第4話

文字数 1,120文字

 途中、コーヒーショップでテイクアウトしたコーヒーを持って事務所に戻った。スタッフの原田洋子と伊藤綾子がちょうど帰るところだった。もうそんな時間なのかと思って時計をみると、六時になっていた。
「まだ仕事なの?」
 奈緒子がそばにやってきた。
「こいつを飲んだら帰るよ」
 手に持っていた紙コップのコーヒーをデスクの上に置いた。
「忙しいの?」
「そうでもないさ」
「いま手掛けている仕事って、もしかして桑原先生が仲介した案件なの?」
「なんでそんなことを聞く?」
「さっき桑原先生から電話がかかってきたのよ。そのとき、たまたまお父さんの話になったの。党の関係者に売り込んでおいたから、といって笑っていたので、そうじゃないかと思って」
「まあ、そういうことだ」
「あまり張り切らないでよ。ほどほどにね」
「わかっているって」
 妻が亡くなってもう三年になる。生きていれば同じことをいうに違いない。そう思うと苦笑いが出た。
「そうだ、桑原先生からの伝言があるの」
「今度飲みに行こう、だろう」
「そう」
 奈緒子が笑った。
「ところでお父さん、今週の土曜の夜だけど、なにか用事ある?」
「いや、特にないが」
「じゃあ晩ご飯食べにきてよ。すき焼きよ。それも神戸牛よ」
「ほう、豪勢だな」
「貰い物だけどね。ゆかりが会いたがっているし」
 精密機器メーカーに勤める奈緒子の夫の義孝は、アメリカに単身赴任してもう四年になる。九歳になる孫のゆかりも寂しいはずだ。私に父親の代わりはつとまらないが、せめていっときの慰めになれば嬉しい。
「じゃあ私は帰るわ。戸締りよろしくね」
「わかった。ところで、テレビのほうは忙しいのか」
 奈緒子は最近コメンテーターとしてテレビに出るようになった。
「ボチボチね。桑原先生がいうには、名前と顔を売ることは悪いことじゃないって」
「反対じゃないのか」
「賛成だって」
「ふーん、あの先生らしいや」
「じゃあ帰るね。あとはよろしくね」
「気をつけてお帰り」
 奈緒子が帰ったあとは事務所のなかが急に静かになった。私はコーヒーを飲み終わるまでやることがないので、自分のデスクで新聞を広げた。
 デスクの上に置いてあった携帯が鳴った。コーヒーも飲み終わり、帰り支度をして立ち上がったときだ。所長からの電話だった。
「例の秘書の名前はなんだっけ?」
「本郷一郎の秘書か?」
「そうだ」
「倉持雄治だ」
「そうか。わかった。ありがとう」
「なにをする気だ」
「いや、ちょっとな」
 自分が調べられたことで反対に調べる気になったのか。むかしの血が騒がなければいいが。
 所長との電話はすぐに終わった。私は戸締りをして事務所を出た。
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