第7話 好子さん

文字数 5,764文字

 ハローワークへ行こう。
 体調は、益々万全になっていた。やっと入った会社で、あんなにズタボロになったのが嘘のようだ。実は、意外と頑丈だったのかもしれない。
 頑丈だとしたら、私よりもそうでない人なら、あの会社で命さえなかったかもしれない。社会とはなんと恐ろしいところか。
 太陽が真上に来る前に家を出た。もちろん、ハンカチは忘れない。
 歩いて駅へと向かい、平日の空いた電車に乗るとエアコンが効いていてホッとすると同時に、堪えていた汗が吹き出てきて慌てて拭った。
 空いている席にストンと座ってもう一度フゥ~っと息を吐くと、隣に座っていた人が徐に話しかけて来た。
「毎日暑いですね」
 都会で見ず知らずの人から話しかけられるなんて事は、まずあり得ない。下手に話しかけて、おかしな誤解を受けてしまったら通報ものだからだ。
 驚いて隣を勢いよく見ると、先日ストーキングしたお婆ちゃんで思わず息を飲んだ。
 おかげで話しかけられているという事に反応できずに固まっていたのだけれど、ストーキングされていたとはもちろん知る由もないお婆ちゃんはニコニコと笑顔を向けてくる。
 この位の年齢の人が話しかけてくるのは稀にあることで、その場合都会でも許される範疇になる。寧ろ、話しかけられたことで、不意に懐かしさに襲われて肩の力が抜けていった。きっと田舎にいた頃の、周囲の気さくというか遠慮のない近所付き合いが身に染み付いていたからだろう。
「電車との温度差、キツくないですか?」
 ハンカチを鼻の頭に押し当てながら会話を受けると、お婆ちゃんが嬉しそうにしわくちゃの目尻を垂らした。
「そうなのよね。涼しくていいけれど、体には堪えるわ」
 ふふふふ、と上品に笑うと、小さな体が小さく揺れる。
 以前見かけた時は、田舎の祖母に似ていると思ったけれど、ふふふなんてうちの祖母は笑ったりしない。都会のお婆ちゃんは、洗練されている。祖母の話す方言も、田舎特有の気ぜわしさも好きだけれど。おっとりという言葉が合うこのお婆ちゃんも好きだな。
 今日のお婆ちゃんの手にはたくさんの荷物があった。小さな膝の上にバッグと、デパ地下の食品売り場で買った食べ物の入った袋が二つも置かれている。
 一人で食べるのだろうか? それとも旦那さんと?
 同じような歳のお爺ちゃんを想像したけれど、二人で食べるにしても多い気がする。他にも家族がいるのかな?
 私の思考を読み取ったみたいに、お婆ちゃんが話し出した。
「今日はね、孫が来るのよ」
 お婆ちゃんは、ふふとまた嬉しそうに笑う。
 なんて可愛らしいのだろう。ずっとずっと年上で、私なんかよりもたくさんの経験を積んだ人に向かって可愛いというのは失礼かもしれないけれど、それでもお婆ちゃんはやっぱり可愛らしい。
「何か作ろうかとも思ったのだけれど、若い子に煮物や和食を出しても喜ばれないでしょう」
 ほんの少し。ほんの少しの寂しさを漂わせてお婆ちゃんが笑うから、なんだか胸がキュと苦しくなった。
 そうしていたら、聴きなれないメロディが鳴り出した。
「あらあら」
 音はお婆ちゃんのバッグの中からだった。多分携帯だろう。膝の上に乗る惣菜たちがガサガサと音を立てる。デパ地下の袋が邪魔をして、バッグの中の携帯を取り出すのに苦労している。
「持ちますよ」
 膝の上にある袋をヒョイっと持ち上げると、あらあら。と言ってありがとうと笑みを浮かべた。
 やっと取り出した携帯はガラケイで、パコッと音を立てて画面を見る。少しの間そうしてから、お婆ちゃんが小さく息を吐いた。
 それと同時に電車が止まり、「あら降りなくちゃ」とお婆ちゃんが言うものだから、デパ地下の袋と共に私も一緒にホームへ降りた。この前降りた駅だった。
 降りてすぐにベンチがあって、お婆ちゃんが腰掛けるのを見て、つい隣に腰掛けた。
「困ったわね……」
 さっきよりも更に寂しげな呟きだ。
 首を傾げてどうしたのかと見ていたら、不意に笑顔を向けられた。
「あなた。お名前は?」
 突然訊ねられて、千夏《ちか》です。と即答した。
「私は、好子《よしこ》といいます」
 自己紹介をしたお婆ちゃんが丁寧に頭をさげるから、つられて私も頭を下げた。
「これ、よかったら一緒に食べてくださらないかしら? 孫が来られなくなってしまって……。あと少ししたらお昼でしょう。デザートもあるのよ。私、一人なものだから、こんなにあっても食べきれないし。千夏さん、よかったら一緒に食べてくださらない?」
 満面の可愛らしい笑みだった。

 好子さんのお家は、商店街に入ってすぐのところの路地を入ってしばらく行った先にあった。二階建ての大きなお家だった。庭も門もあって、以前なら家族がいて賑わっていたことを容易に想像できた。
 今はとても静かな門をくぐり、玄関の三和土でスニーカーを脱いだ。
 一人暮らしというだけあって、家の中は本当に静かだった。家族と暮らしていた名残がそこかしこにはあるけれど、今は一人なのだという寂しさもそこかしこに窺えた。
「どうぞ、お座りになって。暑いでしょう。あれ、つけるわね」
 キッチンというよりは、台所というのがあっているその場所に立ち荷物を置くと、好子さんは居間に置いてあるリモコンを取りに行きエアコンをつけた。
「私一人だから必要ないって言ったのに、息子がつけてくれて」
 ふふっと、好子さんが嬉しそうに笑うと、エアコンがそれに応えるように、静かな冷風で部屋を快適にしようとうねりを上げた。
「お茶、淹れるわね」
「あ、あの。私やりますっ」
 座ってと言われても、なんだか落ち着かない。自分が手にしていたデパ地下の袋を、今は使われていない台所のテーブルに置いた。
「あらあら。お客様なのよ。座ってらして」
 言われても、そうはいかない。田舎では、働かざるもの食うべからず。親でも使えというように、色々手伝わされていた。
 しかも、突然のお呼ばれだ。ただ飯なんていうわけにはいかない。
 台所の横から廊下に出られるようになっていて、その先に洗面所が見えたから手を洗いに行った。それからテーブルに置かれたデパ地下の袋から惣菜を取り出す。
 甘たれのかかった唐揚げに春巻き。サラダの詰め合わせに、フライの数々。グラタンにハンバーグにジャーマンポテト。とにかくいっぱいの惣菜が出てくる、出てくる。
 最後には、デザートだ。白い箱を開けると彩りの綺麗なゼリーのカップが六個も入っていた。よくこんなに買ったと言うくらいだ。
 それを持って楽しみにしながら電車に乗ったことを思うと、ますます胸がきゅっとなる。
 それにしても、これはさすがに二人でも……。
 逡巡している私に気がつき、ふふとまた好子さんが笑う。
「お友達も連れてくるなんていうから、お店の人に聞きながらあれもこれも買っていたら」
 肩をすくめて笑うから、私も微笑んだ。
「若い子は、色々と忙しいのでしょうね。それはそうよね、こんな老人の家に来るより、お友達と何処かへ出かけた方が楽しいわよね」
 寂しげな微笑みに、ブンブンと首を振った。そんなことないと、私の首は千切れそうなほどに左右に揺れた。少し前なら、確実に具合が悪くなって寝込むくらいの振り具合だ。
「ありがとう。千夏さんは、優しいのね」
 悲しげな微笑みに、涙が出そうだ。
 そうだ。こんな時には。
「あ、あの。もう一人、呼んでもいいですか?」
 訊ねると、好子さんがあらあら、それは賑やかになっていいわねと微笑んだ。

 一時間もかからずに貴哉がやってきた。ここへ来るまでの間に、ある程度の説明はメッセージでしていたものの、なんでだ? という疑問は拭えないようだった。それはそうだろう。ストーキングしていたお婆ちゃんに食事をご馳走してもらうことになるなんて、誰も思いもしない出来事だ。
 かと言って、その説明をしようとしても、うまくいかない。ただ、買いすぎたデパ地下の惣菜を食べてもらいたい。そのくらいだ。
 いや、賑やかにして欲しい。そんな思いもある。好子さんの寂しさが少しでも薄れるくらいの賑やかさを、貴哉には期待している。
 やってきた貴哉は、初めて会った好子さんにも。初めて訪れたこのお家にも、何の遠慮もしない。営業の途中だというのも構わず、貴哉はすっかり好子さんの家に馴染んで居座る気満々だ。
 呼んだのは私だけれど、なんかそれって少し図々しくない? と思ってしまうほどに馴染みすぎなのだ。
 なんなら、あなた実は好子さんの息子でしょ。と思わせるほどに馴染んだ態度だ。
 もしも本当に息子なら、毎週とは言わないけど、月に一度はゆっくりしていきなさいよね。一人暮らしってほんと寂しいのよ。出かける用事を作らないと、一日中家にいて引きこもり状態になるくらいなんだから。誰かと話すこともままならないなんて、寂しすぎるでしょ。なんてお説教をしてしまいたくなる。
 実際の息子さんには、会ったこともないから説教なんてできるはずもないのだけれど。
 幸い私には貴哉がいて、図々しくもよく部屋を訪ねて来てくれるから話をすることができているけれど。きっと誰もいないこの家で、好子さんは日がな一日一人きりで過ごすことの方が多いだろう。
 そんな好子さんが、今日は嬉しそうに店員さんとたくさんの会話をしながら、お孫さんのためにあれやこれやと買い物をしたに違いない。
 結局、お孫さんは来られなくなったみたいだけれど、私なんかに話しかけたのだって……。
 そんな風に貴哉を見ていたら、不思議そうな顔で見返されてしまった。
 話したことも見たこともない好子さんの息子に抱いた敵意を打ち消す。今は楽しく賑やかに、だ。
「うんめっ」
 貴哉には、遠慮というものがない。確かに賑やかになったし、好子さんも笑顔だけれど。デリカシーのかけらもなくがっつく姿に、気が気じゃなくなる。
「千夏さんも、どんどん食べてね。残してしまっても、もったいないから」
 好子さんは、貴哉のデリカシーのない食べっぷりを気に入ったようで、どんどん食べてねと、あれもこれもと差し出している。
「若いっていいわね。こんなにたくさん食べられるなんて、本当に羨ましいわ」
「すみません……なんか……」
 恐縮していると、千夏さんもどんどん食べなきゃ。と取り皿に、甘たれいっぱいの唐揚げを置いてくれた。
「好子さん、ずっと一人?」
 あれだけあった惣菜をかなり消費した貴哉が、不躾な質問をする。慌てて止めようとしたら、いいのよ。というように好子さんが微笑んだ。
「息子がいるのだけれど、仕事が忙しいみたいでね。結婚もして子供も出来て、毎日とても頑張っているわ。私が寂しくないようにって、忙しい自分の代わりに孫を来させようとするのだけれど、時々こういうこともあるのよね」
 なんでもないことのように話しているけれど、好子さんがどれほど残念がっているかは、電車で携帯のメッセージを見たときの顔を知っている私には容易に想像がつく。
「そうだわ。千夏さん、デザート」
 可愛らしく手をパチンと合わせ、冷蔵庫に入れたデザートを取りに立ち上がる。
「私やります」
 後を追うように立ち上がり、お茶の準備をする好子さんと食後のデザートを用意した。
「おお。これも美味そうだな、千夏」
 私の顔ではなく、テーブルに置かれたデザートに視線をやりながら、貴哉がどれにするかを選んでいる。
「好子さんは、どれにしますか?」
 緑茶の茶碗を両手で囲むように包み込んだ好子さんが、「私はいいのよ。二人で食べてね」と微笑む。
 自分は食べないのに、お孫さんのためにこんなにたくさん選んで。ヤバイ、考えたらまた泣けてきそうだ。けど、こんな時に私が泣くのは、好子さんに悪い。
 分かってる、堪えろ、私。
 そもそも、私はお婆ちゃんやお爺ちゃんという存在に弱いのだ。いや違うな。家族というものに弱いのかもしれない。
 家族というのは、何があっても無条件に愛してくれる存在だ。少なくとも、私はそんな家族の中で暮らしてきた。つまらない言い合いもあるし、喧嘩だってするけれど。結局、数日経てばまた元どおりになる。少しぎこちなくなる時もあるけど、それを乗り越えるのも家族だ。助け合って、労って、恥ずかしいけど、お互いにサラリと気遣いあいながら暮らしてきた。
 だから、こんな大きな家に一人で暮らす好子さんを見てしまっては、感情移入せずにはいられない。かと言って、何かできるかといえば何もできないのかもしれないけれど、とりあえず今できるのは笑って明るく賑やかに、なんだ。
「あ、そだ。好子さん、これ」
 貴哉がビジネスバッグの中から手帳を取り出し、ピリピリと破いた一枚のメモに自分の電話番号と私の番号を書いて渡した。
「また食いきれないものあったら言って。俺、新卒で給料少なくて飢えてるし。千夏は無職で、毎日暇だから」
 ニヤニヤしながら、無職と暇を強調した。
 何よっ。と反論したいところだけれど、確かに無職で暇だから何も言えない。
 好子さんは、あらあら、お友達ができて嬉しいわ。と可愛らしく笑う。
 貴哉はお給料が少ないと言っても実家暮らしのわけだし、食べることに困ることなどないだろう。それでも敢えてそう言ったのは、気遣いなんだと思う。若者がお腹を空かせていると言えば、次にまた同じようなことがあっても連絡しやすいだろう。ただ、できればこんな寂しい思いはして欲しくないから、ドタキャンなどなければいいのだけれど。
 その日、好子さんに玄関先で見送られながら、「今日は、とても賑やかで楽しかったわ」と言ってくれたことにホッとしていた。
 お土産に残ったゼリーを貰って帰った。ゼリーの箱はあまりに軽くて、雑に扱って崩してはいけないと、まるで好子さんの生活のような気がしてしっかりと抱えた。玄関先でずっと見送る好子さんを、何度も振り返り手を振った。皴皴の笑顔は、やはりどこか田舎の祖母に似ている気がして、胸がキュッと切なくなった。
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