第3話 優しいのは知っている

エピソード文字数 3,690文字

 いつもは絶対に行かない少し高級なスーパーにやってきた。マダムと言われるような人や、芸能人がいくような場所だ。目の前を通る時には、恐れ多くて伏し目がちになるような、そんなスーパーに行こうと言いだしたのは、貴哉だった。
 田舎のスーパーでは、絶対に見かけない種類の食材。高級な鮮魚や精肉。陳列の仕方も完璧で、値段はもっと完璧だ。
 カートにカゴを乗せて店内に踏み込めば、入り口付近に陳列されている野菜が瑞々しい。
「高っ!」
 声を潜めながらも、貴哉が正直な心の声を四百円近くするキャベツに向かってこぼし、咄嗟にボトムの後ろポケットに入っている財布を右手で押さえた。
 私は、半歩後ろで静かな笑みを洩らす。
「ここじゃなくてもいいけど」
 可笑しさを噛み殺して言ってみても返事がない。自分から行くと言った手前、今更やめるとは言い出しにくいのだろう。貴哉は時々、こういったことで片意地を張ることがある。
「いや。ここのキャベツは、かなり旨そうだからここにする」
 キャベツを買う予定はないのだけれど、まるで自分へ言い聞かせるように何度も頷いている。
「トマト好きだよな」
 ここ最近の流行のようで、トマトはたくさんの人に好まれているようだ。テレビをつければ、どこそこのトマトがおいしいといった番組にぶつかることもしばしばだ。
 こんな風に流行る前からトマト好きの私にしてみれば、スーパーでこれだけ色々な種類が並んでいるのを見ただけでワクワクとしてしまう。
 ただ、今はムシャムシャとたくさん食べられはしないけれど。
 高級スーパーに置かれているトマトの種類にワクワクとしながらも、さっきから少しずつ強くなりだしている頭の痛みに表情が曇りだす。
 鎮痛剤、バッグに忍ばせてくればよかった。吐き気が出なければいいけど。
 カートに手をかけてトマトを物色している貴哉の、半歩後ろに立ちながら眉間に皺が寄る。
「あんまりでかくない方がいいんだっけ?」
 振り返ることなく訊ねる貴哉に、「うん」と小さく返事をする。
「プチトマトってやつだよな。あ、このフルーツトマトって、甘いってことか?」
「多分」
 応える声が震えだす。
 トマトのパックを一つ手にして、マジマジとトマトを見る貴哉は、そうしていれば甘味さえも感じられると思ってでもいるみたいに、手の中のトマトをいろいろな角度から眺めている。
 そんな貴哉の姿を半歩後ろから眺めながら、気持ち悪さに貧血がおき始めているのをどうにかしたくて、必死に両足に力を入れて立っていた。
「よし。決めた。これにする。あ、あと、肉だな。トマトだけじゃ栄養足りないだろ。奮発して、牛だな、牛。あ、けどここの牛は、まずいか……。豚でもいいか。ビタミンB1でスタミナだ。ヘロヘロになった体にもってこいだろ」
 満面の笑みで振り返られれば、反射的に口角が上がってくれて助かった。
 私の笑みに満足したのか、マーチでも流れているみたいに貴哉は歩き出す。
「よしっ。次は肉だ」
 タッタカタ タッタカタッ。
 貴哉の脳内では、軽快に行進曲が鳴っているようだ。
 カラカラと小さなタイヤを回転させてカートを押す貴哉は、まだ私の状況に気がついていない。
 綺麗に磨かれたガラスの奥に並ぶ精肉は、やはり普段では到底買うことのない金額だ。サシもきれいに入っている。
「やっぱりな」
 ガラスに対峙して腕を組み、ふむふむとグラム千円近くの牛肉を睨みつける。
 少しだけ悩んだようだけれど、すぐにトコトコと先にある豚肉のコーナーへと移動した。そんな貴哉の後ろをついて行く。
 私の脳内ではマーチではなく、帰ってきたヨッパライが流れていた。音楽は軽快だけれど、もう死んでしまいそうなくらいきつい。
「バラか? 脂身あったほうがうまいよな。俺がスタミナ丼作ってやっからな」
 意気揚々と豚肉を注文し、包まれた豚肉の値段に少し息を飲んでいる。
「豚でも結構いくな……」
 ボソリとこぼした貴哉の言葉に、すでに笑いを返す気力は無くなっていた。
「……貴哉」
 名前を呼んだつもりだけれど、声になっていなかったのか貴哉は気づかない。息を少し吸って、もう一度呼ぼうとした。
「たか……」
「ん? って、おいっ、千夏《ちか》っ! 千夏《ちか》っ!!」
 貴哉の叫ぶ声が、遠くに聞こえていた。

「はあっ、はあっ、はあっ」
 フルマラソン並みの息遣いが聞こえてくる。乗り心地はけしてよくないけれど、この吐き気さえなければ背中の温もりは心地いい。
「気持ち悪い……」
「おお……、気がついたか……はあっ、はあっ、はあっ」
 貴哉の後頭部から香る汗の匂いに安心感を覚えてから、首を少しだけ動かして見てみれば、自宅マンションまでもう少しだった。
「鍵」
「バッグの中」
「開けるぞ」
「うん」
 貴哉は断りを入れて、私のバッグから鍵を捜して取り出した。いくら恋人だろうと鞄を勝手に開けたり、スマホを見たりしてはいけない。それが貴哉の中での決め事だ。
 けど、冷蔵庫は勝手に開けるよね。そう言ったら、食べ物は別だと。よく意味のわからない言い訳をしていたのを思い出したらおかしくて、気持ちの悪さを少し紛らわせることができた。
 貴哉が私を背負ったまま鍵を使って開けた家の中は、 七月の熱気がこもっていて息苦しい。スーパーから私を背負ってきた貴哉の額からは、粒状の汗が次々と浮き出ては流れていく。貴哉が流れ出る汗を、手のこうで乱暴に拭う。
「タオル」
 バスルームにあるタオルを取りに行こうと、貴哉の背中から降りて歩き出そうとしたら、手だけで制された。
 自分で取りに行くからベッドへ行けとばかりに、視線を部屋の奥にあるふかふかの布団へとやる。
 貴哉の視線に従って、倒れこむようにふかふかの中に埋もれた。
 田舎では、暑いと言ってもたかが知れていた。いや、たかが知れていると感じたのは、東京に出てきてからだ。住んでいる時は、夏は充分に暑かった。けれど、クーラーがなくても、扇風機だけで過ごすことができていたし。窓を開ければ、涼しい風が入り込んできていた。太陽の光は眩しかったけれど、建物よりも自然の方が多かったから照り返しも少なく。ヒートアイランドなんて言葉は、こっちに来て初めて知った。
 バスルームの棚からタオルを手に入れた貴哉は、額や首回りの汗を豪快に拭った後、そのまま首に巻きつけた。テーブルに置かれているリモコンを手にして、エアコンのスイッチを入れる。
「薬は? あんのか?」
「うん」
 ベッドに倒れこんだ私が、窓際の棚の隙間に差し込んでいた薬局の名前の印刷された袋を取りに立ち上がろうとすると、その動きだけで場所を察知して薬を見つけ出した。まるで、とても気の利く奥さんみたいだ、と言ったら笑ってくれるだろうか。
 グラスに水道水を入れて、薬の袋と一緒に貴哉がそばにくる。
 貴哉がいなかったら痛みと吐き気で、ベッドの上で何度も呻きながら、ゴロゴロと落ち着き無く動き続けるところだけれど、あまり心配も掛けられなくて、薬を急いで飲み早く治れと呪文みたいに何度も心の中で唱え続けながら丸まっていた。
 そうしているうちに薬が効いてウトウトとしてしまったらしく、目が醒めると貴哉はいなくなっていた。
「貴哉……」
 気配を感じられなくて、知らない場所に一人取り残されたような寂しさと心細さに名前を呼んだ。痛みと吐き気は治まっていた。
 トイレから出てこないかと少しの間待ってみたけれど、エアコンの静かなうねる音だけが聞こえるだけだ。
 小さく息を吐くと、ここ数が月で諦めたいろんなことを吐き出したような気がした。
 薬のせいか喉が湧いて玄関の側にあるキッチンへ行くと、遠慮のかけらも無くガチャガチャと大きな音を立て外から鍵が開けられ心臓が跳ねる。
 驚きに固まっているとドアが開き、貴哉の姿が現れた。
「おう。目が覚めたか。具合どうだ?」
 驚きがまだ少し治らないまま立ち尽くしていると、靴を脱いだ貴哉の手には、さっき行った高級スーパーの袋が握られていた。
「トマトと肉だ」
 ニカッと笑うと側に来て、キッチンに袋を置いた。
「店員に訊いたらさ、こっちの方が甘いんだってよ」
 袋ら取り出したトマトは、煌びやかな名前の付いた、プチトマトよりも少しだけ大きめのものだった。
「で、豚も買ったけど、やっぱ牛にした」
 やべーよ、俺。ちょー優しくね? と笑いながら鼻歌まじりに牛肉を取り出すと、ステーキだ。としっかり貰ってきた牛脂を二つ取り出してまたニカっと笑うから、私もニカっと笑えて、少し食欲が出てきた気がした。
 値段の高い豚肉は、貴哉によってそのまま冷凍庫へと放り込まれた。
 貴哉の焼いてくれた牛肉はとても美味しかったけれど、今の私にはまだ早かったみたいで一切れしか食べられなかった。
 代わりのように、トマトはとても甘くて、一人で半分も食べられて、そんな私を貴哉が満足そうな顔で見ていた。
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