第30話 航空チケット

文字数 5,522文字

 今年のクリスマスは、うまい具合に週末に絡んでくれたおかげで盛り上がりもひとしおだ。普段、基本的には会社のショールームでの販売をしていない我が社も、クリスマスに至っては二十日から販売も行っていた。
 慣れない販売作業にオタオタする私とは違い、吉川さんも佐藤さんも手馴れたもので、簡易のレジ対応もワイン専用の紙バッグへの梱包も丁寧で早い。割れないようにプチプチに包むのなんて、デパートの人かと思うくらいの手際の良さだった。
「すみません。足手まといですよね」
「大丈夫よ。すぐに慣れるから」
 佐藤さんが柔らかく笑うと、吉川さんが「追加分を貯蔵庫からお願い」と手をあわせる。販売作業は足手まといでも、力仕事なら任せてください。とばかりに、力強く頷き二階へ向かった。
 頼まれたワインをクーラーボックスへドンドン詰め込み、力を入れて持ち上げる。以前、倉庫へ行った時よりは鍛えられたようで、ふらつきはしても持ち上げられた。
「転ぶなよ」
 ヨロヨロしながら歩いていたら、下へ降りたところで専務が笑っていた。笑うくらいなら持ってくださいよ。と吉川さん並に言ってしまいそうになって慌ててやめた。
 一応、相手は専務なのだ。
 一応などと思う時点で、専務に対する対応が吉川さんに近づいている気がしてまた少し笑えた。

「いつにも増して、売れてるね」
 ショールームを閉めて、レジ金を数えながら吉川さんが首をコキコキと鳴らす。
「景気が回復してるのかな?」
「少なくとも、私の財布の中身は少しも回復してないですよ」
 佐藤さんの言葉に吉川さんは、溜息をこぼしている。私も含め、その点に関しては何かと切実だ。
「イブイブの明日から、うちらは表面上会社も休みになるし、たくさん売れたのは良かったよね」
 販売しているワインと一緒に入れていた、会社の宣伝パンフレットをタンタンと整えて佐藤さんが笑っている。
 表面上というのは、一部の社員はクリスマス商戦に備えている販売元のために、当日は会社で待機するため、休みは後日振替となる。
「水野ちゃんは、彼氏とラブラブかぁ」
 レジ金を数え終わった吉川さんが、急に話をふってきた。
「ラブラブなんて、そんな」
 照れくささと一緒に謙遜したけれど、嬉しさが込み上げてきたのは事実だ。
「私はね、クリスマス合コンよ」
 力強く拳を握る吉川さんに、佐藤さんが頑張ってねと笑う。
「佐藤さんは、いいですよねぇ。結婚もしていてお子さんもいて、安定、安定」
 少しからかうように吉川さんが佐藤さんを見ると、「そうなのよね」とすんなり肯定されて返す言葉もないようだった。幸せだというのがよくわかる笑顔だ。
「水野ちゃん。私も幸せ掴んでくるからねっ」
 吉川さんが向き直り、私の肩を力強く掴むと決意を固めたように表情を引き締めた。金庫を抱えて事務所へと戻っていく吉川さんの背中を、佐藤さんと少しだけ笑いながら見ていた。
 貴哉は相変わらず、クリスマスの予定を教えてくれない。とにかく、予定は空けておくように。ということだけ言われている。
 どこかお店を予約してくれているのだろう。楽しみにしながら色々と想像し、帰り支度をしていたらスマホが震えた。貴哉だろうかと、慌てて会社から外に出て耳に当てる。
「もしもし」
 貴哉だと思い込んで通話に出たら、聞こえてきた声が専務で驚いた。
「少し時間あるか?」
「え? あ、はい」
 返事をすると、事務所から専務が出てきた。
「飯に付き合え」
 スマホから耳を離すと、専務が大通りに手を上げタクシーを止めた。

 二人を乗せたタクシーが止まったのは、カジュアルフレンチのお店だった。木目のドアは重そうに見えて、手を添えて開けた専務の動きで、スムーズに開閉していることから、見た目よりずっと軽いことがわかった。
「浅野様、お待ちしておりました」
 落ち着いた笑顔で迎えてくれたお店の人が、奥へと案内してくれる。席に着くと、ドリンクメニューと共にワイングラスが置かれ、フレンチピッチャーから水を注がれた。
「ここは、うちのワインを卸している店だ」
 言われて、入る時に見た看板の文字に見覚えがあったことに気がついた。
 へぇ~、という感じで、コクコクと頷いた。
「少しは、ワインの種類を覚えたのか」
「はい。と言いたいところですが、中々お財布の中身が心もとないので。あ、けど、それでも以前よりは、はい」
 上げたり下げたりしながら応えると、専務がワインのメニューを広げた。
「食前酒にシャンパーニュ。そのあとは、グラスで白。その後に赤だ」
 食事のメニューが決まっているのか、スムーズに注文をすませる。
 すぐに運ばれてきたシャンパーニュは、細長いシャンパングラスの中でいくつもの泡がパチパチと弾けては消えている。
「お疲れ」
 グラスを持ち上げた専務に倣って手にした。
「お疲れ様です」
 一口含むとほんのり甘い中に、これはマスカット? 香りが鼻を抜けていく。さっぱりとした後味なのに、後を引きもう一口飲みたくなった。そこへ前菜が運ばれてきた。
 小ぶりの透明なガラスカップに、スープのようなクリーム。その下にかくれていたのは、小海老たち。
「美味しい」
 スプーンで掬ったそれが、美味しすぎて思わず専務を凝視した。
「シャンパーニュが、この料理の味を引き立てている」
 その言葉に、確かにと頷き、もうひとくち。うーん。美味しいっ。幸せすぎる。
 夢心地になったところで、ふいに、今回はどうして食事に誘ってくれたのだろうかと疑問が浮かんだ。まさか、久しぶりにテイスティングでもされるのだろうかと身構えてから、目の前でパチパチと未だ弾けているシャンパーニュを一瞥し、ためらうように問いかけた。
「あの、専務。今日は、何かお話でも……」
 若干の上目遣いで訊ねると、少しだけ間を空けてから専務が応えた。
「俺は明日も仕事だから、イベントごとに付き合ってもらっただけだ」
 少し残ったシャンパーニュを飲み干し、目の前に座る私を見る。
 イベントごとって、クリスマスディナーに誘われたってこと?
 そんな想像をしてから、まさかなあなんていう否定も浮かぶ。専務くらいなら、付き合ってくれるような女性などいくらでもいる気がする。そもそも、十も年の離れた小娘を相手にして楽しいだろうか?
「迷惑だったか?」
「いえ。そんな」
 迷惑というよりも、私でいいのかと逆に訊ねたくなる。
 寧ろ。
「吉川さんとの方が、お話が合うんじゃないですか?」
 よくふざけてじゃれあっている二人を思えば、楽しそうに見えるからだ。
「なんで吉川……。あいつはガチャガチャと煩いから、落ち着かないだろう」
 ガチャガチャって。可笑しくてつい笑ってしまった。
「専務とお話ししている二人は、とても楽しそうに見えたので」
「そうか?」
 不服そうな顔をして首を傾げると、次の料理が運ばれてきた。ソムリエが新しいグラスを置き、白ワインを注いでくれた。
 真鯛のカルパッチョは、ソースがとても繊細だった。どうやったらこんなソースが作れるのだろう。私の舌では、どんなものが使われているのかほぼ解らない。貴哉が味見をしたら、何が使われているのか当ててくれそうな気がした。
「どうした?」
 タイの新鮮さとソースに使われている材料がなんなのかと考えていたら、フォークが止まっていた。
「ソースに、何が使われてるのかなと思って。貴哉なら……」
 思わず名前を出してしまってから、はっとして口ごもる。
「彼の名前か?」
「あ、はい。すみません」
「謝る必要はないさ。水野の中で、貴哉という彼は生活の一部というだけのことだ」
 生活の一部。言われて、なるほどと納得した。
 確かに、貴哉のいない生活など、今の私には考えられない。喧嘩した時に、それは嫌という程実感したことだ。
「専務には大切な人、いらっしゃらないんですか?」
 問いかけると、数秒の時間が止まった。さっきまで動いていたフォークが止まり、こちらをじっと見つめてくる。
 何かまずいことを訊いてしまったかな……。
 専務は目力が強いから、黙ってじっと見られると圧が凄い。吉川さんくらい親近感を持って接することができる間柄なら、何か言ってよ、とお茶らけて突っ込むこともできるのだけれど。そこに至るにはまだまだの距離感に、力強い目から視線を逸らすこともできず、何か別の質問にした方がいいのだろうかとたじろいでしまう。話題を変えようかと口を開きかけたところで、再び専務のフォークが動き出した。
「まー、いないと言うか、いると言うか……」
 いつもはっきりと物を言う専務が躊躇うなど、珍しい。どうしてかと考えていると、ワインを飲むよう促された。やっぱりこの話はよくなかったみたいだ。
「すっきりとした飲み口ですね。家では赤ばかり飲んでいるので、白は新鮮です」
 促されて口にした白ワインは、赤ばかり飲んできた舌にピリッとするようなすっきりした新鮮な味わいを感じさせた。
「ソーミュール・ブラン。石灰質系の畑で育てられた白ワイン用のブドウ品種。シュナン・ブランだ」
「ソーミュール・ブラン」
 繰り返し言って、もう一度口に含む。すっきりとした中に爽やかさもある。
「とても美味しいです」
 にこやかな表情の専務も、ひと口含んだ。
 魚料理が運ばれてきた後は、お口直しの小さなシャーベット。それが済むと、今度は肉料理だ。この時点で、すでにお腹がいっぱいになり始めていた。
 量は大したことはないのだろうけれど、ゆっくりと出てくる料理のスピードに、満腹中枢が反応しているのかもしれない。
 貴哉と食事をすると、競争のようにがっつかれるから、こっちも自然と食べるスピードが上がって満腹中枢が反応する前に食べ終わることが多い。そもそも、こんなおしゃれなお店でゆっくりと食事を堪能するなんてことはほとんどない。
 お肉料理にあわせて、今度はボトルで赤が運ばれてきた。
「ヴォーヌ・ロマネ 2007 ダニエル・リオン・エ・フィス」
 専務が噛み砕くように、ゆっくりと言った。
「美味しい」
 一口飲んで、またうっとりしてしまった。
「ブルゴーニュのヴォーヌ・ロマネだ」
「牛肉にとても合います。なんていうか、お嬢様みたい」
「お嬢様?」
 私の表現に、首を傾げて口角を上げた。
「代々続く旧家のお嬢様ですよ」
「わからん」
 笑いながら背もたれに寄りかかる。
「あ、エレガントなんです。とても上品」
「なるほどな。水野の表現は時々面白くて、新しい発想を貰えるよ」
「あれ。なんかちょっとバカにしてません?」
 笑いをこらえながら話す顔にそう言うと、そんなことはないとばかりにすました顔がわざとらしい。
 お酒も入り、益々専務のご機嫌がよくなっている。私自身も、シャンパーニュから始まって赤ワインまで進むと、とても気分がよくなっていた。
 カゴに傾けられて置かれているワインのボトルも、中身は半分ほどまで減っていた。
「そう言えば。飛行機のチケットはどうした」
 コース料理を充分に堪能し、デザートのケーキをホクホクとした顔で頬張っていたら、コーヒーのカップに手を伸ばしたままの専務が訊ねた。
「今回は諦めました。キャンセル待ちで予約してみましたけど、行きは取れても帰りが取れなくて。休み中に戻ってこられそうにないので」
 笑いながら肩を竦めると、専務がジャケットの内ポケットへ手を伸ばした。
「なら、これを使え」
 テーブルの上に置かれたのは、航空会社の名前が入った、よく見るチケットの収まる封筒だった。驚きながらも手を伸ばして中を確認すると、往復の航空チケットだった。
「これ……」
 驚きと戸惑いで専務の顔を見た。
「ジュニアだからな。そこそこの伝手(つて)はある」
 あえて冗談まじりに言っているけれど、わざわざ手配してくれたことに変わりはない。
「ありがとうございます。あの、今手持ちがないので。専務は明日、会社におられるんですよね。チケット代持っていきます」
 常に財布の中身が乏しい自分が情けない。申し訳なさに苦笑いを浮かべてしまう。
「要らないよ。吉川に言わせれば、俺の財布には札束が詰まっているらしいからな」
 口元に手を持って行き、自分で言いながら笑っている。けれど、こんな高いもの貰えない。ワイングラスだって貰ってしまって、身内でもないのに甘え続けるわけにはいかないだろう。
 でも……。というように口を開こうとしたら、遮られた。
「代金なんて、必要ない。その分、今まで以上に仕事を頑張ってくれればいい」
 すっきりとした顔できっぱりと断られてしまえば、これ以上食いさがるのも逆に失礼だろうとありがたく頂く事にした。それでも、申し訳なさが顔に出ていたのだろう。
「今日も飯に付き合ってもらったしな。クリスマスのプレゼントだとでも、思っておけばいいさ」
 今日も、という言葉に。そう言えば、入社してすぐの頃も、和食をご馳走してもらっていたことを懐かしく思い出した。
 それにプレゼントなんて。誕生日の時と同じだ。何かとこじつけして助けてくれたり、喜ばせてくれる専務の存在に、感謝しても仕切れない。
 吉川さんが言っていた通りだ。入社した時の怖いイメージが、少しずつ払拭されていく。
 専務が用意してくれた航空チケットは、ベッド脇にある小さな小抽斗の中へ、その日までありがたく保管することにした。
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