第17話 冗談なのか、本気なのか

文字数 4,448文字

 滞りなく日々の業務をこなし、また週末がやって来た。流石に休みなく働いて、今日で十日目ともなると体にくる。昨夜も布団に入ったところで意識がないから、気絶するみたいに眠りに入ったのだろう。
 貴哉も毎日こんな風なのだろうか。食事を摂るのも億劫なくらい、とにかく布団が恋しくて、体を横にして目を閉じてしまいたいという、そんな毎日を過ごしているのだろうか。
 好子さんが貴哉の忙しさを心配していたけれど、その後どうしただろうか。相変わらずなんの連絡もなくて、あんな風に追い出した手前、こちらから声はかけ難い。
 それに、ニートの時に比べれば、日々に忙殺されてメッセージを気にする時間も雲泥の差だ。貴哉が忙しくて中々連絡をくれないことに寂しく思っていたけれど、自分が似たような、と言ってもたかだか十日だけれど、それでも忙しくなってしまえば、正直連絡どころではないこともよくわかった。
 それとも、あんな風に「帰れ」なんて言ってしまったから、単に連絡し難いのかな。好子さんには連絡していたりしないだろうか? 体、壊してないかな。
 疲れにぼんやりしながら貴哉の心配をしてみても、何かアクションを起こすに至らない頑固さはなかなかに強情だ。
 出かける準備を整えて、ファミレスのバイトへ向かう。この土日で最後だし、しっかり頑張ってこなくちゃね。

 週末のファミレスは戦場だ。昨夜からの徹夜組が机に伏せっていて、嫌味にならない程度に声をかける中、朝から元気な奥様方がワイワイと現れたりする。
 夏休みのせいか昼間には子供連れも多く、わけのわからない言葉も飛び交い、リスニングがかなり難しい。
 もしかしたら、これを乗り越えればフランス語やイタリア語なんて、とても安易にさえ思えるんじゃないだろうか、って言うくらいの言語があちこちで一気に飛び交っていた。
 聖徳太子じゃないんだから、一気にしゃべらないでよ。とは注文するお客に言えるわけもなく。順を追って話してもらえるように上手く促していく。
「ふぃ〜」
 お昼を過ぎてやっと休憩になり、スタッフルームの椅子になだれ込むように腰掛けた。
「お疲れさん」
 厨房を回っていた店長が、パスタランチを片手に入ってきた。店長もお昼休憩なのだろう。
「これ、奢りね」
「え?」
「よく気がつく仕事をしてもらって、本当に助かってたから、良かったら食べてよ」
 店長が私の前のテーブルに、パスタランチを置いた。出来たての湯気が立つ、トマトクリームソースの香りが食欲をそそる。
「ありとうございます」
 店長の優しさに、まだ午後からも仕事があるというのに、じんわりときてしまう。
「泣くな、泣くな。また、何かあったらうち来てよ。水野さんの仕事ぶりなら、いつでも歓迎だから」
 コクコクッと力強く頷くと、店長は笑ってスタッフルームを出て行った。
 店長が用意してくれたパスタランチは、今までで一番美味しいファミレス料理だった。

 最終日も終えて、店長や他のスタッフへ挨拶をすれば、二度と会えないみたいにほろりと涙が溢れてしまう。
「家、近いじゃん」
 零れた涙を大学生のバイト君に突っ込まれて、みんなゲラゲラ笑っている。
「ひと駅なんだし、たまには食べに来てよね。ほら、前に彼氏さんも来てたでしょ。また連れてきなよ」
 パート主婦さんから悪気のないお誘いを受けたけれど、上手く笑えない。ただ、ほろりときている状況だったから、そんな表情もおかしく捉えられはしなかった。
「お世話になりました」
 深く頭を下げて、短い間だったけれどお世話になったみんなにさよならをした。
 ファミレスから出て歩いて行くと、通りに面している数件並ぶ居酒屋の路地から、見知った顔が出てきて思わず身を引いた。
 咄嗟に物かげを探していたら、声をかけられてしまう。
「あんた、えっと。水野さんだろ?」
 間に合わなかった……。
 貴哉とはまた違った、ぞんざいな言い方で声をかけられた。
「こ、こんばんは。専務」
 どうやら、週末の間にフランスから戻っていたようだ。
「おかえりなさいませ」
 萎縮しながら言うと、グーにした手の甲を口元へ持って行った。よく見ると目が笑っている。
 あれ、笑うんだ。
 第一印象が最悪だったせいで、笑い顔が新鮮すぎて驚きだった。
「お手伝いさんかよ」
 含み笑いのまま突っ込まれて、確かになんて真面目に思っていたら、「暇そうだな」なんて言われて、仕事帰りですっと反論しそうな口を慌てて閉じた。
「歓迎会やると思うけど、前祝いしてやるよ」
 専務はそう言うとくるりと踵を返し、スタスタと歩き出す。その背中を眺めていたら、「早く来いよ」とあの日会議室で聞いたときのような言い方をされて、慌てて後を追った。

 賑やかな繁華街を行き路地に入ると、さっきまでの賑やかさが鳴りを潜めた大人の通りが現れた。
 京都なら一見さんお断りのような店構えの和食屋というか、高級料亭のような暖簾を専務はためらうことなく潜っていく。慌てて後を追ったけれど、中に入ってから回れ右をしたくなった。
 着物姿がしっとりとした女将らしき女性が、はんなりと出迎えたからだ。
 デニムのスカートにTシャツ姿の自分は結構好きだったはずなのだけれど、今ならもれなく嫌いになれる。そんな気にさせられた。
「あら、いらっしゃいませ。お帰りになられたんですね」
 女将は上品な笑みをたたえながら、奥の個室へと案内する。
「素敵なお嬢様をお連れなんて、珍しいですね」
 ふふと少しだけからかうような言い方で上品に微笑むと、おしゃべりが過ぎる。と専務も頬を緩めた。
 また、笑った。
 お嬢様なんて言われたこともさることながら、専務の笑い顔にはしばらく感動を覚え続けそうだ。
 和柄の素敵な座布団の置かれた畳の個室に案内され、専務は慣れたようにあぐらをかいた。私も倣って座る。
「適当に頼むぞ」
 コクコクとうなずくと、暫くして和懐石が届いた。
 魚介が豊富な田舎に育って来ても、お婆ちゃんの誕生日をするときだって、こんな豪華な料理は出てこなかった。いや、豪華と言うかとても上品なのだ。
 田舎では新鮮なものはいくらでも出てくるけど、それとは違う繊細さのある豪華さだった。
「腹減った」
 一言つぶやき箸を握ると、専務は黙々と食べ始める。
 専務の目の前に座りおしゃれな料理と、ついてきた日本酒を眺めて、何から箸をつければいいのか迷っていた。
「ん? 嫌いか?」
 箸を持ったまま固まっていたら、専務が椀を持っていた手を止めた。
「あ、いえ。とんでもないです」
 慣れていないだけです、こんなにすごいの。
 迷い箸は、行儀が悪いよね。取り敢えず、お刺身をいただこう。
 口へ運ぶと、とても上品。漁師料理のような大雑把さなんてかけらもない。でも、あれはあれで口いっぱいに頬張っても許されるから好きだ。
「付き合わせて悪かったな。前祝いなんて言ったけど、俺が腹減ってただけなんだ。家に帰っても何もないし。水野さん、暇そうに見えたし。ついでだ」
 口は悪いが、結局のところ私をみつけて歓迎してくれているってことだよね。
 吉川さんが言うように、悪い人ではないのだろう。
 ある程度平らげるとお腹いっぱいになったのか、専務はチビチビとお酒を口にしている。
 私は上品な料理の品数が意外に多くて食べきれず、申し訳なさに膨れた胃袋よ、広がってくれ。と少しずつ何とか料理を消費しようと箸をゆっくり動かしていた。
「腹がきついなら、残せばいい」
「え……あ、はい。すみません」
 専務の好意に甘えて、申し訳ないながらも箸を置いた。
「仕事、慣れたか?」
「はい。吉川さんも佐藤さんも、とても親切にしてくれるので」
 そうか。と呟き、専務はまたちびりとお酒を口にした。
 チノパンにカジュアルなシャツを着ている姿は、以前会議室で会った時とは少し印象が違っていた。ダークな色のスーツにがっちり身を固めた人がきつい言葉を発すると、戦闘態勢よろしくで、攻撃的にしか捉えられないけれど。
 ラフなスタイルでチビチビと目の前でお酒を飲んでいる姿は、少し距離を縮められる気がした。
「面接のときは、悪かったな」
 突如として謝られ、小刻みに小さく首を横に振った。
「俺が面接をするはずだったんだけど、仕入先との連絡に手間取って。まー色々あって会議室へ行くのが遅れてしまって」
 そうだったんだ。でも、専務がもしトラブルなく面接を担当していたら、私は今ここにはいなかった気がする。だって、ワインの知識も浅いし、何より言語に乏しい。
「私、このまま続けていても、いいのでしょうか?」
「……え?」
「もしあの、この仕事に向かないようでしたら……」
「何を今更。仕事のミスもないらしいし。覚えは早いって、聞いてるけど」
 そんなことを、誰が言ってくれたのだろう。吉川さん? 佐藤さん? 何にしても、ありがたいお言葉だ。
「何億の損害を出した。何て言われたらクビかもな」
 専務は、まんざら冗談でもないような真顔で言った後に、また手の甲を口元へ持っていき笑っている。
 冗談なのか本気なのかわからない。
 そもそも。
「何億なんていう仕事を任されるレベルには、しばらく達しない気が……」
「それは、謙遜とかいうレベルじゃないな。やるからには、それくらいの仕事を取るくらいの気持ちでやってくれ」
 再び真顔を向けられ、背筋が伸びる。
「はいっ」
 正座で返事をしたら、また口元へ手の甲をやり笑っている。
 何だろう、この人。どこまで本気なのか、全くわからない。

 夜も遅いからと、専務はタクシーで家まで送ると言ってくれた。
「すみません。ありがたいのですが、うちここから徒歩五分強くらいです」
 肩をすくめると、じゃあ歩いていくか、と方向を訊ねられて指をさした。指差す方へ向けて歩き出した専務のあとを追う。いつもの見慣れた町を歩いているはずなのに、隣に専務がいることがとても不自然で不思議に思えた。友達や貴哉と歩いていれば、おしゃべりしながらの帰り道も、専務とだと会話のかの字もない。
 歩きながら特に何か話すでもなくいると、思い出したように急に訊ねられた。
「面接の時のワイン、どうだった?」
 自宅前に着き、エントランスの灯りを受けながら、立ち止まりその質問に応えた。
「とても美味しかったです。どっしりしていて、なんていうか、チーズが欲しくなってしまいました」
 苦笑いで応えたら、真顔で訊き返される。
「どんなチーズ?」
「あ、えっと。カマンベールチーズかな。トロッと柔らかな味わいのチーズが欲しいなと」
 肩を竦めて笑うと、そうか。と専務も笑う。
 答えに満足したのかどうかはわからないけれど、専務は私がエントランスへ入るのを見届けてから踵を返した。
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