一 明美を頼む

文字数 1,777文字

 大学病院を退院したその年の晩秋、土曜、夕刻。
 R市のアーケード街、恵比寿通りの喧噪に、『田村!』と呼ぶ声を聞いてふりかえった。大淵俊一が、紺のベレー帽を被った長い髪のかわいい女とともにこっちを見ている。女は大淵がつきあっている沢田加代ではなかった。

「デートですか?」
 大淵はM大理工学部化学科三年を二度くりかえして、現在、四年だ。
「ああ、紹介しとくよ。原田明美さん。秀徳大健康保健学部看護学科の三年だ。
 こっちは後輩の田村省吾君。理工学部化学科の二年だ」
 大淵が原田明美と僕に、互いを紹介した。
「原田明美です」
 原田明美は目をキラキラさせて紺のダッフルコートのポケットから手を出して、僕の前に差しだした。こんな所で握手を求めるなんて妙な女だと思いながら、僕は、田村省吾ですと言って、着ているゲレンデコートのポケットから手を出して明美と握手した。
「今、田村君の事を話してたんだ。ちょっと、コーヒーをつきあってくれ」
 特別な話があるらしく、大淵は近くの楽器店の二階にあるコーヒーショップを示した。

 コーヒーショップで、大淵は、僕と明美の事ばかり話した。大淵がなんの目的で話すのか疑問だった。このアーケード街で、大淵と明美の二人に出くわしたのも妙だった。
 今日この時間に、アーケード街の量販店でセーターのバーゲンセールをしていると門田から聞いていた。門田は大淵と親しい化学科の三年だ。
 大淵は門田から、僕がこの時間にこのアーケード街を歩くのを知って、明美と僕を会わせる目的で、アーケード街を歩いていたらしい。単に僕を明美に紹介するだけではなさそうだ、と誰かが僕の心に囁いている気がした。
 
「これから明美のお母さんを見舞いにゆくから、いっしょに来てくれないか」
 ひととおり僕と明美の事を話し終えると大淵は僕を誘った。頼み事をされると、理由がない限り断わらない僕の性格を、大淵はいつのまにか見抜いていたらしい。


 総合病院三階の病室は四人部屋で暖かだった。僕はベッドに横たわる明美の母親に挨拶した。
「お母さん。こちらは田村さん。大淵さんの後輩。二年だよ」
 明美はコートを脱ぎながら、慌てて僕を紹介して、僕を見つめた。明美のまなざしは、単なる知りあいを紹介するまなざしではない気がした。
「明美をよろしくお願いします」
 母親はベッドから半身を起こして丁寧に頭を下げた。そして、いろいろ明美について話した後、
「お父さんが生きていれば、大淵さんに就職先を世話できたのにね」
 大淵と親しそうに話した。母親は、四年の大淵が就活で苦労していたのを知っていた。

 母親の話によれば、大淵は、明美が大学を受験する高校三年の時、明美の家庭教師だった。この時、明美の父はすでに他界していた。僕は三人の話を聞いていたが、母親の病状については何もわからなかった。
 三十分ほど話すと、大淵は、用があるので帰りますと母親に告げて、明美に、じゃあまた、と言い、僕とともに病室を出た。

「田村君。僕は来春卒業だ。明美の相談相手になってくれないか・・・」
 大淵は病院の廊下を歩きながら、廊下の先を見つめて独り言のように言った。明美の家庭教師をしながら、大淵はずっと明美の相談相手になっていたらしい。
「卒業後、大淵さんは原田さんを助けてあげないんですか?」
「彼女、僕に興味を持ってないんだ。と言うのも変だな・・・。
 最初から、僕には恋人がいるから興味を持つなと話しておいた。彼女はそれを守った。
 守ったと言うより、明美は僕を相談相手としか見てなかった。
 僕は彼女好みじゃないんだ・・・」
 大淵の話は、明美の好みはお前だよ、と言っているように思えた。
「わかりました。相談相手になりますよ・・・」
 断わる理由も無いので大淵の頼みを承諾した。でも、こんなにかんたんに決めていいのだろうか。そう思う僕の心に、『それでいいんだよ』と囁きが聞えた。
「じゃあ、明美に田村君のスマホの番号を教えとくよ・・・。
 晩飯をいっしょに食えるといいんだが、これからバイトなんだ。
 よかったら、夜、僕の所に来ないか?」
 大淵はアパートでいっしょに酒を飲もうと誘った。
「今日はセーターを買いにいって、そのまま帰ります」
「そうか・・・。明美を頼む・・・」
「はい・・・」
 病院の玄関で、僕は大淵と別れた。土曜の夜は独りでのんびりしたかった。
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