第31話

文字数 4,667文字

 時間に正確なこと。事務所に入ってきてすぐに名前を名乗り、律儀に頭を下げたこと。デスクの前のソファーに足を組まずに行儀よく座っていること。そして日曜なのにスーツを着ていること。そのイタリア製と思われるスーツに皺がないこと。それらは、育ちのよさと生真面目さと少しの頑固さを印象づけていた。眼の前にいる本郷敦夫に対する私の印象は悪くなかった。ただ、ドライブのときにみせた満面の笑みとリラックスした表情はなかった。眼の前にいる敦夫は、負け続けのギャンブラーのように精彩を欠いていた。
「私しかおりませんのでなんのおかまいもできません」
「気にしないでください」
 そういうと敦夫は、ほとんど気にならないぐらいの小さなため息をついた。
「電話の声から判断して佐分利さんはもっとお若いかたかと思いました」
 私の名刺にチラッと眼をやりそういった。
「初対面ではだいたいそういわれます」
「これは失礼なことをいいました」
「気にしないでください」
 このあと、お互いに言葉が続かなかった。沈黙だった。私は敦夫の様子をただみていた。どちらがさきに痺れを切らすか。そんな第三者の眼で状況をみていられる余裕が私にはあった。
 痺れが頂点に達したのか、それとも頭のなかで話す内容に整理がついたのか、それはわからないが、やっと話す気になったようだ。敦夫は私の眼をまっすぐにみた。
「僕にお話があるそうですね」
「倉持さんからはなにをお聞きになりました?」
「優秀な探偵に調査を依頼したことですよ」
 ユーモア? が出ているうちはまだ大丈夫だ。
「依頼の内容も見当がつきます。僕が親父のあとを継がない、といきなり宣言したものだから、その理由をさがしてほしい、とあなたに依頼した。違いますか」
「そのとおりです」
「たぶん倉持さんはあれこれ理由を考えたんでしょう。しかしわからない。最後に行きついたのがいま付き合っている女性だ。おそらく僕が彼女となにかトラブルになっていて、そのために僕が断ったと考えたんでしょう。ね、そうでしょう」
「そのとおりです」
「もっとも、実際に動くのは倉持さんでも、調査依頼を決めたのは親父ですけどね……それでお話というのは?」
「私が調査した内容について、倉持さんからはなにもお聞きになっていないんですね」
「聞いていません。詳しい話は佐分利さんに聞いてほしい、といわれました」
「なるほど。では白紙の状態でいらっしゃったんですね」
「そうです」
「わかりました。それではご説明します。時間は大丈夫ですよね」
「大丈夫です」
「今月のはじめに倉持さんから調査を依頼されました。調査内容は、あなたがおっしゃったとおり、いま付き合っている女性の一切合切でした」
「一切合切ですか。倉持さんらしいです」
「一切合切まではいきませんが、ある程度はわかりました」
「ほう、そうなんですか。でも佐分利さん、せっかくですが、その調査は無駄になりました」
「はあ? といいますと?」
「当初の予定どおり僕は親父のあとを継ぐからですよ」
「あとを継ぐ……失礼ですが、その決意はたしかですか」
「ええ、そう決めたんです……」
 表情が強張っている。まだ迷っているとみるのはゲスの勘繰りか。
「そのことは倉持さんにはお話になりましたか」
「さきほどの電話で話しました」
「倉持さんはなにかいいましたか」
「そうですか、としかいいませんでした」
 倉持は信じてはいない。
「当初の予定どおり粛々と進めておけばよかったんですよ。僕が余計なことを言い出しさえしなければ、古谷信太郎さんも殺されるようなことがなかったんです……僕の責任です」
「それは違う。あなたの責任ではない。強いていえば、甘い期待をいだかせてしまったあなたのお父上と倉持さんであり、その誘惑に抗しきれなかった古谷さん自身です」
「そういってくれるのは佐分利さんだけです」
 敦夫が自嘲気味の笑いを浮かべた。
「だけど、佐分利さんのせっかくの調査が無駄になって、がっかりさせてしまったようですね」
「そんなことはありません。探偵の仕事にはよくあることです」
「もしよろしければ聞きますよ。せっかくきたんだから」
「それは嬉しいですな。それでは確認も含めてお話しします。まずお相手の女性の名前は片山優子さん。間違いないですね」
 敦夫がうなずいた。
「では、片山優子さんの知り得た情報をお話しします。まず確認ですが、後継者になるという話が出たのは二年前だとお聞きしましたが、間違いないですか」
「間違いないです」
「福永専務の会社にお勤めの優子さんと知り合ったのはいつです?」
「細かいですね」
「性格なんです。もしお気に障ったのであれば謝ります」
「別にかまいませんよ。それは一年前の春です」
「お付き合いをするようになったのは?」
「一年前の夏です」
「会社を木村専務にまかせ、お父上の秘書になることが決まったのが一月五日ですね」
「そうです。内定ですけどね」
「そのあと、片山優子さんに対して意思表示をしましたか」
「プロポーズをしました。だけどなんでわかるんです」
「現象を時系列に考えるとわかるんです」
 敦夫が古谷信太郎に悩みを打ち明けたのは、内定を辞退した一月二十八日の一週間前だ。ということは一月二十一日。だから一月五日から一月二十一日の間で彼女となにかがあったということになる。
「差し支えなければプロポーズの日にちを教えてください」
「もうなにを聞かれても驚きませんよ」
「恐れ入ります」
「忘れもしません。一月十一日です。そして彼女から結婚はできないといって別れを切り出されたのが一週間後の一月十八日です。人生最悪の日です」
 古谷信太郎に悩みを打ち明けたのが一月二十一日で、重大な決意をするといったのが三日後の一月二十四日。そして内定を辞退した一月二十八日へとつながっていく。
「佐分利さん、もしあなたが付き合っている女性から結婚はできないといわれたらどうします?」
「理由を聞きますな」
「そうでしょう。僕もそうしました」
「彼女はなんて答えました?」
「理由は聞かないでくれの一点張りですよ。納得できるわけがないでしょう。引き下がりませんでした」
「そうでしょうな。私だってそうする」
「僕のことが嫌いか、と聞きました。違うといいました。子供がいるからか、と聞きました。ご存知のように僕には子供がいます」 
「倉持さんからお聞きしました。ご病気で奥様を亡くされたとか」
「ええ、三年前です」
「それで彼女はなんて?」
「それも違うといいました。むしろ理絵のことは、子供は理絵といいますが、大好きだといいました。残るはただひとつ。僕が政治家になるのが嫌なんだろうと思いました。それも違うといいました」
「進退窮まったわけですな」
「そのとおりです。そこで僕が悩んでたどり着いた結論は、やはり政治家の妻になるのが嫌だから、というものでした」
「それでお父上のあとを継がないと宣言したんですな」
「本気度を示すためにそうしたんです。そうしないと彼女にわかってもらえないと思ったんです。それで、宣言したその日に彼女に政治家にはならないと伝えたんです。でも駄目でした。泣きながら首を横に振るばかりなんです」
「実は、今日きていただいたのは、その理由をお伝えするためなんです。片山優子さんが結婚を承諾しない理由です」
「わかったんですか」
「わかりました。おそらく間違いがないと思います。彼女が札幌出身だというのはご存知でしたか」
「知っています」
「きのう札幌に行ってきました」
「あなたが?」
 敦夫がほうというような顔をした。
「そうです。彼女の祖父母、友達、高校の先生と会ってきました。あるきっかけで事件のことを知りまして、それを確認するために行ってきたんです。その事件とは、十五年前に札幌で一家三人が殺害された事件です。事件を担当したもと刑事にも会いました」
 なんだかおかしい。敦夫が冷静だ。
「その事件というのは……」
「それなら知っていますよ」
「え?……いまなんて?」
「犯人の石原辰夫が、同棲相手の女性とその父親と母親を刺殺した事件でしょう」
「そうです……」
「彼女は犯人の妹だというのも知っています。被害者は高校の親友の父親と母親とお姉さんだということ。そして彼女のご両親が亡くなったこと。すべて知っています」
「すると、養子のことも?」
「知っています」
「それはどうやって……」
「知ったのかということですか……彼女ですよ。彼女から聞いたんです」
「片山優子さんからですか」
「そうですよ。政治家にならないと伝えた日に彼女から聞きました。それを聞いたら僕が間違いなく諦めると思ったんでしょう」
 呆然とした。動揺を隠すため深呼吸をした。なにかいわなければいけない。だが言葉が続かない。
 いままでの調査は無駄だった……。
「佐分利さん、あなたには正直がっかりしました。僕が知っている事実以外の事実をお話しになるのかと思いました。でも、佐分利さんの行動力には敬意を表しますよ。なかなかそこまではできないことです」
 慰められた。探偵としては失格だ。徒労に終わった調査は呆気なく幕切れとなった。なんのことはない。振り出しに戻ったということだ。
「なんだかがっかりさせてしまったようですね」
 知らないうちにうなだれていたようだ。敦夫が心配そうな顔をしている。私は背筋を伸ばした。人間万事塞翁が馬。私は気を取り直した。
「失礼しました。それで彼女のことを諦めてお父上のあとを継ぐと再度決心されたわけですな」
「違いますよ」
「え?」
「そんな単純ではないんです。そのあとがあるんです」
「どういうことです?」
「事件のことを彼女から聞いたときはショックでした。正直にいうと、彼女が加害者側にいることが二重のショックでした。悩みました。眠れませんでした。熟慮しました。だけど決心したんです。それでもいいと。それで再度プロポーズをしたんです」
「え?」
「事件のことを聞いても僕の気持ちは変わらない、といって三日後に再度プロポーズをしたんです」
「しかしそれは……」
「佐分利さんのおっしゃりたいことはわかります……でも誤解しないでください。彼女への同情や感情の高まりでわれを忘れたわけではないんです。僕はいたって冷静でした。しかし……」
「しかし?」
「それでもノーです。結婚はできないというんです。頭が真っ白になりました。途方に暮れました」
「やはり理由はおっしゃらないんですな」
「いいません。僕のことは好きだけど結婚はできない。そしてごめんなさいばかりです」
「そこまで頑なになる理由はなんだと思います?」
「わかりません。わかりませんが、僕のことを嫌ってはいない、そのことを信じられただけでも嬉しかったです」
 敦夫が寂しい笑いを浮かべた。
「だけど、そうはいっても結果だけをみれば僕はフラれたんですよ。だからいさぎよく彼女を諦めて親父のあとを継ぐのではなく、未練たらしくしようがなくて継ぐのです」
 それからすぐに敦夫が帰った。吹っ切れたようにみせかけているが、あきらかに吹っ切れていない。どうにもやりきれない感じだった。事務所を出る敦夫は、大負けしたギャンブラーのように精彩を欠いていた。そうではない。精彩を欠いていたのは本当は私のほうだった。
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