第18話

文字数 2,357文字

 寝不足だったが頭は冴えていた。体も痛いところはなかった。年代物のマーチをなだめながら慎重な運転を心がけた。
 馬場勝彦のアパートにはきのうよりも早い時間に着いた。玄関前の駐車場には黒のクラウンはなかった。もう組に出たようだ。私は組に向かった。
 きのうと同じ位置に車を止めた。ここからは組があるビルの階段と駐車場がみえる。駐車場にクラウンはあった。やはり馬場は組に出ていた。
 シートの背もたれを少し倒し、楽な姿勢を取った。今日もコンビニで食い物と飲み物は買ってある。魔法瓶にコーヒーも淹れて持ってきている。準備は万端整った。あとは油断しないことだ。
 腹が減ったのでペットボトルのお茶とおにぎり一個で昼食をすませた。食後にコーヒーを飲んだ。そのとき、階段から男が下りてきた。違う男だった。
 午後三時、まだ馬場は姿をみせない。不安が頭をよぎる。
 そのあとすぐに、ふたりの男が下りてきた。馬場よりも少し年かさの巨体の男ときのうみたパンチパーマの男だった。巨体の男がクラウンのうしろのドアを開けてやる。パンチパーマが乗り込むと、巨体が運転席にまわり、すぐに車は動き出した。私は追うことはしなかった。
 二時間後にクラウンが戻ってきた。どうやらぼったくりのクラブをまわってきたようだ。クラウンから降りた巨体とパンチパーマは笑いながらビルの階段を上がって行った。
 不安が的中したようだ。組の用事なのか個人の用事なのか、それはわからないが、馬場はここにはいない。そう結論づけた。ここにもう用はなかった。私は自宅に戻るためマーチを発進させた。

 自宅に戻ったのが午後七時半。顔を洗い、ペットボトルのお茶をひとくち飲んだあと、夕飯をどうするか考えた。コンビニで買ったおにぎりが残っていた。だがおにぎりはもう飽きた。手の込んだものを作る気力はないが、簡単なものだったらできそうだ。
 キッチンに行き、冷蔵庫の扉を開けた。開けてから気がついた。しばらく買い出しをしていなかったことを。冷蔵庫にはろくなものがなかった。疲れた体を鞭打つしかなかった。
 家から十分ほど歩くと、いつも立ち寄るスーパーマーケットがある。コートを着て、家の戸締まりをして外に出た。
 スーパーマーケットは空いていた。私は買い物籠をぶら下げてゆっくりと店内を歩いた。眼についた豆腐と卵と出来合いのトンカツを買った。このところ料理らしい料理をしていない。今日は面倒でもカツ丼でも作ろうと思った。
 スーパーマーケットを出て裏通りに入った。人通りはない。スーパーの買い物袋を提げてぶらぶらと歩く。少し寒いが問題はない。きのうと今日はほとんど車のなかですごしたので、散歩だと思えばいい。家に着くまであと三分はかかる。勝手知ったる裏道だから、暗くて寂しいが、不安はない。
 突然背後が明るくなった。なにごとかと思い振り返った。止まっている車のヘッドライトだった。眩しくて眼を開けていられない。ライトが上向きになっている。マナーの知らないやつだ、と思った。そのあと、車はタイヤを鳴らして急発進してきた。
 恐怖に駆られて思わず走った。車は私をめざして突進してきた。あきらかに私を狙っていた。足がもつれ、つんのめった。慌てて起き上がり走った。車はすぐうしろだった。右に道をみつけ曲がった。曲がり道が幸いした。車が少し減速した。そのまままっすぐ走っていたら危なかった。曲がったさきに路地があったのでそこに身を寄せた。車は私をかすめるように通りすぎて急停止した。
 車は動かない。息を殺して獲物を狙う猛獣のように不気味に動かない。私と車は五メートルほどの間隔を空けて睨みあったままだ。私が路地を出ると、すぐさまバックをしてくるはずだ。迂闊に動くことができない。心臓が口から飛び出しそうになっている。汗が眼に入り、開けているのがつらい。
 震える手で携帯を取り出した。それを見透かしたように、車は大きな排気音を一回響かせ、急発進した。そのあと、車はなにごともなかったかのようにゆっくりと遠ざかって行った。
 足が震えて歩けなかった。はじめて体験する恐怖だった。これは紛れもなく警告だった。思いあたるのは馬場勝彦しかいない。バレたのはクラブかファミリーレストランか。いずれにしろ、やつを怒らせてしまったようだ。その場所に三分間留まり、足の震えがおさまってから、やっと路地を出た。
 自宅に着いてキッチンへ直行した。水を立て続けに三杯飲んだ。流し台のふちに手をつき、大きく息を吐き出した。そのまましばらくじっとしていた。思い出したように体に震えがきた。落ち着けと自分に言い聞かせ、深呼吸を繰り返した。少し落ち着いたところで顔を上げ、体を流し台から離した。眼の端に、テーブルの上に置いてあるスーパーの買い物袋がみえた。いつ置いたのか記憶が飛んでいた。せっかく買ったが食欲は失せていた。どうやらビールの力が必要らしい。だが体中が汗で濡れ、気持ちが悪い。さきに風呂にする。風呂場に行き、お湯を入れてキッチンに戻った。また買い物袋に眼がいった。袋を開けると、豆腐がつぶれ、ほとんど中身が飛び出していた。卵も半分が割れていた。トンカツも豆腐まみれになっていた。豆腐はもう無理だが、トンカツは意地でも食ってやる。
 恐怖心のぶり返しがなくなってくると、体のふしぶしの痛みに気づいた。洗面所で服を脱ぐと、腕や腰のあたりに青紫色の内出血が点々とできていた。さわると痛みがあった。どこでぶつけたのかはわからない。幸い切り傷はなさそうだ。
 熱めの湯に浸かった。出る気がしなかった。眼を閉じて、じっとしていた。三十分がすぎて、ようやく固まっていた体と心がゆっくりとほぐれていくのがわかった。
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