十 花屋
文字数 2,350文字
月曜。三時半過ぎ。
大学の講義が終った。晴れているがここ北関東特有の晩秋の風は冷たい。風の中を、総合病院に近い花屋『たちばな』へ行った。
「お花、用意してありますよ」
店内に入ると女店員は、笑顔で、店の広いカウンターテーブルのフラワーアレンジメントを示した。
「入院している方は、元気になりましたか?」
フラワーアレンジメントを包装しながら、店員はさりげなく話している。店員の雰囲気から、いろいろ質問したいがあえて関心なさそうな態度をしているのを感じる。僕の世代の男は入院患者に花を送らないのだろう。
「いえ、あいかわらずです・・・」
昌江の病状を知らない僕は、それしか言えなかった。
「彼女さん、早く元気になるといいですね・・・」
「はい・・・」
店員は昌江を僕の恋人のように思っている。店員に、入院しているのは明美の母だと説明しても、話が長くなる。なぜ僕がそんな身の上話をするのか妙に思われるのも嫌だから、店員の言葉を否定せずにいた。
「お見舞いに行って、どんな話をなさるのかしら?」
包装作業の手を止めて、店員は僕を見ている。
「生活用品で必要な物はないかとか、着換えや洗濯物の事とか、いろいろです・・・」
病室でこんな事を昌江と話しているのは明美だ。僕は母娘の会話を聞いているか、昌江の質問に答えているだけだ。店員に質問されて、自発的に昌江に話していない自分に気づいた。
「もっと、あなたのいろいろな話をしてあげた方が、喜ぶと思いますよ」
店員は言葉を選ぶようにそう言った。
「というと?」
「入院してると、テレビで世の中の事とはわかるけど、今日のような、年の瀬が近い街の雰囲気はわからないでしょう。だから、あなたが感じた身の周りの事、街の事も、それを感じるあなたの事を話してあげたら、この街の事が入院している人に伝わると思いますよ」
店員は微笑んで、フラワーアレンジメントを包装し終えた。
「もしかして、長く入院していた事があるんですか?」
「ええ、骨折で、ひと月ほど。毎日見舞いに来てくれた人がいて、いつもデイトしているみたいだった・・・。
でもね。お互いに思っていたのに、どちらからも告白しなかったから、自然消滅したわ。あなたと同じM大生だったわ」
「僕がM大の学生なのが、どうしてわかったんですか?」
「先週、二度、お店に来たでしょう。この時間に見舞いに来れるのは学生だけよ。それに、話してて、わかるわ・・・」
「そうなのか・・・。あっ、M大生って事じゃなくって、お見舞いの事」
僕は昌江に、僕が見たり感じた事を話していない。入院してる昌江の話を聞いて質問に答えてるだけだ・・・。
「ああ、入院してるのは、彼女ではないんですよ」
「どういうことなの?」
店員は、僕が何を話してるのか、理解できない様子だった。
「入院してるのは母親です」
そう言うと店員は一瞬驚いて、話題を変えた。
「私の知りあいのお母さんも入院してる。長いのよ。知りあいって女よ。
昨日、彼女ここに来て、少し話していった。以前より、元気になったわ」
「長期入院している人がいると、家族は大変ですね」
「ええ、あなたも、お母さんを大切にしてあげてね」
店員はカウンターテーブルのフラワーアレンジメントを僕の手元に置いた。
「はい・・・」
僕はフラワーアレンジメントを受けとって会計した。
「それでは、お見舞いに行ってらっしゃい。
お花、来週も用意しておきますね」
店員は微笑んでいる。
「お願いします。長持ちするんで助かります」
僕は花屋を出た。
昨日、明美は買い物に出たついでに、この花屋に寄った。買い物に出たにしては時間がかかりすぎると思った。明美は花屋とどんな関係があるのだろう。
病院に着いた。
今日、明美は用があり、見舞いは僕一人だ。昌江は明美からその事を聞いていたらしく、明美が来ない事を詫びた。昨日、明美が洗濯物を持って帰ったため、僕が持ってきたのはフラワーアレンジメントだけだった。
「今度、来る時、着換えを持ってきますね。何かほしい物がありますか?」
フラワーアレンジメントを交換しながら、昌江に尋ねた。
「家の私の部屋に、植物図鑑が五冊あるの。あれとノートを持ってきてね。ノートも図鑑といっしょにあるわ」
「ボールペンが必要ですね」
「シャープペンシルがいいわ。布団に落しても、インクが布団につかないから」
先を見越しているこの昌江の一言で、僕は、昌江が明美の今後を考えて、いろいろ手を尽くしていたのを感じた。昌江の意向を汲んで動いたのは家族だけではなさそうだ。あの大淵もその一人だろう。そして、花屋の女店員も、何か関係があるのかも知れない。
「布に着いた鉛筆の芯汚れは、消しゴムで落ちますからね」
僕は昌江が知っていると思ってそう言った。
「えっ?どういうこと?」
「以前、白いジーンズを履いてた時、シャーペンの先が腿の部分に当って、黒い線が残ったんです。長くて太かったから困った。
鉛筆で書いた文字は消しゴムで消えるから、ジーンズの線を消しゴムで消してみたら、みごとに消えた。それ以来、鉛筆などの布に着いた汚れは、応急に、消しゴムで消してるんです。
ただし、天然ゴムに近い系統の消しゴムがいいですね。合成のプラスティック系統のは可塑剤が入ってるから、汚れが繊維に浸透しやすいから」
「何かの時は、私も試してみるわ。他にも、今のような話は何かあるの?」
「いや、今は何も思いつかないな。
ああ、盆栽の葉の事は、興味ある人にはおもしろいかも知れません」
「私は、花や植物が好きよ」
「それなら、わかるかも知れないね。
盆栽の葉が、庭や林の植物の葉より小さい訳を知ってますか?」
「わからないわ?」
「それは・・・・」
僕は昌江に、自分で育てた楓の盆栽について話した。
大学の講義が終った。晴れているがここ北関東特有の晩秋の風は冷たい。風の中を、総合病院に近い花屋『たちばな』へ行った。
「お花、用意してありますよ」
店内に入ると女店員は、笑顔で、店の広いカウンターテーブルのフラワーアレンジメントを示した。
「入院している方は、元気になりましたか?」
フラワーアレンジメントを包装しながら、店員はさりげなく話している。店員の雰囲気から、いろいろ質問したいがあえて関心なさそうな態度をしているのを感じる。僕の世代の男は入院患者に花を送らないのだろう。
「いえ、あいかわらずです・・・」
昌江の病状を知らない僕は、それしか言えなかった。
「彼女さん、早く元気になるといいですね・・・」
「はい・・・」
店員は昌江を僕の恋人のように思っている。店員に、入院しているのは明美の母だと説明しても、話が長くなる。なぜ僕がそんな身の上話をするのか妙に思われるのも嫌だから、店員の言葉を否定せずにいた。
「お見舞いに行って、どんな話をなさるのかしら?」
包装作業の手を止めて、店員は僕を見ている。
「生活用品で必要な物はないかとか、着換えや洗濯物の事とか、いろいろです・・・」
病室でこんな事を昌江と話しているのは明美だ。僕は母娘の会話を聞いているか、昌江の質問に答えているだけだ。店員に質問されて、自発的に昌江に話していない自分に気づいた。
「もっと、あなたのいろいろな話をしてあげた方が、喜ぶと思いますよ」
店員は言葉を選ぶようにそう言った。
「というと?」
「入院してると、テレビで世の中の事とはわかるけど、今日のような、年の瀬が近い街の雰囲気はわからないでしょう。だから、あなたが感じた身の周りの事、街の事も、それを感じるあなたの事を話してあげたら、この街の事が入院している人に伝わると思いますよ」
店員は微笑んで、フラワーアレンジメントを包装し終えた。
「もしかして、長く入院していた事があるんですか?」
「ええ、骨折で、ひと月ほど。毎日見舞いに来てくれた人がいて、いつもデイトしているみたいだった・・・。
でもね。お互いに思っていたのに、どちらからも告白しなかったから、自然消滅したわ。あなたと同じM大生だったわ」
「僕がM大の学生なのが、どうしてわかったんですか?」
「先週、二度、お店に来たでしょう。この時間に見舞いに来れるのは学生だけよ。それに、話してて、わかるわ・・・」
「そうなのか・・・。あっ、M大生って事じゃなくって、お見舞いの事」
僕は昌江に、僕が見たり感じた事を話していない。入院してる昌江の話を聞いて質問に答えてるだけだ・・・。
「ああ、入院してるのは、彼女ではないんですよ」
「どういうことなの?」
店員は、僕が何を話してるのか、理解できない様子だった。
「入院してるのは母親です」
そう言うと店員は一瞬驚いて、話題を変えた。
「私の知りあいのお母さんも入院してる。長いのよ。知りあいって女よ。
昨日、彼女ここに来て、少し話していった。以前より、元気になったわ」
「長期入院している人がいると、家族は大変ですね」
「ええ、あなたも、お母さんを大切にしてあげてね」
店員はカウンターテーブルのフラワーアレンジメントを僕の手元に置いた。
「はい・・・」
僕はフラワーアレンジメントを受けとって会計した。
「それでは、お見舞いに行ってらっしゃい。
お花、来週も用意しておきますね」
店員は微笑んでいる。
「お願いします。長持ちするんで助かります」
僕は花屋を出た。
昨日、明美は買い物に出たついでに、この花屋に寄った。買い物に出たにしては時間がかかりすぎると思った。明美は花屋とどんな関係があるのだろう。
病院に着いた。
今日、明美は用があり、見舞いは僕一人だ。昌江は明美からその事を聞いていたらしく、明美が来ない事を詫びた。昨日、明美が洗濯物を持って帰ったため、僕が持ってきたのはフラワーアレンジメントだけだった。
「今度、来る時、着換えを持ってきますね。何かほしい物がありますか?」
フラワーアレンジメントを交換しながら、昌江に尋ねた。
「家の私の部屋に、植物図鑑が五冊あるの。あれとノートを持ってきてね。ノートも図鑑といっしょにあるわ」
「ボールペンが必要ですね」
「シャープペンシルがいいわ。布団に落しても、インクが布団につかないから」
先を見越しているこの昌江の一言で、僕は、昌江が明美の今後を考えて、いろいろ手を尽くしていたのを感じた。昌江の意向を汲んで動いたのは家族だけではなさそうだ。あの大淵もその一人だろう。そして、花屋の女店員も、何か関係があるのかも知れない。
「布に着いた鉛筆の芯汚れは、消しゴムで落ちますからね」
僕は昌江が知っていると思ってそう言った。
「えっ?どういうこと?」
「以前、白いジーンズを履いてた時、シャーペンの先が腿の部分に当って、黒い線が残ったんです。長くて太かったから困った。
鉛筆で書いた文字は消しゴムで消えるから、ジーンズの線を消しゴムで消してみたら、みごとに消えた。それ以来、鉛筆などの布に着いた汚れは、応急に、消しゴムで消してるんです。
ただし、天然ゴムに近い系統の消しゴムがいいですね。合成のプラスティック系統のは可塑剤が入ってるから、汚れが繊維に浸透しやすいから」
「何かの時は、私も試してみるわ。他にも、今のような話は何かあるの?」
「いや、今は何も思いつかないな。
ああ、盆栽の葉の事は、興味ある人にはおもしろいかも知れません」
「私は、花や植物が好きよ」
「それなら、わかるかも知れないね。
盆栽の葉が、庭や林の植物の葉より小さい訳を知ってますか?」
「わからないわ?」
「それは・・・・」
僕は昌江に、自分で育てた楓の盆栽について話した。