第31話 コーヒー

文字数 4,998文字

 イブイブの祭日。貴哉がやってくるまでにはまだ少し時間があって、コーヒーを飲みながらぼんやりとテーブルの前に座わり、目の前に置かれているものを眺めていた。
 あのあと専務は専務らしく、私をタクシーで家まで送り届けてくれた。タクシーの中で並んで座っていても、やっぱり専務は専務らしく。特に何かの話題で盛り上がることもなく、お互いに流れる車窓からの景色に目をやり続けていた。
 スムーズとは言えない道路事情にイライラするでもなく。貴哉のようにすぐにスマホ取り出して自分の世界に入るでもなく。車内での私たちは、ただなにも言わずに時間を費やした。
 運転手さんは無言の時間が息苦しいのか、小さな音量でラジオをつけた。そこからは、よく知らない外国の曲が流れてきて、この空気を壊すほど派手ではないけれど、明るくテンポのある女性ボーカルの曲が、タクシーの中に光をあてるみたいに満たされた。
 そんな中でも専務は口を開くことは無くて、何を考えているのか不意に気になり、そっと視線を横へ向けるとこちらを見ていて驚いた。慌てて「すみません」と謝り視線を車窓へ戻した。
 見ただけで謝ると言うのもおかしな話だけれど。相手が専務だとそうしなくちゃいけないような気がしてしまう。未だに面接時の、あの怖い専務が私の中に潜んでいるからだろう。マンションへ辿り着くまでのタクシーの中で、私一人が一方的に言葉にしたのはたったそれだけだった。
 マンションの前に着き、お礼を言ってタクシーを降りた。タクシーが専務を乗せてゆっくり動き出すのを見送っていたら、ほんの数メートル動いた先で再びタクシーが止まった。開いたドアから専務が降りてこちらへ向かってくる。その手には、見覚えのあるものが握られていた。
「水野。前に車の中に忘れていっただろ」
 それは、以前。傘を忘れた土砂降りの夜、専務の車でこうやってマンションの前まで送ってもらった時に置き忘れてしまったハンカチだった。あれから随分と時間が経っていて、すっかり忘れていた。
「ありがとうございます」
 受け取ろうと手を伸ばしたら、そのまま手を握られて驚いた。
 決して力を入れて握られているわけではないけれど、振りほどくことができない。そのままゆっくりと目の前の専務へと視線を持っていくと、口元が何か言いたげにわずかな歪みを見せた。
 深夜の空気はむやみに静かで、物音を立ててはいけない決まりでもあるみたいに静寂を保っていた。
 唯一、専務を待つタクシーのハザードが、少しばかり離れた場所でカチカチと規則的な音を繰り返しているだけだ。
 目を逸らせなかった。握られた手が熱い。心臓の音が耳のすぐそばで鳴っている。
 どうすればいいのか、どうするべきなのか。解らないまま、タクシーのハザード音を聴いていたら、そっとその手を引かれた。ふわりというように、体が専務の胸に収まる。
 専務の煙草の匂いが近くなり、温かさが私の体を包み込んでいった。
 専務……。
 ハザード音は規則的で、まるで数を数えているみたい。カチカチカチ。あといくつ数えたら、この温もりは消えてしまうのだろう。そんな風に考える自分にハッとしたと同時に、専務の体がゆっくりと離れていった。
「引き止めて悪かった」
 やっぱり静かにしなくちゃいけない決まりがあるんだと思う。だって、謝る専務の声は消え入りそうで、ハザードの音にさえ飲み込まれそうだったから。
 何も言えず、ただ専務を見ているしかできなくて。専務も、それ以上の何かを言うでもなく踵を返した。
 専務を乗せたタクシーのテールランプが見えなくなったところで、自分がまともに呼吸をしていなかったことに気がついて深く息を吐き出した。

 コーヒーを一杯分だけ入れた。フィルターの端から細くお湯を注ぐと、部屋の中にいい香りがし始める。熱々のコーヒーに唇をつけ、少しだけ口にしてからカップをテーブルに置いた。
「あれって、なんだったのかな……」
 テーブルの上にいるハンカチに向かって訊いてみても、当然答えは返ってこない。手に取ると、ほんのりタバコの香りがした。
 専務に握られた手の感触は、未だにはっきりと残っていた。振りほどかなかった手。振りほどけなかった手。見つめてくる瞳。逸らせなかった瞳。抱きしめられた体。温もり。
 専務は何を考えているのだろう……。私に、何を言いたかったのだろう。専務が何を言おうとしていたのか考える心は、確かに何かを期待していた。
 専務のことを考えると、心がざわつきを見せる。心を落ち着きなくさせるノイズは、それを飛び越えてきて欲しいと思うような欲求を見え隠れさせた。
 コーヒーがなくなる頃、インターホンが鳴った。玄関ドアを開けると、普段なら寝ぼけてぼんやりしているはずの午前中なのに、すっきりとした表情をした貴哉が顔を出した。
「出かけるぞ」
 意気揚々としている貴哉へ、コクコクと頷いた。

 クリスマス絡みの三連休ともあって、街はとても賑やかだった。あちこちにクリスマスの飾りが施され、街頭のスピーカーからは定番のクリスマスソングが休みなく流れ続けている。もちろんの如く恋人同士もそこかしこにいて、みんな肩を寄せ合ったり手をつないだりとても仲が良さげだ。
 貴哉は、付き合った当初からあまり手をつないだりするほうじゃない。人前でのスキンシップが苦手なのだと思う。並んで歩きはしても、二人の手が繋がることはあまりなかった。
 隣を歩く今日の貴哉はとてもご機嫌で、まずはお互いのプレゼントを買いに行くぞー。と子供みたいにはしゃいでいる。そんな貴哉の手を見れば、昨夜の専務を思い出してしまう自分がいた。
 専務の手の感触や温度は貴哉と違う。同じようにゴツゴツしていて、同じように体温があるのに、専務と貴哉ではどこかが違う。どう違うのか、説明するのは難しい。手の大きさとか、関節のゴツゴツしたところとか。そんな見た目ではない違いが、二人にはあるように思えた。
 何が違うのかしばらく考えて、貴哉の手には迷いがないことに気がついた。いつもはっきりと物を言い行動する貴哉は、全てにおいて真っ直ぐだ。
 けど、同じようにはっきりしている専務なのに、昨夜握られた手には迷いがあった……気がした。引き寄せられ抱き締められた温もりにも、迷いが見えた気がする。
 タバコの香り……、専務の胸の温かさが、私の体を未だ抱き締めてでもいるように気持ちがおぼつかない。
「どした? 違う方がいいか?」
 気がつけば、バッグ売り場にいた。若い女の子たちに人気のブランドバッグは、高級すぎはしないけどそれなりの値段だから、自分で買うにはちょっと躊躇する金額だ。
「私には、似合わないかな」
 ピンク色のパステルカラーを施されたデザインは、もう少し可愛らしい女性にはいいかもしれない。それに、あまり高いものを買ってもらうのは気がひける。
 バッグ売り場を離れ、他を巡り、時々立ち止まり、私たちはお互いの欲しいものを探していった。化粧品売り場を歩いているところで、マニキュアに目がいった。
 そういえば、吉川さんはクリスマス合コンに備えて美容院へ行き、ネイルを綺麗にしているだろうか。うまくいくといいな。
 佐藤さんは、家族とクリスマスケーキを囲むんだろうな。佐藤さんは優しいから、子供の為に手作りのケーキを作りそう。
 専務は……。専務は、今日も仕事をしているんだよね。電話番に飽きてタバコを吸ったり、コーヒーを飲んで時間を潰しているのだろうか。眉間にしわを寄せて、パソコンの画面を睨みつけているかもしれない。
「結局、これを買わせるつもりか?」
 溜息まじりに、だけどおかしそうに言った貴哉の声にハッとして、目の前にあるものへ焦点が合う。そこにはアクセサリーが、店内のライトを存分に浴びてまばゆい光を放っていた。
「え。あ、ううん。ごめん、違うっ」
 誕生日にネックレスをもらったばかりだというのに、これでは遠慮がなさすぎる。慌てて離れようとしたら手を取られた。
「いいって」
 にこやかに引き止める貴哉だけれど、握られた手は昨日専務が握った場所と一緒で、なぜだか咄嗟にその手を振りほどいてしまった。
「千夏……」
「あ、えっと。ほら、この前ネックレス貰ったばかりだから」
 首元で光るネックレスに手を添えて笑ってみたけれど、どうしてか頬が歪む。貴哉はわずかに表情を曇らせたけれど、すぐに気を取り直したようにアクセサリー売り場から離れた。
「疲れたろ。結構見て歩いたもんな。コーヒーでも飲むか」
 ファッショビルの地下に潜り、飲食店の並ぶ通りを目指す。けれど、時期も時期だから、どこも満席でコーヒー一杯になかなかたどり着けない。
「貴哉、平気だよ。貴哉のプレゼント、探しに行こ」
 どこか意地になっているような貴哉は、私の言葉に耳を貸さず。絶対にコーヒーなんだっ。とばかりに、あちこち首を巡らせ座れるカフェを探した。
 そのおかげというのか、それから歩くこと数十分して漸くカウンターだけれど、座ることのできるカフェにたどり着いた。
 私を先に座らせてドリンクを注文しに行った貴哉の背中をわずかに見送ってから、歩き疲れてさすがに溜息がこぼれた。さっきは平気だなんて言ったけれど、歩き続けた時間を思えば疲れて当然の距離だろう。
 窓辺に向かうカウンター席で頬杖をつけば、また溜息がこぼれた。楽しいはずのクリスマスなのに、どうしてだろう。
 こうやって外を眺めていれば、街は楽しげな人たちで溢れかえっているし。自分も楽しみにしていたはずなのに、気持ちが上滑りしているみたいだ。ぼんやりと頬杖をついて貴哉を待っていたけれど、混んでいるせいでなかなか戻ってこない。
 あまりメッセージなど気にするほうではないけれど、スマホを取り出して貴哉のように暇つぶしがてら眺めてみたら、お母さんから届いていた。
 今まで特に触れてくることも無かったのに、年末年始に帰ってくるのかどうかと書かれていた。去年も帰っていないから、やっぱり気になったのかもしれない。
 メッセージには、言い訳のように「用意する料理のこともあるし」とか。「お婆ちゃんが会いたがってるから」とか。「お兄ちゃんにもずっと会っていないでしょ」とか。
 色々書かれている文がとても必死に感じられて、これらを言葉にして話す母親を想像すれば、きっととても早口だろうことが容易に想像できた。
 専務がくれた航空チケットのこともあり、母宛に少しテンション高めで帰ることを報告した。
 スマホをバッグの中へ戻していると、貴哉がトレーにカップを二つ乗せ戻ってきた。
「マジ混んでるし」
 コーヒーを飲むだけでこれだと、先が思いやられるとばかりに息をついてから、背の高いカウンター席に腰掛けた。
「カフェラテでいいだろ」
 最近は、ブラックを飲むことが多くなっていたけれど、貴哉はそれに気がついていない。
 以前は必ずカフェラテだったのに、ブラックの方が良くなったのはいつからだろう。考えてみたら、専務の車で倉庫へ行った時、買って貰ったアイスコーヒーはブラックだった。あの時は、ミルクを入れたけれど。そうか、会社の休憩中に飲むコーヒーがブラックだからだ。
 カフェラテや抹茶ラテ、バナナラテなんて変わり種も置かれているけど。いろいろ試してみて、最終的にはブラックに落ち着いたんだよね。
 吉川さんも佐藤さんも、それに専務も。みんなブラックだからというのもあるのかもしれない。影響されやすいみたいだ。
 貴哉は、同じカフェラテにスティックシュガーを半分だけ入れている。ブレないな。
 そう言えば、初めて休憩室に行った時、専務がふざけてバナナラテのボタンを押すふりをした時はおかしかったな。普段あんなにピリピリとして眉間にしわを寄せているのに、バナナラテって。イメージできないから。
「なんだよ。ニヤニヤして。なんか欲しいものでも思いついたか」
「え?」
 隣に座る貴哉が、顔を覗き込んでいた。そうだ。プレゼントだよね。忘れてた……。
 なんでもないと首を振り、カップに口をつけてから、ああ、カフェラテだったとミルクの甘みに戸惑った。
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