
「それははっきり覚えています。三十三歳だと話していました。ただし十二月に聞いたときですからいまはどうか知りませんよ」
「彼女の住所はどうです」
「それは知りません」
「職業は?」
「それも知りません」
「すると、ふたりの馴れそめについても?」
「ええ、残念ながら聞いていません」
 なかなか彼女の像が鮮明にならない。せめて写真が手もとにあればと思う。
「その写真ですが、どんなシチュエーションだったんでしょう。たとえば、写っている人物とか、背景とか、いつごろとか」
「写っていたのは、本郷と彼女と本郷の子供の三人でした。ええ、三人だけです。三人とも笑顔でね。幸せいっぱいという感じでした。本当の親子のようでしたね。場所はディズニーランドですよ。背景にシンデレラ城が写っていたからすぐにわかりました。あとなんです?」
「写真を撮ったのはいつかわかりますか」
「会ったときに最近撮ったと聞いた記憶があるので、たぶん直近の写真だったんでしょう」
「写したのはだれなんです」
「それは知りません。たぶんディズニーランドのキャストでしょう」
「写真の彼女の印象はどうでした」
「印象?……そうだな……歳相応の感じといったらいいのか。派手さはなく、どちらかというと地味で落ち着いた感じでしたね。美人でしたよ。それも和服が似合いそうな」
「ほう、好印象ですな」
「本郷が好きなタイプだと思うな。彼は一時期時代の寵児だとか、IT業界の革命児とかいわれて、マスコミに騒がれたでしょう。週刊誌にも取り上げられたりして。世間では、見た目と注目度が相まって派手な男と映ったかも知れないが、でも本当は地味でおとなしい男ですよ。だから、写真をみて似合いのカップルだと思いましたね」
「ほう、似合いのカップルですか……うらやましいですな。結婚前の一番楽しい時期なんでしょうね。もちろん愚痴なんかこぼしたりはしなかったんでしょうね。恋人のことで」
「愚痴ですか。ええ、ないですね。幸せいっぱいというような顔でした。でもなんで彼女のことをそんなに聞くんです」
「いや、なに、たいして意味はありませんよ。やはり本郷敦夫氏の人となりをお聞きするうえで、恋人のことは重要ですからね。おや、もう時間ですか。すみません。すぐすみますから」
 もうすぐ三十分になる。坂上富雄が時間を気にしだした。私は坂上富雄から話を聞くうちに、ますます本郷敦夫に興味がわいてきた。本郷敦夫のことがもっと知りたい。私は質問を変えることにした。
「話は変わりますが、本郷敦夫氏はこの会社にいらっしゃったんですよね」
「ええ、そうですよ。彼とは同期でした。もっともデキはだいぶ違いますけどね」
 ははは、と坂上は豪快に笑った。見た目と違って実際は豪放磊落なのかも知れない。そんな笑いだった。
「本郷敦夫氏がこちらの会社を辞めていまの会社を立ち上げたのが、いまから六年前とお聞きしていますが、間違いないですよね」
「もう六年になりますか……ええ、そうです。彼は、ネット通販やモバイルアプリケーション事業に手を染めたいといって独立したんです。それが成功していまや時代の寵児ですよ。先見の明があったんですな」
「ということは、めざす方向が違ったわけですな」
「そうなりますね。広い意味ではIT企業なんですが、メインの立ち位置が違うんです。向こうはインターネットでこちらはソフトウェア開発。そういうことです」
「はあ……」
 わからないがわかった顔をした。
「彼の会社の木村専務も、ここで一緒だったんですって」
 ボロが出ないうちに話題を変えた。
「そうです。木村さんは当時われわれの上司で部長でした。実は、本郷が独立するときに相談を受けたのが私と木村さんでした。結局、木村さんは彼の才能を信じて一緒に会社を興したんです。やはり木村さんの力は大きかったですね。彼の会社があんなに大きくなったのは木村さんの力でしょうね」
 坂上富雄は、いったん言葉を切ると、ひとつ大きくうなずき、また話を続けた。
「本郷はね、根っからの技術屋なんですよ。ひらめきや技術力はすごいけど、表仕事の営業や折衝はからっきしなんです。会社を興すとき、本当は木村さんを社長にと、本郷は考えていたようですが、木村さんが固辞したようです。若い者が前面にと考えたんでしょうね。木村さんらしいです」
「木村さん以外で一緒に移られたかたというと?」
「えーと、たしか、四人ぐらいいましたね。みんな若手です」
 ちょっと意地悪な質問をぶつけることにした。
「あなたは新しい会社に参加しようとは思わなかったんですか」
「本郷に誘われました。でも、そのときちょうど私は結婚したてで、そこまで踏み込む勇気はなかったです。それに、船頭ばかりいてもしようがないでしょう」
「なるほどね。たしかにそうかも知れませんな……やはり敦夫氏は私が思っていた以上にガチガチの仕事人間なんですね」
「まあ、そういってしまえば身も蓋もないですけどね。でも仕事人間というのは間違いないな。酒はやるけど、ギャンブルや煙草はやりませんからね。女遊びもね。結婚しても奥さんの上に仕事がくるんじゃないのかな。まあ、それは冗談ですけどね」
「だけど、彼はなかなかのイケメンだから、モテたでしょう」
「どうかな……実際のところよくわかりませんね……もっともいまは有名人だから女が寄ってくるんじゃないのかな……まさか、あなたは彼のスキャンダルをさぐっているんじゃないですよね」
「とんでもない。違いますよ」
「本当ですよね。週刊誌なんかに書かれると目覚めが悪いですからね。もっとも、聞かれても私は彼のスキャンダルなんて知らないから、答えようがないけど……あの、もうそろそろいいですか。次の会議があるんで」
「いや、どうも長い間お話しいただき、ありがとうございました。これが最後の質問です。本郷敦夫氏はご存知のように本郷一郎代議士のご子息ですが、いずれ地盤を引き継ぐ、なんて話はありませんでしたか」
「いままでにですか。もちろん彼の父親のことは知っていますが、そういう話が出たことはありませんね。そういう話があるんですか」
「いやいや、ありませんよ。どうもいろいろとありがとうございました。それから、今日私がお邪魔していろいろとお聞きしたこと、本郷敦夫氏にはどうかご内聞にお願いします」
「はあ……」
「探偵がきて、根掘り葉掘り聞いたなんてことを知ると、気分のいいものではありませんからね」
 坂上富雄にそう口止めをして私は立ち上がった。
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