第36話

文字数 2,745文字

一か月近い期間が過ぎた。戦況は一進一退の状態で、領地を取ったり取られたりを繰り返している。その間里奈からは特に連絡もなかったが、ようやくシミュ構成子が扱えるようになってきた。そして、獣人種や戦時下で捕らえた虫人たちを調べることで虫人に必須となる化合物の特定はできつつある。もちろん非人道的な扱いはしていない。あとはこれをどう用意するかだ。すでに試されている通り、既存の動植物からはこれが見つからなかった。今のところ獣人特有に存在するものだ。やはり獣人しか答えはないのだろうか……。
 歯がゆい思いをしているところにココアがやってくる。
 表情からするに、恐らく悪い知らせなのだろう。しかも今まで聞いた中で一番悪いものに違いない。いつまでたっても口火を切らないので俺から話を振ることにする。
「どうしたんだ? レゴーを取られてしまったか?」
 昨日の報告ではレゴーで戦闘となる可能性が高いと言っていた。あそこを取られると防衛難度が一気に増す。だからイリュをはじめとする優秀な戦士を数多く配置させていた。
「レゴーに蜘蛛人たちが襲撃してきたんだ。でも何とかレゴー自体は防衛できた」
 もう……この段階で、次の言葉を聞きたくなかった。
 里奈の言葉が耳元で蘇ってくる。戦争はときとして大切な人を奪っていくと。ココアが報告に来るときは、いつももう一人も一緒だった。なのに、なぜ今日は一人なんだ。レゴーが防衛できたのに、なぜ彼の表情が雨模様となっているのか。
「ただ、死傷者も多数で出た」
 それ以上彼は言葉を続けない。本当は聞きたくない。でもちゃんと聞かなければならない。こうなることも想像はしていた。でも覚悟までできていたかと問われるとそんなことはない。彼らならきっと大丈夫だ。そんな願いにも似たものを胸に秘めていたんだ。
「ココア。イリュは……どうしたんだ?」
 これに無言しか返ってこなくて、俺はすべてが虚しくなった。俺がレゴーを防衛しながらシミュ構成子にも手を出すという案もあった。だが最終的に、獣人と、ひいては虫人の命を多く救えるのは、俺がシミュ構成子に注力することだという結論に至り、イリュとココアに防衛は任せると判断したんだ。自分が決断したことに文句なんて言えない。それに文句を言ったところで一度失われてしまったものは帰ってこない。
 そのとき、扉がゆっくりと開かれる。
 そして、見知った犬人が顔を覗かせた。
 その瞬間、それまでドロドロと考え込んでいた自分の不安が消えてなくなっていく。
なんだよ。ココアは何でそんな紛らわしい態度を取る……ん……だ、よ……。
 イリュが俯いている。両足で立ち、左手を胸にあて、右腕は――。
 やがて、ココアが最小限の言葉だけを並べる。
「規定では、障碍者となった者は産祝となることになっている。彼女はお前の夢を実現するために正しく行動をしてきた。言葉をかけてやってくれ」
 そう言って、ココアは退室した。
 互いに突っ立ったまま、何も言葉を発することができない。この場に置いて、どんな言葉も相応しいとは思えない。彼女がどのくらいの年齢なのかを俺は知らない。見た目からは判別できないが、恐らくまだ若いのだろう。もっと人生を謳歌できたはずだ。もっと楽しいことや幸せな時間があったはずだ。なのに、それらは否応がなく消え去っていく。
 狼人の場合では出産まで三か月だとたしか言っていた。つまりそれが彼女の余命となる。
 イリュがゆっくりと歩み寄ってきて、椅子に座る。
「……ここまで頑張ってこれたのにな。あたしの人生はこんな結末か。はは」
 乾いた笑いが俺の心を抉る。
「優真さん、蜘蛛人、ちゃんと殺さなかったよ」
 笑顔で、褒めてと言わんばかりにこちらに顔を差し出してくる。涙とともに。
 彼女は俺の思いを組んで蜘蛛人を殺すのでは無力化することまで考えてくれていたんだ。だが、イリュと蜘蛛人では戦力に圧倒的な開きがある。それがどれだけ困難なことであるかは想像に難くない。
「……産祈かぁ。想像してなかったわけじゃないけど、目の前にすると結構心に来るものなんだなぁ。クーもこんな気持ちだったのかな。他の道を探したくなるのもわかる」
 イリュは左手をジッと眺めながら茫然としている。本当は両方あるのを妄想に描いているのだろう。涙がぽろぽろと落ちてくる。
 そして、俺に抱きついてきた。
「優真さん、あたし、怖いよ。死にたくないよぉ。命が生まれてくるはずなのに、全然喜べないよ。犬人の社会を守るためのことのはずなのに、ちっとも良いことだと思えないよ」
 彼女が体をガクガクと震わせながら、切れ切れの言葉を発する。
 イリュを抱き留めながら、どんな言葉も発することができない。彼女がこうなった責任は俺にある。その俺が、どれだけ謝っても彼女には足りないだろう。
「イリュ……。今からでも、その規定を見直して……」
「ダメだよ」
 こんなに自分事で辛いはずなのに、イリュは否定してくる。わかっているんだ。わかっているけれども、俺はイリュに悲しくなってほしくない。いつものあの笑顔を浮かべていて欲しい。なのに、彼女がそうなれないのが痛いほどわかってしまう。もしイリュだけを特別扱いしたら、他の産祈候補の人たちから大きな不満が出るだろう。逆に産祈にあまりならずに済むような決まりにしてしまうと、今度は狼人や虎人から不満が出る。
 獣人社会はそれほど余裕がない。社会的弱者を救済できるほどの福利厚生を用意できないことはよくわかっている。彼女は犬人という種のためにこれまで頑張ってきた。自分が悩める最大の輪は犬人という種族までだと諦めていた。それでも彼女はその中で精一杯自分にできることをしてきたんだ。その彼女が、最後は犬人のために死ぬことになる。そんなのは間違っている。間違っているのにそれを否定することができない。
 無力だ。
 俺はどこまで無力なんだ。どれだけの武力を持っていようとも、何もできない。何も変えられない。神人であるはずなのに、彼女の腕一つ再生できない神なんだ。神からは程遠い存在のように思える。
「優真さん。あたしの最後のお願い……聞いてくれる?」
 俺は静かに頷く。彼女は自分のすべてをかけて、俺の願いを叶えようとしてくれたんだ。俺は彼女の最期の願いを聞き届けなければならない。
「あたし、優真さんの産祝になりたいな」
「俺の……?」
「好きな人と好きな時間を過ごす。そんな瞬間が、あたしの人生にも欲しい」
「イリュは……俺のことが好きなのか?」
「前にも言ったじゃん。あたし、優真さんのこと好きだよ。生まれて初めて恋愛感情で他人を好きになれたの。……このお願い、優真さんは叶えてくれる?」
かつて一度だけ彼女が見せた儚い笑顔がそこにはあった。
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