第32話 不安の伝播

文字数 3,592文字

 混み合っている店内の様子も気にとめず、私たちはカフェにしばらく留まった。私が欲しいものをはっきりと言わないせいで、貴哉は得意のスマホで何がいいのかと色々検索してくれている。
「貴哉は、なにが欲しい?」
 スマホを操り続ける貴哉へ訊ねると、顔を上げてニカっと笑う。
「俺はね、新車」
 笑いながら、誕生日のワイナリーで言ったのと同じ冗談を口にした。
「それはもういいから」
 笑い飛ばせば、貴哉は気を取り直したように居住まいを正した。
「まー、新車はいずれだな」
「だから」
 クスクス声を出して笑っていたら、不意に貴哉が穏やかな表情で口を閉ざした。何? というように首をかしげたら、頬に手が伸びてきた。
「さっきから、あんまり笑わないから。よかった」
 言われて、ドキリとした。貴哉の手はそっと頬に触れ、瞳をまっすぐ見つめてくる。その仕草も見つめる瞳も大好きなはずなのに、どうしてか心は落ち着かない。
「何言ってんのー」
 落ち着かなさを振り切るために、キャラキャラと声を上げて笑うと、貴哉の瞳が伏せられ自然と頬から手が離れていった。
 温もりが逃げていくことに、胸が苦しくなっていく感覚がとても複雑だった。貴哉から目の前にあるカップに視線を外してから、既に空になっていることを思いだし、外を眺めた。そんな私を貴哉が見続けているのがわかっていても、視線を戻すことができない。
 少しすると貴哉から諦めたような気配を感じ、小さく息が漏れるのがわかった。
「行くか」
 二つのカップを再びトレーに乗せて、貴哉が席を立つ。倣うように私も立ち、混み合った街へともう一度繰り出した。
「やっぱ、さっきのバッグにしようぜ」
 外に出てすぐそう言った貴哉は、私の手をしっかりと握り歩きだした。いつも繋がない手の感触に戸惑う間も与えず、貴哉はサクサクと人波をくぐり向けていく。私は遅れないようにと、早足でついていった。
「可愛すぎない?」
 目の前にしてみると、パステルピンクはやっぱり可愛すぎて気恥ずかしい。柔らかな桜色をしたバッグには、シルバーのハートやリボンチェーンがぶら下がり飾られていて、持ち歩く自分を想像すれば気恥ずかしさしかなかった。
 可愛すぎる目の前のバッグには手を触れず、クルッと店内を見まわしてみると、夏に流行った少しばかりクールなデザインの型落ちバッグに目がいった。
「あれ」
 指をさすと貴哉がそちらへ向かって行き、飾られているバッグを手にした。
「これ、前のだろ。どうせなら、新作の方が良くね?」
 若干不服そうな顔だ。
「私が使うんだから、いいの。これにする」
 値段も新作よりは少しだけ安い。納得していないようだけれど、使うのは私だからともう一度言うと、承諾してくれた。
 新車が欲しいとふざけていた貴哉は、初めからプレゼントを決めていたようで、お気に入りブランドの二つ折りの財布になった。
 お互いのプレゼントを持ち、遅めのランチを食べたあとは、カラオケやボーリングに行った。私たちは、まるで日頃のストレスを解消するみたいにはしゃいだ。

「さーて。メインの飯に行くか。一日早いけど、いいだろ?」
 イブイブの方が、予約が取りやすかったのだろう。頷いて貴哉の後をついて行き、たどり着いたお店の前で息を飲むことになる。
「ここ……?」
「おうっ」
 戸惑う私を見て、高級感ある佇まいに怖気づいていると思っているみたいだ。
 貴哉が張り切って木のドアを開けると、「いらっしゃいませ」と紳士的に声をかけられた。予約を入れていた名前を告げると、後ろに控える私に視線を向けたお店の人が、少しだけ目を大きくした。
 それは気づくか気づかないかくらいの変化だったけれど、私はとても気まずくて、俯き加減で貴哉の後をついて行った。
 料理は、クリスマス用に決まっているようだった。昨夜のように、飲み物のメニューだけを決めることになる。
「ここは、千夏の出番だ。好きなの、頼んでいいぞ」
 俺はよくわからないからな。と知らないことに何故か得意げな顔をして、ドリンクメニューを私に差し出してくる。
「えっと……」
 まさか専務に連れてきてもらったお店と同じだなんて、動揺しすぎてメニーを見てもちっとも頭の中に入ってこない。メニューをめくる手もうまく動かなくて、気持ちだけが焦った。
 どうしよう。
 流れるように書かれたワインの銘柄を、ただ目で追うだけの私に助け舟を出してくれたのは、さっき案内をしてくれた店員さんだった。
「本日のお料理には、こちらなど合いますが、いかがでしょうか?」
 何もなかったように振る舞う店員さんへ向かってコクコクと頷き、勧められるままに決めた。
「自分で選ばなくてよかったのか?」
 店員さんとのやり取りを、何も言わずに黙ってみていた貴哉に訊ねられて、まさか昨夜もここへきていることを言えるはずもなく、無駄に笑みを貼り付ける。
「ほら。私まだまだ勉強不足だから。お店の人がどんなものを選ぶのかも、勉強になるし」
 焦った時の癖が出て、自然と早口になる。
「千夏がいいなら」
 折角貴哉が予約してくれたというのに、昨日も来ていただなんて、とても言えない。
 料理は昨夜と似たものもあったけれど、全く同じという事もなく、もしかしたら、同じものをなるべく出さないように、お店の方で気を使ってくれたのかもしれないと思うと、それでまた気が引けた。
「ワイナリーのとこのレストランでも思ったけど。たまには、こうやって高級なものを食べるのもいいな」
 ご機嫌な貴哉はフォークをあまり休ませることなく、料理を口に運び、時々ワイングラスに手を伸ばす。それは、まるで昨夜の自分を見ているようだった。
 ここへ連れてきてもらい、美味しそうな料理と専務が選んでくれたシャンパーニュや白ワインに赤ワインをニコニコと堪能した。どれも美味しいし、料理にも合っていた。口の中に広がるワインの香りや渋みや重み。それを堪能している目の前では、専務がワインの知識を話して聞かせてくれて、とても楽しかった。話を聞きながら、もっともっと勉強しなくちゃ。おいしい料理も一緒に食べて、知識を広げたいって思っていた。
「さすがだよな」
 昨夜の記憶を思い起こしているところへ、貴哉の声がして我にかえる。
「え?」
 何がさすがなのかわからなくて、貴哉の顔を窺い見た。
「料理と一緒に飲むと、めちゃくちゃ美味いな」
 口角を目いっぱいに上げると、グラスのワインを飲み干した。その様子を見て、お店の人が選んでくれたワインが料理にとても合うから、さすがと言ったのだろうと理解した。
 言葉の意味がわかって、そうだねと返したら、わずかの間が空いた後に貴哉が口を開いた。
「あんま、好みじゃなかったか?」
 進まない料理に、目の前から不安な顔を向けられて慌てた。自分の前にあるお皿には、一度しかフォークをつけていなかった魚料理が、ほぼ出てきたままの形を保っていた。
「そんなことないよ。美味しいよ」
 貴哉を前に、慌ててフォークを動かすと、カチャリと貴哉がフォークを置いた。
「無理しなくていいぞ」
 口からもれ出た言葉はとても静かで表情に笑みはなく、代わりのように小さな息が吐き出された。
「体調でも悪い?」
 訊ねられて、何故だか泣きそうになりながら首を振った。
「前みたいに、具合が悪くなってからじゃ遅いからな。辛いなら仕事なんて、また変えればいいんだし」
「違う……、違うよ。今の仕事、楽しいもん」
 何を必死になっているのか。こんな静かな場所で、少しばかり声が荒くなる。
 そんな私を見て、貴哉が目を伏せた。そのまま黙り込んで何も話さなくなってしまうんじゃないかって不安になるくらい、貴哉は視線を伏せたまま静かになってしまった。
 さっきまで軽快に動いていた貴哉のフォークは、テーブルにくっ付いてしまったように静止している。いっきに不安が押し寄せて、何か言わなくちゃと思っても何一つ言葉がみつからない。
 そこで、ようやく伏せていた貴哉の視線が私と合った。
「そっか……」
 不安にかられて泣き出しそうだったけれど、目の前の貴哉の方が寂しげな瞳に見える。
「ごめんね。大丈夫だから。あ、ほら。お口直しのシャーベットが来るよ」
 焦る私の早口を、貴哉は黙って聞いている。運ばれてきたのは、レモンのサッパリとした小振りのソルベ。それを食べればお肉料理が運ばれてくる。昨日と同じなのに、違う。
 私だけが、落ちつかない心を抱えていたはずなのに。気がつけば、朝から笑顔でご機嫌だったはずの貴哉の表情は曇り始めていた。不安に落ち着かない心が伝播してしまっていることに気づいても、どうすればいいのかわからずにいた。
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