第2話

文字数 1,703文字

 宮益坂下の交差点を渡って緩やかな上り坂を歩き、渋谷郵便局の前を通って宮益坂上交差点手前で左に曲がり、少し行ってまわりに比べて比較的新しいそのビルの四階にスワン探偵事務所があった。
 社員は二百人ほどだが、ほとんど出払っている事務所内は広く感じた。いずれにしても商売繁盛で結構なことだ。
 表通りに面した南側の奥まったところに、ガラス張りのパーティションで区切られた所長室がある。なかには所長のデスクと八人座れる会議テーブルがある。そのデスクの椅子に所長は座って電話をかけていた。
 私が所長室に入って行くと、所長がひとつうなずき、会議椅子を指差した。私もひとつうなずくと、手前の椅子に座った。やがて電話を終えた所長がデスクから会議椅子に移ってきた。
「忙しいところ悪いな」
「そうでもない」
 所長から電話があったのは、事務所に着いたあとお茶を飲みながら新聞を読んでいるときだった。昼飯を付き合えという誘いの電話だった。話はそれだけだったが、なにか話したいことがあるんだと感じた。断る理由はなかった。
「ちょっと早いが昼飯にしよう」
 時計に眼をやったあと、所長はそういうと椅子から立ち上がった。私に異存はなかった。
 連れだってビルを出た。表通りに出て、坂を下ったすぐのビルの地下に下りた。店構えは小さいが洒落た日本料理屋があった。私たちは口開けの客だった。
 テーブル席に座った。女将がお茶とおしぼりを持ってきた。所長と女将が親しげに挨拶をしている。
「ここはなかなかうまい金目鯛を食わせる」
 女将がいなくなると、所長がそういい、それでいいか、と聞いてきた。私がうなずくと、ビールは大丈夫か、とさらに聞いてきた。午後三時に予定があった。本郷一郎の自宅だ。まだ時間はある。少しぐらいのビールなら問題ないだろう。私がもう一度うなずくと、所長が大きな声で金目鯛の煮付け定食とビールを頼んだ。
「所長のほうは大丈夫なのか」
「ビールのことか?」
 私がうなずくと、
「ビールぐらいで顔に出ないのはわかっているだろう」
 といってニヤリと笑った。
 ビールとつきだしの枝豆がきた。私たちはお互いのコップに注ぎ、一気に飲み干した。昼間のビールは格別だった。
「実は、前の会社の知人から電話があった」
 二杯目を注ぎ終わったあと、所長は声を落とした。
 会社とは警視庁のことだ。警視庁捜査一課の係長だった所長は敏腕警部といわれていたらしい。しかし、事情があって定年前に辞めている。その事情は知らない。
「保守党の前幹事長だった本郷一郎の秘書が、ツテを頼って上のほうに俺のことを聞いてきたらしい。まあ、俺のことはいい。調べられて困ることはない。気になるのは、ついでにサブやんのことを聞いてきたというんだ。どこでサブやんのことを聞いたのか知らないが、なんでもいいから情報があれば教えろといったらしい」
「その秘書は倉持雄治というんだ」
「知っているのか」
「きのうきた」
「そうなのか……もしかして依頼か」
「詳しくはいえないがある調査の依頼だ」
 ここで注文した金目鯛の煮付け定食がきた。私たちは話を中断した。
「うまいな」
 ひとくち食べたところで私は唸った。金目鯛のとろけるような甘みがなんともいえなかった。私たちはしばらく黙って箸を動かした。
「倉持雄治という秘書はどんな人物なんだ」
 骨にくっついている身を、そぎ落としはじめたところで所長が口を開いた。
「五十代半ばの気むずかしい人物だな。政治家の秘書は押し並べてああなのか、知らないが、上から目線の高圧的な態度だ。それと、口調は丁寧だがなにを考えているのかわからないところがある」
「ふーん、そうか」
 所長が私のコップにビールを注ごうとした。私が断ると自分のコップに注いだ。
「その依頼は政治がらみなのか」
「半々かな。微妙なところだ。すまん、詳しくはいえない」
「まあ、いいさ。気にするな。とにかく政治がらみの案件は気をつけないとな」
「ああ、わかっている」
 残ったコップのビールを空けて私たちは日本料理屋を出た。勘定はもちろん所長持ちだった。
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