第22話

文字数 3,370文字

 福永事務機器株式会社は、売上高一千億、社員数一千人の事務機器専門商社としては大手の会社だった。専務の名前は福永弘志。現社長は父親だ。最近は事務用品通販で売り上げを伸ばしている。福利厚生がしっかりしていて、特に女子社員の定着率がいいらしい。これらの情報は奈緒子からの受け売りだ。
 事前にこれらの情報を頭に入れて、福永専務との約束の午後三時十分前に会社の受付に立ち、係りの女性に自分の名前と用件をいった。
 待つこと八分。エレベーターから降りてきた女子社員が私の前に立った。彼女はビジター用のカードを私に渡し、首から下げろといった。
 女子社員が私の半歩さきを歩いている。彼女の態度は慇懃だ。客への接しかたが慣れている。もしかしたら専務の秘書かも知れない。
 エレベーターに乗った。女子社員が八階のボタンを押した。そのときはっきりとわかった。彼女は片山優子と一緒に田町駅まで帰った連れだった。首から下げている社員証カードの名前をそっとみた。
 野崎里美。それが彼女の名前だった。
 役員室が並んでいる八階のフロアーは静かだった。電話の音も話し声も聞こえない。
 専務室の前で立ち止まり、野崎里美がドアをノックした。なかから返事が聞こえた。それを確認して野崎里美がドアを開けた。
 豪華な応接セットに男がひとり座っていた。男は福永専務だった。ダーツバーでみかけて以来の再会だった。私は前に座るように手招きされた。いつのまにか野崎里美はいなくなっていた。
 いつものように名刺交換を終えると、福永専務は私の名刺を一瞥しただけでテーブルの上に置き、育ちのよさ特有の屈託のない笑顔を浮かべた。
「お会いするのははじめてじゃないですよね。なんでもダーツバーでご一緒だったとか。もっとも、そのときはあなたがいるなんて気がつきませんでしたけどね」
 皮肉かなと思ったが、そうでもないようだ。福永専務は目尻に皺を寄せると足を組んだ。
「恐れ入ります」
 なんて返事していいのかわからなかったので、ちょっと間抜けな返事になってしまった。
「倉持さんはいっていました。あなたは信用できる人だと。倉持さんの口添えがあったからお会いすることにしました」
 言葉に毒は感じられない。印象は悪くない。
「恐れ入ります」
 福永専務はゆったりと座っている。
「本郷敦夫氏のことを少しお聞きしてもよろしいですか」
「ええ、かまいませんよ」
 特に面会の時間を区切られているわけではない。本題に入る前に少しなら横道に逸れてもいいだろう。
「敦夫氏とは大学がご一緒だとうかがっていますが」
「ええ、高校から一緒です」
「ご友人だとうかがっていますが」
「ええ、そうでしょうね」
 また屈託のない笑顔を浮かべた。
「ところで、敦夫氏の人柄はどうなんでしょう。親友のあなたからみて」
「人柄ですか……佐分利さん、本郷にお会いになったことは?」
「お話ししたことはありません。遠くからみただけです」
「なるほど。そういえば、倉持さんから聞きましたよ。ドライブの一件は」
 今度ははっきりと声を出して笑った。
「恐れ入ります」
「話は変わりますが、倉持さんから調査依頼したことを聞いて、倉持さんらしいと思いました。あの人は完璧主義者ですから。自分が納得できるまで追求します。失礼……本郷の人柄でしたよね。あの男ほど見た目と中身にギャップがあるのはめずらしいと思いますね。端的にいうと、優しい男です。そして真面目な男です。バカがつくぐらい。仕事人間でもあるな。ちょっと線が細いかな。頼りないというほどではないですよ」
 育ちのよさなのか、物腰が柔らかい。それと話好きのようだ。むっつりよりはいい。
「そうだ、また話は変わりますが、佐分利さんのお嬢さんはたしか神山奈緒子弁護士なんですね。最近テレビでおみかけしています」
 またその話題がでた。おおかた倉持からの情報だろう。いつもの返答でお茶をにごそうとしたとき、いつのまにか野崎里美がお茶を持ってそばにいた。彼女はゆっくりとした動作で私と専務の前に茶碗を置き、慇懃に頭を下げて部屋を出て行った。これでなんとなく話題を変えることができた。
「敦夫氏からお父上のあとを継ぐと聞いてどう思われました?」
「最初に聞いたのは倉持さんからですね。そのあとで本人から聞きました。ええ、賛成しましたよ。彼は政治家に向いていると思うな」
「そう思いますか」
「ええ、優しすぎるけど、そんな政治家がいてもいいでしょう」
「では、辞退したときはどう思われました?」
「なんでと思いましたね。その理由がはっきりしないでしょう。二度吃驚ですよ」
「親友のあなたにも理由はおっしゃらなかった?」
「何度聞いてもいいませんよ。付き合っている恋人が原因じゃないかと倉持さんから聞いて、本人に確かめたけど、なんとなくそれをにおわせる返事はするけど、はっきりとはわかりません。いわないんですよ。こんなに頑固だったかと驚きでした」
 ここで福永専務がお茶に手を伸ばした。私も手を伸ばした。
「理由について、なにか思いあたることはありませんか。なんでも結構です」
「あなたはどうなんです。なにかつかんでいるのでは?」
「それがさっぱり」
「ははは」
 大きな声を出して笑った。おもしろがっているわけではないと思うが、どうも屈託がない。
「ダーツバーで敦夫氏は、彼女とは最後のデートになるかも知れないと話したそうですが」
「ええ、そうです。それが例のドライブですよ。聞いているこっちが心配になるほど沈んだ表情でした」
「それで、最後のデートをした恋人の片山優子さんのことですが」
「いよいよ本題ですね」
「恐れ入ります」
「倉持さんから聞きましたが、彼女の個人情報をお知りになりたいとか」
「お教えできる範囲で結構です」
「もちろんそのつもりです。彼女の住所などはもうご存知だと思いますので、それ以外の情報です。といっても、ほとんどお教えできる情報はないです。個人情報は企業の経営課題のひとつですからね。申し訳ないですが」
「とんでもないです。では教えていただける情報はなんでしょう」
「出身は札幌です」
「札幌ですか……」
「それはご存知なかったですか」
「ええ、知りませんでした。あとは?」
「申し訳ない。それだけです」
「はあ……」
「……彼女は新卒採用です。入社は九年前ですね。二十四歳のときです。大学を二年遅れで卒業しています」
「二年遅れで卒業?」
「浪人していたんじゃないですかね。ちなみに大学は東京です」
 落胆した私を気の毒に思ったのか、福永専務はちょっとだけ情報をくれた。
「ところで彼女の所属は?」
「総務部です。ご存知どうかわかりませんが、うちは通販に力を入れていましてね。その関係で本郷の会社に協力してもらっています。本郷もちょくちょくうちにきます。彼女は通販の担当でもあるんです。それで彼女と知り合ったんでしょうね」
「なるほど。知り合ったきっかけはそれですか。しかし社長の敦夫氏みずから足を運ぶんですか」
「そんなやつですよ。彼は。とにかく仕事人間なんです」
「彼女の仕事ぶりはどうなんでしょう」
「悪くないようですよ。総務の課長に聞くと、仕事もできるし、勤務態度やコミュニケーションも問題ないようです」
「そうなんですか……そうそう、なんでも御社は福利厚生がしっかりしていて、特に女子社員の定着率がいいらしいですな」
「よくご存知で。うちは女性管理職登用を積極的に行っています。いま話が出た総務課長も女性ですよ」
 福永専務はいかにも嬉しそうな顔をした。そのとき、電話が鳴った。内線電話のようだ。福永専務は、失礼といってデスクまで行き、電話を取った。
 電話は短かった。すぐにソファーに戻ってきた。
「こんなところでよろしいでしょうか。このあと別件が入ってしまったんで」
「貴重なお話をありがとうございました。最後にお聞きします。敦夫氏の恋人が片山優子さんとわかってどう思いました?」
「まさかうちの社員と付き合っているなんて思いもよりませんでした。ずいぶん水くさいと思いましたよ。きっと私に知られるのが恥ずかしかったんでしょうね。もちろん、本郷には彼女を知ったことを話してはいません」
「そうですね。当分の間は隠しておいたほうがいいのかも知れませんね」
 福永専務は育ちのよさ特有の屈託のない笑顔を浮かべた。
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