第10話

文字数 2,217文字

 朝から幸運が重なった。ドライブの疲れをものともせず早くに目覚めたこと。町工場の裏手にあるアパートに〈片山〉の表札をみつけたこと。そして、待つことなくきのうみた片山優子がアパートから出てきたこと。この三つだ。いや、まだあった。十八分もかけてJR大井町駅まで歩かされて思わぬ運動をしたこと。ついでに、久しぶりの穏やかで気持ちのいい朝も追加すべきかも知れない。
 いま、片山優子は大宮行きの京浜東北線に乗ったところだ。私も続けて乗った。電車は通勤ラッシュで混んでいる。片山優子はたまたま空いたドア横に立った。私は彼女の横顔がみえる反対側のドアそばに立った。
 ドライブのときにも感じたが、こうして間近でみると、坂上富雄の言葉がうなずける。派手さはなく地味で落ち着いた感じ。言葉からくる印象よりも、実際にみた印象は悪くない。本当は地味でおとなしい男の敦夫と似合いのカップルだといった坂上富雄の指摘は、的を射ているのかも知れない。
 品川駅に着いた。大勢の乗客が降り、そして乗り込んできた。片山優子に動きはなかった。
 何を思っているのだろうか。寂しげな横顔がみえる。敦夫とうまくいかない原因はいったいなんだ。そう聞いてみたい強烈な衝動に駆られた。それをかろうじて抑えられたのは、田町駅に着いて片山優子が降りたからだ。
 改札を出ると、西口に向かい、エスカレーターで下に降りた。森永プラザビルがみえる。そこを右折した。時計をみると午前八時二十分だった。出勤時間としては妥当な時間に思える。厳しい寒さが和らいだ今日の朝は、歩いている人たちの背筋は伸びていた。
 小さな郵便局をすぎた。しばらく歩いて右の道に入った。すぐに今度は左折した。そして八階建てのビルに入った。
 信じられなかった。そこは福永事務機器株式会社の自社ビルだった。そこの専務は敦夫と大学の学友で親しいはずだ。私は混乱していた。足が止まり、思考が停止した。そんな私を置き去りにして片山優子はエレベーターのなかに消えた。

 事務所に帰るまでは多少混乱を引きずっていたが、事務所のデスクで新聞を広げたときは消えていた。考えてもわからないときは考えないようにする。そういうことだ。
 伊藤綾子がお茶を持ってきた。
「ありがとう。今日は静かだね」
 さきほどから電話の音も話し声も聞こえない。
「先生は来客中です。原田さんはお休みです」
「風邪でも引いたのかい」
「旦那さんが入院したんです」
「入院? どこか悪いのかい」
「胆石なんですって。手術らしいですよ」
「それは大変だ」
 電話が鳴って伊藤綾子は急いで戻った。
 お茶は飲んだ。新聞は読んだ。携帯は鳴らない。夕方までやることがない。バッグから雑誌の〈アエラ〉を出して広げた。
 アエラを流し読みしたあと、眼が疲れたので目薬を差して眼を閉じたとき、奈緒子が顔を出した。
「疲れは取れた?」
 咄嗟にきのうのドライブのことをいわれたと思った。だがドライブのことは奈緒子は知らないはずだ。
「ゆかりが悔しがっていたわよ」
 ゆかりの名前が出て土曜のことだとわかった。
「手加減しないんだから」
 晩ご飯のあと、ゆかりとテレビゲームをした。手加減しなかった。「リベンジするんだって張り切っているわよ。覚悟しておいてね」
「いつでも受けて立つさ」
 奈緒子が呆れた顔をした。
「今日はもう出かけないの?」
「夕方出かける」
「そう、大変ね。ところでお父さん、お昼は?」
「もうすませたよ」
 帰ってくる途中の蕎麦屋で早めの昼食をすませていた。
「じゃあ伊藤さんとお昼に行くから留守番よろしく」
「来客中じゃないのか」
「もう帰ったわ」
「わかった。行っといで」
 もう一度アエラを広げた。
 三十分後、ドアが開く音がして奈緒子と伊藤綾子が帰ってきた。その足で、朝ドラの再放送をみるため会議室に消えた。いつもの昼どきの風景だった。私は携帯と手帳を持って前のソファーに移動した。一時まであと十五分。私は眼をつぶった。
 一時になってふたりが会議室から出てきた。とたんに電話が鳴った。いつもの午後の風景が戻った。

 少し早めに事務所を出て、田町の目当てのビルに着いた。 
 受付の女子社員の眼が気になるので、ビルのなかには入らずに外で片山優子を待つことにした。こんなときに携帯が役に立つ。メールをみるふりをしたり、電話をかけるふりをしたりした。時間は午後五時。少し早い気がするが、退社する社員がいてもおかしくはない。
 ポツリポツリと社員がビルから出てくる。まだ多くはない。こんなとき働きすぎの日本人を疎ましく思う。
 だいぶビルの前を歩いた。約束しているが待ち人来たらず、というふうにみられることを期待している。
 時間は午後五時半。だんだん帰る社員が多くなってきた。足が疲れてきた。座りたい気分だ。だが座る場所がない。私に注意を向ける者はいないが、少しビルから離れたほうがいいのかも知れない。そのとき、片山優子がビルから出てきた。思わず頬が緩む。
 連れがいる。同じ年頃の女子社員だ。ゆっくりと田町駅に向かっている。ふたりの背中をみながら歩調を合わせた。
 片山優子と連れは、ときどきお互いの顔をみるが、話し込んでいるようにはみえない。なんとなく一緒に歩いている。そんな感じだ。だが、よそよそしい感じはない。
 田町駅に着いた。寄り道をせずにふたりは改札を入った。連れは京浜東北線の大宮方面行きに乗り、片山優子は横浜方面行きに乗った。
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