四 お願い

文字数 1,990文字

 木曜、四時過ぎ。
 晴れているが風があって肌寒い日だった。
 僕はふたたび病院近くの花屋へ行った。月曜に花屋へ行った時、店の名に関心がなかったので記憶しなかったが、これから長いつきあいになりそうな気がして、店の名『たちばな』を確認した。女店員は僕を憶えていたが、病院へ持っていったフラワーアレンジメントについては何も尋ねず、
「こんどの月曜に、新しいアレンジメントを作りましょう」
 と言って花の手入れ方法を説明し、
「お見舞いに行ってらっしゃい」
 僕を店から送り出した。僕は店員にお礼を言って店を出た。

 病室に行くと昌江はいなかった。
「昌江さんは検査に行ったから、よろしく伝えてほしいと言ってたわ」
 隣のベッドの患者、木村信子さんが僕に伝言を伝えた。
「ありがとうございます。また来ます」
 僕は礼を言って病室を出た。

 いつのまにか、総合病院の外は風がやんで、穏やかだった。構内の銀杏の木々は葉が散って幹と枝だけになり、巨人がひっそり佇んでいるように見えた。晩秋の夕日が茜色の光を西の空に照らして、空は、天中の青から西へ行くにつれて、赤みががった青に変化していた。家庭教師の時刻まで一時間近くあった。

 スマホが振動した。発信は明美からだった。
「省吾です。元気?コワイ夢なんか、見てないよね?」
 昨日、水曜の午後、僕は明美に電話している。大学の講義が終った時刻なのに明美は電話に出なかった。返信を期待していたが連絡はなかった。
 土曜に映画を見た後、明美から連絡はなかったから、相談を受ける立場であろう僕が明美に連絡するのは、相談を要求するようで妙な気がしていた。

「うん、だいじょうぶ。昨日、電話もらったのに出なくてごめんね」
 明美の声は沈んでいる。僕はただならぬものを感じた。
「いろいろ都合もあるだろうから、気にしなくていいよ」
 明美が昨日の午後、総合病院にいたような気がした。おそらく昌江の検査について医師と話していたため、スマホの電源を切っていたのだろう・・。

「家庭教師が終るのは何時?」
「九時だよ。十時には下宿に帰る」
「そしたら、R駅のそばの喫茶店ル・モンドで、十時まで待ってる。
 都合がついたら来てほしい・・・」
 やはり、何かあったな。昌江のことか・・・。
「わかりました。なんとか都合をつけるよ」
「ごめんね。無理を言って」
「じゃあ、その時に・・・」
「うん・・・」
 明美は電話を切った。
 明美が話そうとしているのは昌江の検査の事だろう。今、明美は昌江の検査に付き添って病院にいるのだろう。検査の結果はすぐには出ない。昌江の容態が悪いのか?いや、いろいろ勘ぐるより家庭教師に集中しよう。明美に会えばわかることだ。だけど、気になる・・・。


 九時に家庭教師が終った。九時半前に喫茶店に着いた。奥の窓際の席で、明美がぼんやり窓の外を見ていた。僕は無言で明美の前に座った。
 明美の顔が窓からこっちを向いた。僕を見つめる明美の顔がふっと何かから解放されたように微笑んでいる。しかし、寂しそうだ。
 僕は何があったか尋ねる前に、遅くなってすまない、と言った。
「ううん、私の方が無理を言ってごめんね」
「いや、そんなことないよ。夕飯を食べた?」
 明美が夕飯を食べていないような気がした。
「食べたよ。あなたは?」
 よかった。夕飯を食べる心の余裕があったんだ・・・。
「家庭教師先で食べた」
「食事つきの家庭教師なんだね・・・」
「うん、夕飯つきだ・・・」
 明美は何を話すのだろう・・・。
 僕がコーヒーを頼んでいるあいだ、明美はじっと僕を見て微笑んだ。群からはぐれて迷っていたアルパカが、やっと群を見つけて安心したかのようだ。
 そう思うと、『そうだよ』と声がしたように感じた。

「ねえ、私のお願いを聞いてほしいの・・・」
「なに?」
「今日はうちに泊ってほしいの。
 省吾を家に泊めること、母にもお祖父ちゃんとお祖母ちゃんと兄にも話してあるよ。
 いろいろ話を聞いてほしいから泊ってもらうって。
 みんな賛成してくれた。
 ねえ、下宿に帰らないといけないの?」
 アルパカが小首を傾けて返事を待っている。
「いや、そんなことはない。明日の授業に必要な物はここにあるから」
 ショルダーバッグを示した。理系の教科書や専門書はいつもバッグに入れて持ち歩いている。明日、金曜は、午前の講義が休講だ。

「話って、それだけ?」
 僕は、他にも明美が話そうとしている事があるように感じた。
「家に着いてから話すね。そうしないと話すことが無くなっちゃう。
 泊ってくれる?下宿に帰らないといけない?」
 明美はじっと僕を見つめている。
 注文したコーヒーが運ばれてきた。
「うん、泊めてもらう。そしたら、コーヒー飲んで帰ろう」
「うん・・・」
 僕は何も話さないままコーヒーを飲んだ。

 二人で喫茶店を出てR駅へ歩いた。明美は僕の腕を抱きしめた。土曜の映画の後のように。
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